南華密教ブログ (なんげみっきょうぶろぐ)

南華密教を根幹に据え、風水をはじめとする中国五術、中国思想全般について、掛川掌瑛が語ります。

『般若心経は間違い?』の間違い (一)

2007年09月11日 | 仏教
『般若心経は間違い?』の間違い (一)

 アルボムッレ・スマナサーラ長老が『般若心経は間違い?』(宝島社新書)という本を出されました。

 スマナサーラ氏は以前にも『仏弟子の世間話』という本のなかで「色即是空」は正しいが「空即是色は間違い」と述べ、当ブログでは“エッ!「空即是色」は間違い?”という記事で、その内容に反論を加えました。

 このときスマナサーラ氏が「空即是色は間違い」であるとして揚げた比喩が、「人はみな死ぬ」が「死ぬものはみな人」ではないという奇妙なもので、今回も、「リンゴは果物である」というのは正しいが「したがって、果物はリンゴである」というのは間違い、などと“玄奘訳”『般若心経』には当てはまらないことを言っています(中村元さんの訳文については当てはまるかも知れませんが)

 『般若心経』で「色即是空、空即是色」というのは、「A=B、B=A」と言っているのであり、どうしても比喩にしたいなら「生き物はみな死ぬ、死ぬものはみな生き物である」と言わなければなりません。
 さらに今回スマナサーラ氏は、「色」を「肉体」と訳しています。ここで言う「色」とは「肉体を通じて感知しうるあらゆる存在と現象」のことであり、「肉体」と訳しても間違いとは言い切れませんが、文脈から見たら、「あらゆる存在と現象」のほうを取らないと意味が通じません。
 岩波文庫の中村元さんの訳でも「物質的現象」としており、「肉体」とは言っていません。だいいちスマナサーラ氏自身も『仏弟子の世間話』のなかでは「物質的現象」と言っておられます。
 このように、文脈的に通じない訳語を選んでおいて、意味が通じないから「間違っている」と言うのはいかがなものでしょうか。

 しかし「色即是空」を「存在や現象(の感知)はすなわち関係(を認識すること)である」と訳せば、色と空は完全にイコールですから、当然「空即是色」も成り立ちます。つまり、A=BならB=Aという関係になります。『般若心経』−漢訳とサンスクリットの違いより)


 『般若心経』の解釈については、“『般若心経』−漢訳とサンスクリットの違い”、“続 『般若心経』−漢訳とサンスクリットの違い”という、本ブログの二つの記事で説き尽くしていると思いますが、今度のスマナサーラ氏の本にそれが反映された様子はありません。
 スマナサーラ氏自身が日本語が自由に読み書きできるかどうか分かりませんが、今回の本でも「『般若心経』について、いろいろな人が解説していますが、どれもイマイチ納得できません」(「はじめに」P.4)と述べておられ、この点は当ブログとしても、スマナサーラ氏と共通の認識を持っております。
 であるならば当ブログの見解も読んだ上で『般若心経』を論じていただきたいものです。
 
 とは言うものの、このブログのような不人気?ブログでは、もともと読む人も少ないし、無視されるのも仕方がありません。
 そこで出来るだけ詳しく、この本『般若心経は間違い?』に反論を加え、『般若心経』のより正しい理解を少しでも広めることができればと思います。


 はじめに 般若心経は難しい?(『般若心経は間違い?』P.3〜6)より
(引用開始)
 じつは「般若心経」はわからなくて当たり前なのです。それはお釈迦様、正統覚者である釈迦牟尼ブッダその人が語った経典ではないからです。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 お釈迦さまは誰でも理解できる言葉で、真理、すなわち「普遍的で客観的な事実」を完全に語りました。
 ブッダ以外、完全に真理を語れる人はいません。
(引用終わり)

 ここを読むと、これは「信仰」であって、論理とか哲学とかいうようなものではありませんから、論争も批判もしようがないかも知れません。
 しかし、“真理、すなわち「普遍的で客観的な事実」”というのは、明らかに間違った認識です。それに、“ブッダ以外、完全に「普遍的で客観的な事実」を語れる人はいません”となると、ほかに語れる人がいない「普遍的な事実」とは成立しうるのか?という疑問も生じます。
 それとも、「空即是色」のときと同じように、「真理」とはすなわち「普遍的で客観的な事実」であるが、「普遍的で客観的な事実」がすなわち「真理」とは限らない、とでも言うのでしょうか?

 「空」とは、「どのような存在や現象も絶対的なものではない」という考え方を表すものですから、「普遍的で客観的な事実」と見えるものも、ただそう見えるだけのことで、それもまた「空」であり、絶対的なものではありえません。
 スマナサーラ氏は「真理」と言いますが、たとえお釈迦さまの言葉だとしても「真理」と見えるものもまた「空」に過ぎません。

 ならば「空」こそは「真理」ではないか?と思う人がいるかも知れませんが、「空」つまり「関係」だって絶対的なものではなく、「色」つまり肉体がそのように感知した結果として「受・想・行・識」が働き、何らかの「関係」として認識されるのですから、「空」もまた「色」に過ぎない、つまり「空即是色」であり、「真理」と言えるような絶対性はない、というべきです。
 

<次回に続く>
| 仏教 | 18:24 | comments(15) | trackbacks(0) |

 

 
 
“ブッダ以外、完全に「普遍的で客観的な事実」を語れる人はいません”

そうであれば、私は、「仏陀の完全な言葉」を聞いているのか、
はたまた、「不完全で、主観的な言葉」を聞いているのか、どちらかになります
「ある程度、完全」という概念は成り立たないのだから
完全な、真理を認めうる知性(智慧)をもってしても、
不完全にしか表せないのでしょうか ?
( 長老様 あなたのことです )
それよりも、
「 完全にしか、理解しない、執着からの言葉を、
私(私達)は聞いている 」  
と、理解するほうが正確ではないでしょうか

これでは、「 盾と矛 」
(この比喩の引用は、楞伽のかたにはわかり難いかも)
仏陀の縁起とは、
「 自己の否定を内在する、二律背反としての、絶対的真理の実存の法 」
と捉えてみると、
長老の言葉は、自己執着の自己肯定になりそうな気がします
| 春間 則廣 | 2007/09/11 10:17 PM |

 色を物質的現象とするならば、そこに心理的現象や意識はあてはまらないのではないでしょうか?

 そして、心理的現象や意識も空であると思います。

 西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一性がそれを表していると思います。

 そう考えると空即是色は成り立たないと思います。
 
| たか | 2007/09/21 8:09 AM |

 
 
コメントありがとうございます。

春間さま

 「諸行無常、諸法無我」は仏陀の説いた「真理」である。
 という仏教の命題は、「真理」なのでしょうか。


たか様

>色を物質的現象とするならば、そこに心理的現象や意識はあてはまらないのではないでしょうか?
>そう考えると空即是色は成り立たないと思います。  

 その通り、矛盾です。
 この矛盾を解決する方法は、「そう考えない」ことです。
 もし「そう考える」と、「空即是色」ばかりか「色即是空」も成り立ちませんし、玄奘三蔵や鳩摩羅什の頭が狂っていたことになります。
 
*このコメントは修正されております。
| 南華 | 2007/09/22 8:53 PM |

 たびたびお邪魔します。

 例えば、物理的現象(色)と心理的現象(意識、感覚)はともに空であるとした場合、色即是空は成り立ちます。

 しかし、空は物理的現象(色)であるとした場合、心理的現象は空ではないということになります。

 そのため、心理的現象(意識、感覚)も空であるとした場合、空即是色は成り立たなくなります。

 問題は、心理的現象(意識、感覚)が空であるか、そうでないかだと思います。

 もし、空であるのは物理的現象のみである場合、色即是空、空即是色は成り立ちます。

 
| たか | 2007/09/30 10:24 PM |

たか様

 つまり、「色=空」という等式が成り立つように、「色」と「空」を定義できなければ、『般若心経』を解読できなかった、というだけのことです。
 
 さらに、『般若心経』は「色=空=受想行識」と述べており、もともと「物理的現象」と「物理的以外の現象」という区別はない、ということになります。
 
 そもそも「物理的現象」というような蓋然性(実有)を認めないのが「空」という思想ではないでしょうか。
| 南華 | 2007/09/30 11:16 PM |

「確認」されている事を見逃していました

まず、お断りしておきますが、
私は、真理の論理を練っているわけではありません
(己自究明ではあるが)日々に生きているだけです

>「諸行無常、諸法無我」は仏陀の説いた「真理」である。
 という仏教の命題

この文章は、どこに応えるか、曖昧なところを残しています
(あなたがその様に意識していなくても、トラップがあります)
(その様に見つめる、“煩悩”は持ち合わせています)

(とりあえず、それはおいておいて)

まず、それが、仏教の命題であるかどうかを私は知りません(どうでもよいことです)
よって、その点の質問であれば、答えられません
誰が説いた「真理」かは、これまた、どうでもよいことなので、これにも、答えません
「諸行無常、諸法無我」については、真理かどうかは、受け取る人の生き方によって、その人の選ぶ価値観によって真偽が決まります(真理か、否かです)
私にとって、真理であることでも、あなたが違うといえば、
それまでです
私は、その立場(諸行無常、諸法無我の法)から、物事を捉え、行いを積んできて、今積んでいます
というより、考えてみれば、今はその様に受け取っています

今、自らがしている事を、自らの真実と捉えなければ、
真理は、虚空に漂います

「真実不虚」とは、そこをあらわす言葉です

「故 説般若波羅蜜多」です


結局、答えることができていませんね ! ( 悪しからず )
| 春間 則廣 | 2007/10/04 2:28 PM |

春間様

 ご返答ありがとうございます。

 トラップと言われますと、そうかも知れません。
 トラップにならないように質問しなおすとすれば、

 「諸行無常、諸法無我」は、仏陀の説いた「真理」である、と、仏教徒の間では信じられていると思いますが、自分も仏教徒であろうとする人は、それを「真理」および事実として受け入れ、そのように信ずるべきでしょうか。

 「仏教徒」は「仏弟子」「仏教者」など他の言葉とおきかえていただいてもかまいません。


 また、「諸行無常、諸法無我」について、

 「無常」とは「生滅する」「生滅しない」「生滅するとは限らない」「その他」のうちどれでしょうか。
 「無我」とは「自性はない」「自性があるとは限らない」「自性はあるが認識できない」「その他」のうちどれでしょうか。

 「その他」の場合は、その内容もお願い致します。

 答えがあるから質問がある、というところで、いかがなものでしょうか。
| 南華 | 2007/10/04 5:45 PM |

南華 様

答えを持っているなら質問しなくてもよいのではないでしょうか

私の理解度(理解の内容)を、調べたいのであれば、
すでにある、私の書き込みから勝手に推測してください

まずは、自分の理解するところを、マニカナの道場でも、広場にでも書き込んでください
つまらない意見だと思わない限りは、コメント書き込みをつけます
そこから、私の行いを量ってください
| 春間 則廣 | 2007/10/04 6:04 PM |

春間さま

 「答えがあるから質問がある」というのは、「縁起」としてそうなるのではないですか?
 
 せっかくお答えをいただいたので、そのお答えに合わせて、質問を書き直したのですが、何かお気に障りましたでしょうか?

 もちろん、自分なりの答えは持っていますが、自分のブログで連日記事を公開しておりますから、答えを持っているのは、先刻ご承知と思います。

 そちらさまから、私のブログににコメントをいただいたのですから、当然の礼儀として、ご返答しているのですが、こちらから質問する形式になってはいけないのでしょうか。
 最初にいただいたコメントは、「長老さま」あてになっているようで、返答しにくかったのですが。
| 南華 | 2007/10/04 7:11 PM |

南華 様

ちょっと食い違いが起きていますね、、、、、

貴方が、仏教で疑問に思うこと、理解しにくいことがあれば、
ご質問なりその理解の道程を提示してください
私なりに、答える事ができるかもしれません、、、、、

貴方が、すでに答え(真理)得ているのなら、それはとてもよい事です
(議論は成り立ちません)
“ 貴方の保つものが、真理(答え)なのですから ”
その真理を示していただければ、私の誤謬が解消するかもしれません
(ブッダとして、ブッダのように)
ここにおいて、私は、はじめから、私の真理を、迷妄による顛倒だと告白します
真理など“ 一切 ”わかっていません
(私の法幢は白旗として建てられています)

ですから、私が貴方にお尋ねします

「諸行無常、諸法無我」について、
「無常」とは「生滅する」「生滅しない」「生滅するとは限らない」「その他」のうちどれでしょうか

私には、この理が理解できていません
これらの言葉も、空しく響くだけです
(上の五つの括弧に当てはまるかどうかさえ述べることができません)

平易にご教示いただければ幸いです
| 春間 則廣 | 2007/10/04 10:30 PM |

春間さま

 「真理」について、「真理か否か」というお考えのようですが、私の考えでは、「ある範囲では正しい」「より正しい」=「より真理に近い」、だけのことと考えております。

 全自然に適用でき、全人類に共通する「真理」などというものは、どの分野でも、人間が手に入れたことなどないはずです。
 ただ、「ユークリッド幾何学」や「ニュートン力学」や「不確定性原理」などのように、「ある範囲では正しい」と言える「法則」や「原理」や「定説」を、いくつか持っているだけです。

 「仏陀の教え」も「仏教という枠のなかでは真理」と言えればよいのですが、いったい何が「仏陀の教え」なのかすら判然としません。
 しかし、仏教も宗教ですから、信じなければ「信仰」が成りたたないともいえますし、仏教には「信仰」などいらない、ともいえるでしょう。
 もともと「諸行無常、諸法無我」というのは、大雑把に言えば、「確かなものはなにもない」ということでしょうから、仕方がないのかも知れませんが。

 さて「無常」の意味ですが、ブログ記事をお読みいただいているかと思いますが、スマナサーラ長老は、「生滅する」ことを「無常」と定義しており、これを、仏陀の説いた「真理」と考えているようです。
 これに対し、龍樹などは、「不滅不生」といいますが、対立するものは互いを疎外することによって依存しあう、とかヘーゲルみたいなことをいって読者を煙に巻いてしまいます。
 そのへんで、スマナサーラ長老に、「ブッダの教えを哲学化して争論に使い仏道を踏み外した」などと言われてしまうのです。

 その点『般若心経』は「不生不滅、不垢不浄、不増不減」ですから、はっきりと「生滅しない」と言っています。しかし、『般若心経』が提起するものは、あくまでも「関係」や「認識」の問題ですから、「生滅しない」と言ってもその範囲内の話であり、現代物理学の「波動」や「素粒子」を喩えにするのは、いくらうまく説明できるといっても無理があるのです。それに『般若心経』には「無常」という言葉が出てきません。

 そもそも「生滅」と「無常」は関係があるのでしょうか。「無常」とは「生滅する」ことという長老の考えは、「初期経典」にそれらしいことがあったような気もしますが、やはりひとつの解釈にしか過ぎません。
 私の考えは、ブログ記事に書いたように、必ず「生滅する」と決まっているなら「常」であり、「無常」とは言えないのではないか、ということです。

 というわけで、私が選択すべき答えは「その他」であり、その内容は「生滅と見えるような不確定な要因」といったところですが、これだと、現代物理学などが入りすぎで、「生滅するとはかぎらない」のほうが良いかも知れません。なにぶん「無常」ですから、「確かなものは何もなく」また気が変わるかも知れませんが。
 
  
 自分なりには「答え」を持っている、といっても、この程度のことで、その内容も、たぶん春間さまのご認識とさほどの違いはありません。
 あまり参考にもならないでしょうが、引き続きブログをご愛読いただければ幸いです。
 私のほうは、参考になりますので、コメントお待ちしております。

 
| 南華 | 2007/10/05 9:48 AM |

「信仰」

これは、「信ずる」ということと、同義に捉えられていますが、
「仰ぐ」という語が付加されています
中論の三枝 充悳氏の訳では、第一章に「最も優れた人」「敬礼」とおいています
「法」に敬礼して戴きたいものです、、、、
(彼の価値観で言うならば、仏陀が法に敬礼するのです  ??? )

「信ずる」ということは、真理と認めるということです
真理だと“了解”しているという事です
「ウソかマコトか知らないが、言うとおりにおもう(信ずる)」
との言葉に含まれる曖昧さは、
不信の言い替えでしかありません
「理由を言うことは適わないが、真理だとはっきりわかり、そのように行う」
ということが「信」で、
そのように、(理屈ではなく)真理に行く、という道を(に)敬礼するのです
「人間性への尊重」などと呼ばれることもあります

「生滅」と「無常」は人間の世界に現れる現象を言うことですから
間違いなく、関係が有ります
長老が、「無常」とは「生滅する」ことと考えたかは、
私はその箇所を読んでみないので、
前後の関係がわからないままに言う事になりますが
「生滅」と「無常」は、言葉が違うように、
一方が、他方を説明する言葉ではありません
(「生滅」と「無常」は人間の世界に現れる現象を言うことですから
間違いなく、関係は、有ります)
同じ事を、重複する必要はありません(覚者は、私のように薫習しないのです)

生・滅とは生・老死のことです(消滅ではないのです)
物事も(物質も)人として捉えることであるから、
その理に従い理解され
老死(滅)するという事です
生ずると認識できなければ、老死も認識できません

無常は、諸行無常でなければ意味を成しません
行いをつんでいくから、積まれた高さが変わっていくという風に考えても、
あながち間違いではないと思います
(積まれていくという、概念は、想念ですから、想念代表としては常住です)

生きて行くということは、今日の仕事に、真理に敬礼しつつ、打ち込むということです
概念に敬礼しても、   「おなかは減ります」
行住坐臥(食事も)は、敬礼する(される)仕事です
| 春間 則廣 | 2007/10/05 11:18 AM |

春間さま
 
「白旗を掲げてだまし討ち」というのは、仏教の論争に限らず、よくあることですが、ここまで「文字通り」に、堂々となされる方も珍しいものです。
 だからきっと悪意はないのでしょう。
 「だまし討ち」などと感じる私の心が「煩悩」に満ちて、「清浄」な心を失っているのに違いありません。


>ここにおいて、私は、はじめから、私の真理を、迷妄による顛倒だと告白します
 真理など“ 一切 ”わかっていません
(私の法幢は白旗として建てられています)
>私には、この理が理解できていません
これらの言葉も、空しく響くだけです
(上の五つの括弧に当てはまるかどうかさえ述べることができません)
 
 これらの内容が“真実”であることは、後のコメントからよくわかります。
 後のコメントは、上の内容を証明するために、わざわざ書いてくださったものなのですね。
 これこそ「捨身の行」というものに違いありません。
 
 「行」の邪魔をしたようでしたら、申し訳ありませんでしたが、先に投稿されたのは、そちらさまで、ここは私の管理区域です。
 
 また、コメントをいただけましたら参考にさせていただきます。
| 南華 | 2007/10/05 4:04 PM |

 お邪魔します。
 
 般若心経を表面的に読んでみましたが、色は空である、受は空である、想は空である、行は空である、識は空である、と読み取れますが、色と受と想と行と識は並列であって、色=受想行識とは読み取れないのですが。
 もし、空即是色だとしたならば、論理的に考えれば、受は空ではない、想は空ではない、行は空ではない、識は空ではない、となります。
 色⊂空、受⊂空、想⊂空、行⊂空、識⊂空であって、
色≡空ではないからです。
 やはり、まだ色即是空は理解できても、空即是色はおかしいような気がします。
| たか | 2007/10/09 11:40 PM |

たか様

 毎度ありがとうございます。

 色=空
 
 受=空  想=空  行=空  識=空

 ならば、

 色=受=想=行=識=空

 と、いうことになります。

 受・想・行・識という分類も、人間が勝手に決めたことで、それぞれに実体があるわけではないのですから、これでも間違いとは言えません。

 「概念」を実体視するから「分別」が生まれ、「分別」から「執着」が生まれるのです。
 
 「執着」から「分別」が生まれ、「分別」から「概念」が生まれる、でもかまいません。 
 
| 南華 | 2007/10/10 7:32 AM |  
 
 

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