南華密教ブログ (なんげみっきょうぶろぐ)

南華密教を根幹に据え、風水をはじめとする中国五術、中国思想全般について、掛川掌瑛が語ります。

エッ!「空即是色」は間違い?

2017年06月09日 | 仏教
エッ!「空即是色」は間違い?
 

 『中陰の花』で第125回芥川賞を受賞された作家で、臨済宗僧侶でもある玄侑宗久さんの『仏弟子の世間話』という本を読みました。
 この本は、玄侑宗久さんとアルボムッレ・スマナサーラ氏(スリランカ初期仏教長老)との対談本という形式をとって、仏教について論じています。
 なかなか面白い本なのですが、なかでも驚いたのが、「空即是色は間違い」という項目です。

 少し引用してみましょう。
                        
(55頁~)                 ー 引用開始 

スマナサーラ ですから「色はみな空である」というのは真理ですが、「空は色である」というのは、論理的におかしい。「物質的現象には、実体がない」は真理ですが、「実体がないのは、物質的現象である」となると、わけがわからない。感覚も意識も無常であって、実体はありませんよ。だから私たちにすれば冗談も休み休み言ってほしいくらいです。
   

                       -引用終わり
 

 つまり「空即是色は間違い」というのは、玄侑さんの考えではもちろん無く、スマナサーラ長老個人だけの主張でもなく、長老の属するスリランカ仏教の統一見解ということのようです。

 私には非常に理路整然とした解説のように思えるのですが、皆様はいかがでしょうか。
 これを読んだら誰でも納得してしまいそうな気もしますが、はてな?これはかつて張明澄先生からご教授いただいた『般若心経』の解釈とは違っています。
  
 『般若心経』は最も重要な経典のひとつとして、南華密教講座 では何度か扱っていますが、この一番肝心な部分は第五回講座で解説されています。
          
 南華密教第五回 講義録(掛川掌瑛篇)より       ー 引用開始  

 色不異空 色は空に異ならず
 空不異色 空は色に異ならず
 色即是空 色は即ち是れ空
 空即是色 空は即ち是れ色
 受想行識(じゅ・そう・こう・しき)
 亦復如是 また是れの如し

 これらの文句が非常に大切な部分だが、あまり日本では適切に訳されていない
 「空」=縁起ー現代の言葉では「関係」という

 関係 同時的相互関係  
     前後的因果関係
 
    ・・・・・・・・・・・・・・・・(省略)

 色は空と同じで、空は色と同じです。色は空であり、空は色です。このことは受・想・行・識についても言えます。
  
 すべて感覚で捉えられる存在や現象は、みな同時的相互関係、前後的因果関係によるものであり、実体のあるものではありません。
 そしてこれらの関係は感覚で捉えられる存在や現象を作り出します。だから、存在や現象は関係、関係とは存在や現象であるともいえます。
 従って外からの情報の受け入れ、イメージの形成、意思決定、思考と行為の記憶についても同じと言えます。

                      ー 引用終わり
                       
 つまり、南華密教では「色」を「すべての感覚で捉えられる存在や現象」と定義し、「空」は「同時的相互関係と前後的因果関係」(によるもの)と、定義しております。

 日本では、岩波文庫の中村元さんの訳も含めて、「色」は「物質的現象」、「空」は「実体がない」と解釈されていますから、なるほど「物質的現象」と「実体がない(もの)」では完全にイコールとは言えません。
 スリランカの長老は「色即是空」は正しいが「空即是色」は間違いである、とおっしゃっておられます。
 ところが「○○即××」というのは「○○は××に含まれる」、という意味ではなく、むしろ「○○と××は同じものである」という意味ですから、「色」と「空」が完全にイコールではない、ということは「空即是色」が成り立たないだけではなく「色即是空」もまた成り立たないのではないでしょうか。

 これに対し、「感覚で捉えられるすべての存在と現象」と、「同時的相互関係と前後的因果関係」(によるもの、以下「関係」と略す)とを比べてみます。
 例えば「親子」という存在(現象)は、明らかに「関係」によって成り立っており、「関係」を除外したら「親子」という存在も現象も感知することができません。
 それなら「親子」ではなく、単なる「大人」と「子供」という存在(現象)を考えて見ます。すると「大人」というのは「子供」が年月を経て成長(老化)しただけのものですから、年が上とか、体格が大きい、といった「関係」を除外したらやはり感知することができません。
 ならば「人間」ならどうでしょう。そこに存在する現象が「人間」であるには、顔や形が人間の形態である、とか、人間らしい衣服を身に着けている、とか、言語を話すことができる、とか何らかの「関係」がなければ感知することができません。
 さらに、それが何だか分からないものである場合はどうでしょう。ある存在や現象が意味不明のものである場合、人間はその事象に対して「何?」とか「あれ」とか「それ」とか「UFO」などと名づけて関係付けようとします。
 つまり、どんなものであれ、人間が存在や現象を感知するということは、意識的または無意識的に何らかの関係付けを行っていることに他ならず、「存在や現象」と「関係」はイコールである、つまり「色」と「空」は等しい、ということができます。

 『仏弟子の世間話』の101頁に、

スマナサーラ ブッダは・・・・「人と喋るときに分からない単語を使うなら、すぐに定義しなさい」と言っています。

 とあり、全く私も同感なのですが、この長老のお話しは、用語の定義という根本的なところで、自分とは違う立場や解釈がある、ということを忘れているようにも思えます。
 しかし、岩波文庫の訳を見ても分かるように、日本で行われている『般若心経』の解釈に関するかぎり、この長老のご意見は、正しいのかも知れません。
 
 玄奘三蔵法師は、インドから経典を持ち帰った後、すべて訳し終えた時点で、持ち帰った経典全部を焼き払ってしまったと言われています。
 つまり、玄奘の時代には中国仏教はすでに進化しており、インドの古い経典を忠実に訳しても無駄だと考え、勝手に意訳を加えて、原典は始末してしまった、という説があります。

 すると『般若心経』の訳も、原典の間違いを承知の上で、あえて中国仏教のレベルで訳した、とも考えられますが、スマナサーラ長老によれば、訳には間違いがないといいます。
 ただ、玄奘が使った「受」「想」「行」「識」というのは、中医学や道教の用語であり、中村元さんによるサンスクリットからの訳である「感覚」「表象」「意志」「知識」などとはニュアンスが異なるものです。

 「空即是色」が間違いというのは、スリランカ仏教の統一見解か、長老個人の見解かは確認できませんでしたが、中国仏教、少なくとも南華密教においては、「空即是色」は「色即是空」と同じく正しいと言えます。
 逆に、「色即是空」は、スリランカの長老の解釈とは意味が違っており、もし、スマナサーラ長老の立場で言うなら「色即是空」もまた間違いと言うべきです。

 スマナサーラ長老の言説は、スリランカ仏教のようないわゆる小乗仏教が正しくて、大乗仏教は間違っている、ということのようですから、本当に言いたいことは、『般若心経』はすべて間違っている、ということになります。
 
 何が正しくて何が間違っているか、というような、人間の思想や信条などは、知識や論理によって決まるというよりは、その人の置かれている立場によって決定される、と言うべきです。

 このようなことは「空」とも言えますが、「空」であれば、実体のない夢や幻などと言って、囚われることもないのが「悟り」のはずですが、とっくに悟っているだろう長老でさえ囚われているのが「立場」というものです。

 そしてこの「立場」という問題こそ、「空」だけでは解決できない、「唯識」に関わる問題なのですが、そのお話はまたの機会にしたいと思います。



 この記事“エッ!「空即是色」は間違い?”について、玄侑宗久師からメールをいただき、何通かやりとりしております。
 近いうちに公開でコメントをいただけるようなのでお楽しみに。

 玄侑宗久師自身の『般若心経』の解釈については、この対談のあとで書かれた『現代語訳般若心経』(ちくま新書)に、「色即是空」でしかも「空即是色」(77ページ)といった表現があり、スリランカの長老の意見に同意ではないことは分かります。
 ただ、今回も触れたように、サンスクリットの『般若心経』と漢訳には、非常に微妙でしかも大きな違いがあります。
 次回はこれをテーマに書いてみたいと思います。

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