南華密教ブログ (なんげみっきょうぶろぐ)

南華密教を根幹に据え、風水をはじめとする中国五術、中国思想全般について、掛川掌瑛が語ります。

『般若心経は間違い?』の間違い (九) 龍樹「一切皆空」のパラドックス

2007年10月04日 | 仏教
『般若心経は間違い?』の間違い (九)
 
『般若心経は間違い?』(宝島社新書) 99頁〜

説般若波羅蜜多咒。即説咒曰。
 揭帝 揭帝 波羅揭帝 波羅僧揭帝 菩提僧莎訶
般若波羅蜜多心經

般若波羅蜜多なる咒を説く。すなわち咒を説いていわく、    
 揭帝 揭帝 波羅揭帝 波羅僧揭帝 菩提僧莎訶

 ・・・パーラガテーは、「あっちへ行ってしまった」。
 ・・・パーラサンガテーは、「まったく消えてしまった」でしょうか。それでも正しい訳とはいえません。サンスクリット語を知っている人にもそんなに意味がとれないのですが、呪文に意味があってはいけないのです。 (P.100)


 長老には意味がとれないというので、一応、標準的な解釈と思われる訳をあげておきます。

 往く者よ、彼岸に往く者よ、彼岸に渡れ、彼岸に渡れ! 
 彼岸にいたれば幸多し。


 

 この、最後の「呪文」は、ただ「彼岸に往って帰ってくるな」というだけで、たいした意味がないので、「南華密教」では、あまり重視しておりません。
 ただ、「仏陀の教え」たる仏教の基本的な教理を、すべて「無」であると断ずる『般若心経』の作者の意図は、「彼岸に着いたら筏を捨てよ」という釈迦の教えに、むしろ忠実なのかも知れない、と思えるものです。

 
 ブッダによって書かれた教訓は、言葉という不完全なものを使っているにもかかわらず、見事に完成されていて、どこにも隙がありません。・・・
 一切智者たるブッダの言葉だけは不動で完全無欠で、それ以外のものにはいろんなボロがあるのです。・・・人間は不完全だから当たり前です。一般人には矛盾なしに語れません。・・・・
(P.106〜107)


 相変わらず、「ブッダは完全」で「人間は不完全」だそうですが、「同じ人間であるお釈迦さまが・・・と、ブッダが言うのです」といいますから、釈迦は人間で、ブッダは人間ではない、ということのようです。  
 しかし、「仏陀の言葉」というのは、仏陀が死んでから三百年もたってからようやく文字にされたもので、それまでは口伝えに伝承されてきたものとされています。
 すると、「ブッダの完全な言葉」が「完全」に伝承されたのは、伝承した人たちが「完全」だったということなのでしょうか。
 スマナサーラ長老の言説は、確かにご本人の言う通り、「不完全」で「矛盾」だらけで、「ボロ」だらけなのですが、もし長老が、仏弟子の口伝継承者だったら、とうてい「完全な」「仏陀の言葉」は残らなかったことでしょう。
 いや、それは専門家でないからだけで、暗記することだけに徹すれば、人間の記憶というのは、案外すごいもので、現に円周率を10万桁近くも正確に暗記してしまう人がいます。しかし、円周率というのは、それ自体には意味を見出せないただの数字の羅列であり、暗記することと、意味を理解することは無関係と言えます。

 仏陀は、文章を残さなかっただけでなく、教えを文字にすることを禁じた、といいます。つまり、言葉は文字にしてしまうと、本来の意味と同じではなくなってしまう、と仏陀は考えていたようです。
 すると、「仏陀の完全な言葉」は、「不完全な人間」や「不完全な文字」によって現代に伝わったものであり、「口伝」と「経典」を根拠に「仏陀の完全な言葉」などというのは、本来成り立たないのではないでしょうか。

 もし、「仏陀の完全な言葉」を、「完全」に記録したという「経典」が、本当に「完全」なら、「経典」の解釈はひと通りだけであり、いくつもの解釈が存在する余地がありません。
 いや、「経典」は「完全」だが、解釈する「人間が完全でない」から多くの解釈があるだけだ、というかも知れません。すると、「経典」が「完全」である、と言えるスマナサーラ長老もまた「完全」ということになりそうですが、これはご本人が否定しています。
 いや、「経典」が「完全」とは言っていない「仏陀の言葉」が「完全」なのだ、と言うかも知れません。しかし、スマナサーラ長老は、「経典」以外の方法で、どうやって「仏陀の完全な言葉」を知ることができたのでしょうか。
 

 大乗仏教のカリスマである龍樹さんが・・・・・・・相対論を持ってきて、「すべて空だ」と言ってしまったところで困ったことになったのです。龍樹は空を哲学化することで、目の前にあった「仏道」を見失ってしまったのです。(P.108)


 スマナサーラ長老は、“一切は空であると悟ることによって解脱します”(P.83)と言ったかと思うと、今度は、龍樹について“「すべて空だ」と言ってしまったところで困ったことになった”と批判しています。
 それでは、その龍樹の「すべて空だ」という論、はいかなるものなのでしょうか。


 反論者の実在論的立場からすると、この「空であるものは一切のものである」という言明は、自己言及のパラドックスにからむと解釈できる。この点を、実在論者は、次のように指摘する。
 空論者の説く「空であるのは一切のものである」という否定言明は、言明の意味にしたがうと、この言明自体も空であると解釈しなければならない。「空である」とは「自性を欠く」ということである。
 ところで、自性を欠いているものとは、実在論者からすれば「存在しないもの」に等しい。実在論者にとっては、存在するもので自性を欠いたものなどありえないからである。したがって、そのような存在しないものによって、「空である」と否定するのは不可能であるとするのである。
 簡単に言うならば、「空であるのは一切のものである」という言明が成り立つためには、この言明自体は空であってはならず、そして空でないことになると、「空であるのは一切のものである」と言う、このことは成り立たないのである。実在論者は、このように、空論者のこの否定言明には矛盾があると指摘する。
 これに対して、空論者は、このように反論する。パラドックスを指摘するだけでは、実在論者は自分の主張「『空であるのは一切のものである』というこの言明は空ではない」ということを証明したことにはならない。・・・・・・・・・・
 さて、「空(縁起)」の体系を公理論的な体系とするなら、・・・「空であるのは一切のものである」というこの言明が「空」であることは、論証も論議もしきれないということがわかる。これは、ゲーデルの不完全性第一定理に対応している。第一定理とは「無矛盾な体系においては、決定不可能な、すなわち、真であるとも偽であるとも証明できないような命題がかならず存在する」ということを主張するものだからである。・・・・・・
 龍樹はほんとうに論理学の重要問題と自覚してこのような論議を述べているのであろうか・・・それについて証拠となるのは『中論』である。・・・・
 論争のなかで反駁をおこなうとき、空性をもちだして語る人は、何ものをも反駁できていないのであって、ただ証明すべきものに等しいものが生じているだけである
 ・・・・・「証明すべきものに等しい」とは、「このままでは証明不可能」ということである。・・・「空」の体系のなかには、偽であるとも真であるとも証明できない、つまり、決定不可能な言明があることになる。 
 『廻諍論』という題名は・・・『論争打ち止めの論』と訳してもいいだろう。・・・・龍樹は、公理論による演繹論理学体系の枠を超えて、縁起の論理学がもつ弁証法(=問答法)の立場から、わたしたちに「空」を現観させようとするのである。
 「公理論による演繹論理学体系の枠を超える」とは、それぞれの体系内でのみ語るのではなく、存在論的な立場のちがいを認めて語ることであって、他者を承認して語ることである。それは、いわば、存在論を超えて認識論の地平に降りたつことを意味している。
 論者と敵者がいかに対立していようととも、認識においては、共通の題材をもちうるからである。ここに、たがいに「他者を認める」という基盤が生まれてくる。・・・・・・・・
 たとえば、「縁起」を認めないと反論するならば、それだけで、もう「縁起」の関係のなかに自分をおくことになるのである。だから、ほんとうに「縁起」を認めないとするなら、それを態度で示して黙っているしかない。しかし黙っていれば、「縁起」を認めないことは相手に知られない。相手あっての自分なのである。自分が自分であるためには、相手と接しなければならない。ディレンマに陥るのである。
 けっきょくどうやっても「縁起」の関係からは逃れられないのである。そして、そうであれば、縁起の特徴である「空」は必ず会得される。「縁起」と言っても、「縁起」という固有の本質(自性)が、この関係にあるわけではないと知るのである。反論すると生ずるが、しないと止む関係である。
 「縁起」を見る者は、自他をふくむ一切が空性であることを見てとることになる。こうして、『廻諍論』第七〇偈で「この空性を会得する人には、すべてのものが会得される。空性を会得しない人にはいかなるものも会得されない」と述べられたのである。

(石飛道子著『ブッダと龍樹の論理学 縁起と中道』サンガP.261〜271 引用承認済み)


 著者によれば、インド語は語順がいつも逆倒しており、中国語などに翻訳されたものは、ブッダの説く「悪しき語順の文句によって、経典を誤解して学ぶ」という問題があり、「空であるものは一切のものである」という言い方が原典に忠実な訳なのだ、ということです。
   
 龍樹の説く「空」とは「縁起」と同義であり、「縁起」とは「他者によって起こる」という関係だから、他者によって「問答」が起こされるかぎり「縁起」の関係は成りたち、「空」のパラドクスは消滅するかのようです。
 しかし、その相手が「問答」をしかけて来なければ、その相手にとっては、“黙っていれば、「縁起」を認めないことは相手に知られない。相手あっての自分なのである。自分が自分であるためには、相手と接しなければならない。
 つまり、相手[B]は、自分[A]に対して、何らかの働きかけをしない限り、相手[B]は、[A]という相手、つまり「縁起」を得られないから、自分[B]にはなれないというのですが、働きかけをする前は、[B]は相手[B]にもなっていないし、[A]も自分[A]になっていないはずです。
 龍樹によれば、「有」は「無」によって成りたち、「原因」は「結果」によって成りたつものですから、「自分」もまた「相手」によって成りたつことは間違いないでしょう。
 しかし、[B]は、[A]に働きかけないかぎり、「相手」にも「自分」にもなれないのでしょうか。[A]以外の、[C]や[D]や[E]や[F]に働きかけても、「相手」や「自分」になることには変わりがないはずです。
 しかも、この[B]は、実在論者という設定ですから、もともと自分[B]という「自性」を持っていると考えており、相手[A]に対しても、自分[A]という「自性」を認めているはずです。
 すると、「相手あっての自分」というジレンマは、空論者[A]にだけあって、実在論者[B]にはない、と言うべきかも知れません。

 いずれにしろ、「空であるものは一切のものである」という立場は、実在論者からパラドクスを指摘されることによって、つまり問答を起こしてもらうことによって、ようやく成り立つ、というやっかいなものです。
 しかも、『中論』のこのくだりは、想定問答のようなものですから、「自己A」のなかに作ったもう一人の「自己B」という相手からの働きかけということになります。
 するとこのとき、作られた「自己B」に「自性」がないのは当然としても、主体である「自己A」には、「自性」を持つという可能性はないのでしょうか。

 「もう一人の自分」という観念は、おそらく人間に特有のもので、「自己対象化」による「自己疎外」という認識過程があてはまります。


 原始的な社会では、人間の自然にたいする動物的な関係のうちから、はじめに自然にたいする対立の意識があらわれるやいなや、人間にとって、自然は及びがたい不可解な全能物のようにあらわれる。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 そうして、自然がおそるべき対立物としてあらわれたちょうどそのときに、原始人たちのうえに、最初のじぶん自身にたいする不満や異和感がおおいはじめる。動物的な生活では、じぶん自身の行為は、そのままじぶん自身の欲求であった。いまはじぶんが自然に働きかけても、じぶんのおもいどおりにはならないから、かれはじぶん自身を、じぶん自身に対立するものとして感ずるようになってゆく。狩や植物の採取にでかけても、住居にこもっても、かれはじぶんがそうであるとかんがえている像のように実現されずに、それ以外のものをもって満足しなければならなくなる。
(吉本隆明著『言語にとって美とはなにか』より)



 人間が「識」を持ち、やがて具体的な欲求を持って自然に働きかけるようになると、それが思いどおりにはならない、というジレンマにさいなまれるようになります。
 「動物的な生活では、じぶん自身の行為は、そのままじぶん自身の欲求であった。」
 つまり、知っているとおりに行動できるのですから、「知行合一」ということができ、仏教ではこれを「悟り」といいます。
 ところが、人間の行動は次第に思い通りにはゆかないようになり、「じぶん自身を、じぶん自身に対立するものとして感ずるようになってゆく。」
 つまり、自己対象化(自己実現)をはかる過程で「疎外」されることになりました。

(“十二縁起ー空と疎外−「悟り」へ”より)


 つまり、人間の持つ「自己」という観念は、自然が人間にとって対立物となって現れたときに、「かれはじぶん自身を、じぶん自身に対立するものとして感ずる」ようになり、「もうひとりの自分」という「他者」を「疎外」することによって「自己」という意識ができあがったと考えることができます。
  
 龍樹による「縁起」の論法はなかなかに優れたもので、「自己」と「他者」も、「他者」があるから「自己」がある、「自己」があるから「他者」がある、という「相互依存」と言えるような論理を展開します。
 ここで、「他者」とは、文字通りに「他の人間」とも言えますが、「自己」という高度に抽象化された観念は、人間に特有のもので、「もうひとりの自分」という「対象化」つまり「疎外」の過程抜きにはとうてい成りたちません。
 つまり、「自己」のなりたちは「もうひとりの自分」という「他者」によって「縁起」されるもので、必ずしも「他の人間」という「他者」によってなりたつものではありません。
 従って、「他の人間」への働きかけや「問答」抜きでも「自己」は、既になりたっており、「自己」に「自性」を見いだす「実在論者」が現れるのも無理からぬものと言えます。
 逆に言うと、「実在論者」があらゆる存在や現象に「自性」があると考えるのは、「自己」という確固とした(と思える)「存在」があるからこそであり、「自己」という高度な観念がなければ、自他の区別もあいまいであり、「自性」や「実在」などというさらに抽象的な理念など思いつくわけがありません。ただ、「もう一人の自分」という「他者」によって「自己」が確立されたことは、忘れられているだけです。

 こうして、龍樹の「空(縁起)」論は、スマナサーラ長老が「反論できない」と言うように、矛盾のないものですが、「一切は空である」と言ったために、自ら「想定内」のパラドクスに陥り、しかし、解決できているともいえません。

 
 それでは、『般若心経』では、そのようなパラドクスは起こらないのでしょうか。 
 

<次回へ続く>
マダム・エムさまよりコメントをいただきましたので、こちらに転載させていただきます。http://manikana.cocolog-nifty.com/main/2007/09/post_6398.html


南華さま

ご丁寧にありがとうございます。拙著をさっそく引用していただきまして、恐縮です。

いまは、ざっと拝読したところなので、もう少しくわしく検討してみたいと思いますが、ゲーデル問題を取りあげていただいて、「おお!」っと喜んでおります。
ここが一番むずかしいのではないかと思います。

>  すると、「相手あっての自分」というジレンマは、空論者[A]にだけあって、実在論者[B]にはない、と言うべきかも知れません。


これは、そのとおりです。ただ、実在論者は、縁起の関係に自分の身をおかないように、誰とも口を聞かないという人生になるかもしれません。なかなかたいへんです。

また、龍樹については、想定問答として、「自己A」と「自己B」をかれの中に考えておられますが、これはあたらないと思われます。
龍樹は、実際に存在した意見を採り上げております。有部やチャラカたちの実在論的な意見を採り上げています。ぜんぶ自分で想定した、のではないのです。相手の反論なり、意見なりを取りあげているのです。

その証拠に、ニヤーヤ学派とははっきり問答を起こしています。
そして、その結果、やがて、たがいにふれ合わぬような二つの論理学派が生まれました。
実在論者であるニヤーヤ学派は、今日あるような西洋論理学のような「自己の内部で想定問答する」学問にならないように、他者と論じるために「因果関係」を認めています。その上で、実在論的な要素も残すように努力したのです。

南華さまのブログの方にコメントする内容をついここに書いてしまいました。
『般若心経』論の続きを楽しみにお待ちしています。
投稿 管理人エム | 2007/10/04 08:15
 

マダム・エムさま
 
 待望の、龍樹本、読ませていただきました。
 丁度、知りたいことがズバリと書かれており、早速、拙ブログ記事に引用させていただきましたので、ご報告も兼ねまして、TBさせていただきました。
 また、ご意見などいただけましたら幸いでございます。

合掌
投稿 南華 | 2007/10/04 01:49
| 南華 | 2007/10/04 1:15 PM |

http://manikana.cocolog-nifty.com/main/2007/09/post_6398.html

より転載


マダム・エムさま
 
 早速、拙ブログをお読みいただきまして、ありがとうございます。
 
>実在論者は、縁起の関係に自分の身をおかないように、誰とも口を聞かないという人生になるかもしれません。


 そうは、ならないのです。実在論者は、自己の自性だけでなく、相手の自性も認めているのですから、誰と口をきいてもお互いにもともと「実在」であり、逆に、話しかけられても、“シカト”されても「実在」はゆるがず、困ることはありません。
 むしろ、困るのは、「内なる自己との対話」によって、「自性」が脅かされることです。


>龍樹については、想定問答として、「自己A」と「自己B」をかれの中に考えておられますが、これはあたらないと思われます。
龍樹は、実際に存在した意見を採り上げております。有部やチャラカたちの実在論的な意見を採り上げています。ぜんぶ自分で想定した、のではないのです。相手の反論なり、意見なりを取りあげているのです。


 たとえば、今日行った討論を、夜、家で文字にする作業を行ったとします。すると、記憶やメモや録音などを利用して、相手と自分の言動を再構成するわけですが、機械的に録音をそのまま文字に起こす場合ですら、「じせいをこうていする」のは、「自性を肯定する」のか「時制を公定する」のか、文脈を理解しないと、つまり相手の立場に立ってみないとわかりません。相手の立場に立ってみるということは、自己のなかにもう一人の自己を想定することです。

 もともと、人間の「思考」とは、内なる「他者」との対話であり、「自己の内部で想定問答する」ことを禁じたら、「自己」(観念)どころか「思考」そのものが成りたちません。
 なにも、西洋人でなくとも、誰もが、ハムレットであり、管理人エムさまことオフェーリアも、無限に自問自答を繰り返して止みません。
 つまり、人間である限り、実在論者と言えども、「もうひとりの自分」という「他者」(縁起)なくして「自己」を獲得することはできないのです。
 「自己の獲得」とは、つまり「自己疎外」であり、その根底には「原生的な疎外」という生物には逃れられない宿命があります。
 「疎外」とはお釈迦さまの言う「苦」に他なりません。

投稿 南華 | 2007/10/04 11:01
| 南華 | 2007/10/04 2:05 PM |

 

http://manikana.cocolog-nifty.com/main/2007/09/post_6398.html
より転載


南華さま

巧みなお話しぶりで、ついその気になりそうですが、ちょっとお待ちください。

南華さまが、観念的な「実在論者」をイメージしてるか、生身の人間である「実在論者」をイメージしてるか、ちょっとごっちゃのような気がします。
実在論者も人の子、「内なる自己との対話」によって「自性」が脅かされることもあるのです、というのでは、ちょっと龍樹は対応に困ります。

ですので、いちおう実在論者というからには、実在論的にアートマンなり自性なりを説く論者であるということにしていただきたいのです。

で、実在論者は、アートマンを説き自性を説きます。一つ大事なことは、誰に言われなくても、かれらはアートマンを説き自性を説くということです。
黙っている実在論者は、(論理的に)ありえません。黙っているのは、縁起論者(空論者)の方だからです。

言ってる意味がわかっていただけるでしょうか。
わたしたちは、言語を扱う名色の世界にいるという前提です。そこでは、議論をし、弁論をし、問答をします。
そこでは、実在論者は、実在するので、実在を何らかのかたちで示さなければなりません。何もしないなら実在するとはいえないからです。だから、(聞く相手がいなくても)アートマンを説き自性を説くのです。

そして、このとき、はじめて空論者が登場するのです。実在論者がアートマンを説いてくれて、はじめて、龍樹はアナートマンと答えられるのです。ここに縁起が成り立ちます。

かならずこのような構図になっています。
文献にあたって調べたときもそうですし、わたしが西洋論理学と問答したときもこのような構図になっていました。

問答それ自体が、すでに哲学思想の影響を受けているのです。その点を、ご理解くださるとありがたいのですが、いかがでしょう。

投稿 管理人エム | 2007/10/04 19:41
| 南華 | 2007/10/04 10:25 PM |

 

マダム・エムさま

 生身の実在論者であれ、観念上の実在論者であれ、それが人間である限り、かならず「内なる他者」としてのもうひとりの自分との対話(=思考)を行うものです。そしてその主体は、観念としての「自己」であり、生身の人間そのものではありません。
 すると「内なる他者」が空論者であれ、実在論者であれ、[他者」という「縁起」によって、双方の「自己」が成りたっていることは明確なのですが、お互いに気づくとは限りません。
   
 誰に言われなくとも、実在論者は、アートマンを説き自性を説きます。ただし、その相手は、生身の他人とは決まっていません。存在論のような抽象的な概念は、「内なる他者」との対話(=思考)がなくては、どうしたって形成できません。
 また、実在論者にとっては、「もうひとりの自分」「内なる他者」も「実在」であり、「名色」というならそれも「実在」として認識されるのは当然です。
 何もしない、というのは、空論者から見た場合であり、実在論者は常に「実在する内なる他者」に対してアートマンや「自性」を説いているのです。
 実在論者も「内なる他者との対話」によって「自性」が脅かされることがあるのですが、なにぶんにも、「内なる他者」も「実在」すると信じていますから、一筋縄では行きません。
 西洋だろうとインドだろうと、「内なる他者」を「実在」と認識できないようなヘッポコ実在論者なら、最初から論争など必要ないのです。

 それでも、哲学上の構図は龍樹のもの、というなら、スマナサーラ長老の言うとおり、「哲学をつくるなかれ」というお釈迦さまの戒めを破って「教えを争論のために使い」、「仏道」を見失った、ということになってしまうでしょう。

 空論者が「すべては空である」という限り、「筋金入り」実在論者の「やや優勢」は覆らず、覆すためには、彼の「自己」は「内なる他者」という「縁起」によって成りたっているという「自覚」を待つしかありません。
 そのとき、この、「筋金入り」実在論者の「自覚」は非常に徹底したものですから、文字通りの「自覚」(=覚醒・解脱)つまり「悟り」に達することになります。

投稿 南華 | 2007/10/04 22:21
| 南華 | 2007/10/04 10:37 PM |

 


南華さま

強固な論を展開されて、たじたじとなりつつ、体勢をたてなおしたいと思います。

> また、実在論者にとっては、「もうひとりの自分」「内なる他者」も「実在」であり、「名色」というならそれも「実在」として認識されるのは当然です。

実在論者の中に、「自己」と「内なる他者」が実在としているならば、一つのものに二つの実在があることになり矛盾です。
さらに、それらが、対話するのもおかしいです。独り言を二人(?)でブツブツ言うことになるのではないでしょうか。不変の実在は、変化せず、したがって聞く耳をもたないからです。「縁起」はおきないので対話もないのです。

というお話をしてもよいのですが、次の「般若心経」の空の解釈をお聞きしたいので、南華さまがおっしゃるように、「筋金入り」の実在論者が優勢ということで、龍樹は気にしないということにしたいと思います。(龍樹、ゴメンよ)。

投稿 管理人エム | 2007/10/05 19:40
| 南華 | 2007/10/05 8:30 PM |

 

ダム・エムさま

>実在論者の中に、「自己」と「内なる他者」が実在としているならば、一つのものに二つの実在があることになり矛盾です。
 
 それを、実在論者が認めてくれれば、この論争は、空論者の圧勝で、実在論者は廃業です。

 日本はともかく、欧米では、多重人格障害者の持つ、一人一人の人格を「事実」(実在?)として認定する裁判例も見られます。


>さらに、それらが、対話するのもおかしいです。独り言を二人(?)でブツブツ言うことになるのではないでしょうか。

 実際の対話でもよくあることです。
拙ブログ“『般若心経は間違い?』の間違い(一)”コメント欄をご覧ください。
http://blog.goo.ne.jp/nangeensha/e/9c6fc4086019db2dc33afa11a839d490

>不変の実在は、変化せず、したがって聞く耳をもたないからです。「縁起」はおきないので対話もないのです。 

 すると、実在論者は、思考停止となり、もう誰とも論争することなどできません。やはりこれで龍樹の圧勝です。
 
 今日は一日、コメントの対応に追われ、『般若心経』も先に進めませんでした。今から始めます。
 

投稿 南華 | 2007/10/05 22:20
| 南華 | 2007/10/06 5:05 AM |

 

南華さま

> すると、実在論者は、思考停止となり、もう誰とも論争することなどできません。やはりこれで龍樹の圧勝です。

ううむ、うまいですね。実在論者が負けちゃうと、龍樹も自動的に消えちゃいます。負けるが勝ち、の構図ですねぇ。
 
> 今日は一日、コメントの対応に追われ、『般若心経』も先に進めませんでした。今から始めます。

よろしくお願いします。ゆっくりお待ちしますので。

投稿 管理人エム | 2007/10/06 09:21
| 南華 | 2007/10/06 8:50 PM |

 

http://gotamivihara.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=317
はテラワーダ協会の掲示板ですが、
みつおという人が、長老は色即是空にりんごを持ち出すのなら、りんごは非りんごである。これが正しいことは誰でも分かりますね。と説明を始めるべきだった、色即是空に形式論理が適用できるはずがない。と長老に反論しています。
これが分かりやすかったです。
| y_iue | 2007/10/09 9:33 PM |

 

初めて、書き込みます。
内容の濃いコンテンツで驚きました。
内容とは全然関係ないのですが、一つだけ質問なんですが、かなりの量の引用文を上げておりますが、これは著作権には引っかからないのでしょうか。読み手としては説得力のある資料なので、全然文句などないのですが、取上げられている本がかなり最近のものばかりなので、大丈夫なのかとふと思いました。私も引用する事があるので、後学のためにも伺いたいのですが‥。
| zapo | 2007/10/10 12:27 AM |

 

ZAPOさま

 コメントありがとうございます。

 「転用」にならないように注意し、引用元を明示すれば、了解を取る義務はありませんが、できるなら「お知らせ」はしたほうがよいと思います。

 コメントをいただいている「管理人エム」さまが、(石飛道子著『ブッダと龍樹の論理学 縁起と中道』サンガ)の著者であることはご存知かと思います。
 
| 南華 | 2007/10/10 8:39 AM |

 

y_iue さま

 コメントありがとうございます。

>色即是空にりんごを持ち出すのなら、りんごは非りんごである。これが正しいことは誰でも分かりますね。

 全く理解不可能です。

 「りんご」は「非りんご」という「縁起」によって成りたっている。というならわかります。

 
 『般若心経は間違い?』に対して、納得できるどころか、筋の通った反論を見たことがありません。

 長老は、「漢訳『般若心経』は間違い」という証明には成功していませんが、「日本訳『般若心経』は間違い」なら、上手に証明しています。
 
| 南華 | 2007/10/10 1:33 PM |  
 


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