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日本人らしさってどんなの?

2008-01-16 02:22:01 | 路上の声~社会~
年末の劇場会議で「日本人のとりえは『勤勉性』しかない」という話しがありました。
確かに、日本人はまじめで勤勉であるといわれます。働くのが嫌いな欧米人からは「日本人は働きすぎて死ぬ(過労死する)ほどよく働く“勤勉な”連中だ」などと皮肉を言われることも。
・・・・・・そもそも、欧米の人たちと比べて何かが大きく違っている。その違いは何でしょう?
ということで、今日は「日本人らしさってどんなの?」について歴史をさかのぼって探ってみましょう。

じゃ、まず、いつものやつを。
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ありがとうございます。

日本人らしさ・・・・・・。挙げれば色々とありそうですよね。皆さんはどんな日本人らしさを思い浮かべますか?
色々あるでしょうが、個人的には、「勤勉性」と「共同性」が最たるものだろうと思います。今回はその二つについて見てみましょう。

<勤勉性>
まずは、「勤勉性」。
これについては、るいネットにトラックバックされている「知られざる人類婚姻史と共同体社会」の記事、『日本人::勤勉性の源泉は何か!?』で面白いことが語られているので紹介しましょう。

~以下引用~
日本人のDNAは十万年の時間をかけて出来たが、勤勉な性格は一万年の時間をかけて、技術は一千年の時間をかけて洗練され蓄積され、経済力はたった百年以内の成果である。
日本人の勤勉さは日本の扇状地に発展した水はけのよい田んぼによって育まれた。 ~中略~ 上の上から下の下へ水は流れる。村の寄り合いで、水の道は決められ皆の協力で作られた。 ~中略~ 手前勝手な人が大きな声で言っても賛成は得られない。勤勉な人が発言すれば、小さな声で人知れず言っても、平生の行いからそれが村の約束になった。勤勉さは長年のうちに皆が見て判断した。この勤勉さは現実的な皆が知っている事実である。皆が眼で見て、肌で感じた現実であり周りの人から聞ける事実でありこれからも期待できる(全員の眼に見える)真実なのである。
~引用以上~
(上記のオリジナルは「勤勉と技術と経済」より引用させていただいています)


「勤勉性は皆の評価であり事実だ」といわれています。
評価をするということは、勤勉を善しとする気質が形成されてきたということ。じゃぁ、そんな気質はどのようにして生まれたのか。
上記引用文の中に「勤勉な性格は1万年の時間をかけて」とあります。1万年前と言えば縄文時代。そこで、少々長くなりますが、別のサイトを参考に考えてみます。

~以下引用~
農業革命以前に、狩猟・採集(それに漁撈)という生きる術に次いでヒトが覚えたのは、生活に必要な物を作り、余剰な物を売るという「工」であり、(もちろんごく原始的な物々交換ではあったが)交易という「商」であった。

特に狩猟という生活様式は、本質的に不安定でありしかも自給自足に適しない反面、移動生活に適していたところから、自分たちの余剰の品である肉や毛皮、それに近辺で入手できる品々を遠隔地に運んで、等価交換する「通商」という仕組みは概して「狩猟の民」の側から生まれた。

 一方「工」の方は、定住によって生まれた余暇を持つ「採集の民」の得意分野となった。彼らは石器や土器、編(あん)布(ぎん)と呼ばれる衣類を作ることから、それに付属する染料の発明と利用、そして木製品・蔓製品などの生活必需品や装身具など、モノ造りの技を磨くことで「工」という文化を発生させていていったのである。

 要約すれば、「商」とは、狩猟の民による移動という位置のエルギーによって生まれた「足の文化」であり、「工」とは、森の採集の民による匠の技という、質的変化のエネルギーによって生まれた「手の文化」だということになる。狩猟の民の提供する余剰の獣肉・乳製品や毛皮などがかれらによって運ばれ、採集の民の土器や木工品や装身具、石鏃をはじめとする石器類それに骨製の針や糸、木の実や根菜類など余剰の収穫物との(物々交換に始まる)交易に用いられた。ここに狩猟→遊牧=足の民=交易、採集→農耕=手の民=モノ造りという文化が定着するのである。

~中略~

ここで明白にしたいことは、モノ造り=工の原点は「性善説」であり、交易=商の原点は「性悪説」だという厳然たる原理である。「工」は(原則として)いいものを造らないと排除される運命にある。悪評が立てば命取りになりかねないし、ちょっとした瑕瑾(きず)でも買い叩かれ値切られる運命にある。一方「商」は、その原点に売り手と買い手の損益があって、(生きるためにも)売り手は少しでも高く、買い手は少しでも安くという駆け引き抜きでは成立しないし、売り手と買い手の間に介在する「通商」に携わる物は、そうした労苦や費用に見合うだけの利益を得る必要がある。すなわち価格とは、中間費用を包含した駆け引きの妥協点にほかならない。通商(trade)の本来の意味は「騙す」にある所以である。
~引用以上~
(引用は「森と人の地球史」 第4章「狩猟から遊牧 採集から農耕へ~商・工の芽生え そして漁撈」よりさせて頂きました)

(一番最後に面白いことが書かれていますが、それは一端おいておいて)
縄文人は上記の引用文では「森の採集の民」であり「手の文化」にあたります。
縄文式土器が世界最古の土器である事実や、なかでも独創的な火焔土器などは、「手の文化」たる傍証ですね。
そして、この「手の文化」は、怠け者では決して成し得ない文化と考えられるでしょう。多くの試行錯誤や工夫を凝らして作られた新しい物は、まさに「勤勉性」が形になったもの。
日本人にはたゆまぬ努力の末に獲得した匠の技を崇拝する評価気質がありますが、それこそ「勤勉性」を美徳とする証。このような評価は縄文期にすでに生まれていたのではないでしょうか。


<共同性>
日本人の共同性を示す事例は、たくさんあります。
その起源は勤勉性と同じくやはり、縄文人にさかのぼれるでしょう。渡来人である弥生人と緩やかに融合したといわれている点からも、和を尊び共同を美徳とする気質を察することが出来ます。
そして、日本人の共同性を一段と強固なものにしたことに「稲作」があるといわれています。
稲作に関する興味深い記述を「知られざる人類婚姻史と共同体社会」の記事『米or小麦? 東洋人・西洋人の気質の違いと農業システム』より引用します。

~以下引用~
◆自然と人間の調和を求める稲作文明
 
 水田稲作農業をまん中にすえたわが国開放系生産システムは、先にみたヨーロッパの閉鎖系のそれと比べたとき、その特徴はきわめて明瞭である。
 
 第1にそれは、循環する水を仲立ちにした「開かれた自給」システムであり、それゆえに全体の調和を絶えず求める節度をもっていることである。山と川と田と海、これらが個々バラバラひとりぽっちなのでなく、互いに依存し、共生しあっている。その関係総体の中で再生産がおこなわれているのである。したがってこのシステムは、本質的に外に延び他者を侵蝕していく動機をもたない。それをやったら「共生」のバランスが崩れやがて自分の首をしめることにつながっているからだ。それは例えば、山をさらに切り開いて水田開発を推し進めようとした為政者に激しく抵抗した近世農民の英知にも反映されている。基本的に地力収奪的で、外へ外へ面積を求めていくしか方法のなかった小麦+牧畜の西欧農業との根本的違いである。
 
 第2には、むらの原理が働くことである。ゆいや山の下草刈りの共同作業はもとより、田に水をいつ、どれくらいの量や割合で入れるか、同じ水系の上、中、下流の人たちが何度も話し合いながら全体を調整した。大きい農家と小さい農家の関係も弱肉強食のそれではなかった。水の循環を軸にした開放耕地系では、自分の田を荒らすことは他者様に申し訳ないという意識も働いた。自然の相互依存・共存性の高さゆえに人間同士、むら同士の共存・共生関係も磨かれたのが日本の、アジアの特徴だった。閉ざされた系のもと絶えずフロンティアを求めた牧畜農耕、そこでの非共存的「自立」した人間像との、これまた根本的な違いである。
~引用以上~
(上記のオリジナルは農文協「主張」1997年5月号より引用させていただいています)

自然との「共生」意識は、豊かな森ではぐくまれた縄文人より受け継ぐ自然への同化がもとにあるのでしょう。
そして、そのなかで育まれた共同性があったからこそ、稲作というチームワークが不可欠な農耕栽培が根付いたとも読めます。
引用文には触れられていませんが、そもそも稲作というのは、その最初にとても大掛かりな土木工事を伴うものです。畦(あぜ)を作り、水路を作り、場合によっては傾斜地を段々に造成するわけです。現在のような工事用重機もない時代にそれらの土木工事を行うのは共同性なしには考えられないですよね。

・・・・・・
ずいぶん長くなってしまいましたが、長くなったついでにもう一つ面白い事例。
私達の使っている「日本語」そのものが日本人の共同性を示しているという事例です。
これも、「知られざる人類婚姻史と共同体社会」の記事、『東洋と西洋 ~日本語と英語~』より引用します。

~以下引用~
日本語という言語を考察した場合、日本人の「沈黙は金なり」といった考え方が大きく反映されていると言ってもいいでしょう。言語学者である金田一春彦氏は、その著書『日本人の言語表現』のなかで、「日本人の言語生活の特色として、まず第一に注意すべきは、話さないこと、書かないことをよしとする精神があるということである。」 というふうに述べておられます。
その背景には、農耕民族としての共同体を形成し、そのなかで、個人というものが「集団に埋もれた個」のようなカタチで存在してきた日本人社会の特質、あるいは、古くから存在した「ことだま信仰」など、古代人の言葉に対する畏怖といった要素が考えられます。

以下、そういった表現パターンをいくつか挙げてみます。(なお、下記の分類や分類名は、このサイトにおいて、便宜上、定義しているだけで、一般的に認められたものではありません。)

1. ぼかし
「あの件については、あれでいいですね?」「ああ、そのように取り計らってくれ」など、「あれ」とか「これ」といった「こそあど」言葉を使う表現、「~と思われます」や「~と考えられます」、あるいは、「~と言ってもいいでしょう」といった語尾をにごす表現や、「~ではないかと思います」などのはっきりと断定しないような表現がよく使われます。

2. なぞらえ
自分の意見を第三者(それも権威ある人物など)や書物などの存在を借りて間接的に表現しようとする方法です。日本語では、責任回避の心理が大きく働いているのに対して、英語では、自説をより強調するために使われるのが大きな違いです。また、「前例がない」というときの「前例」も同様です。

3. うちけし
いったん述べた自分の意見をいちおう「否定(打ち消し)」しておくという心理に基づいた表現を言います。「…なんちゃって」などの本気なのか冗談なのかわからないような語尾や、「自慢じゃないが」というときの「~じゃないが」といった否定表現、また、褒められると、「いやいや、そんなことはありません」と、やはり、いちおうは、打ち消してみせるという傾向があります。

一方、英語をはじめとするヨーロッパ言語では、言葉は異民族と対峙するための「武器」であり、生死を分ける「手段」でもあり、「できれば発言したくない」どころか、発言できないということは(生きる)チャンスを与えられないということだったかもしれません。まさに、「沈黙」ではなく、「雄弁」こそが「金」であったわけです。

つまり、武器として鍛えられてきた言語ですから、あいまいで不明瞭であるということは致命的です。また、日本人は心の奥で密かに「難解でわからないもの」を有難がったりする心理もあると言われますが、英語圏の人にとっては、こういった「あいまいさ」や「不明瞭さ」に対する許容範囲は極めて狭いと思われます。公平さや誠実さがないと思われるかもしれません。
~引用以上~
(上記のオリジナルは「これだけ違う、日本語と英語」より引用させていただいています)

日本語の曖昧さは、あまり私達の意識するところではありません。
が、主語がないのに意味が通じている一人称を二人称として使う(相手の事を「自分」という)など自他の区別が明瞭でない時制(過去・現在・未来など)の区別が曖昧なのに意味が通じる、などなど、考えてみれば色々出てくるでしょう。
それなのに、緊密な意思疎通が図れる。じゃぁ、それら曖昧さを補っているのは何か。それは「察する」意外にありえません。
相手を察して言葉にならない部分を無意識に読み取るから意思が通うのです。相手への肯定視と同化が私達の使う日本語の前提にはあるのです。
これって、共同性には欠かせないものですよね。


ということで、すごーく長くなってしまってごめんなさい

最後まで読んで頂いて、誠にありがとうございます

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6 コメント

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おもしろかったですよ (matsu子♂)
2008-01-16 13:01:40
長かったけど、、、
わかりやすくておもしろかったです。

>日本人にはたゆまぬ努力の末に獲得した匠の技を崇拝する評価気質がありますが、それこそ「勤勉性」を美徳とする証。

ん~納得です。最近の時代潮流かなかなかたゆまぬ努力というものをサボりがちです
しっかり日本人の本源性に立ち返って勤勉になりたいものです
勤勉性 (しゃけん)
2008-01-16 14:14:59
日本人特有の勤勉性が身に付いた根拠が、少し弱い感じがしました。

①環境(外圧)と生産様式から。
豊かな森に恵まれていたので、地道にこつこつと採集し、或いは栽培してゆけば、確実に喰ってゆけたから、当たり前の事として勤勉になった、のでは?
環境が全く違う砂漠の民(略奪部族)との決定的な違いがまずここにあると思う。

②共同性
共同作業をみなで進めていく中で、自己中サボリーは、邪魔者でしかない。→共同体のなかで規範化され、共認されていった、のでは?

①と②を源泉として、外圧の変化に対しても勤勉性とその共認を武器にして、適応してきたのが日本人ではないか?
どうでしょうか?
Unknown (bunchan)
2008-01-16 14:36:48
日本人って実はすごかったんだな~☆
とっても元気をもらいました。

あと、最後のほうに書かれていた「察する」って、共同性の豊かな民族特有の美しい言葉なんですね!

「勤勉性」「共同性」
おおいに誇りにしたいですね
大変勉強になりました。 (くまがわ直貴)
2008-01-16 18:02:01
 何度も「ふむふむ!」と頷きながら読ませて頂きました!

 「個」と「公」の概念や、日本人が国家(ステイツ)に対する帰属意識を持っている民族であるという根拠を具体的かつ判り易くまとめておられますね。
 やはり、「ものづくり」(職人として、仕事の対価以上に奉仕の精神や人間的成長の喜びを味わう)ことを考慮すれば、自ずから共同体への愛着にも繋がると思います。
コメントありがとうございます (たしょう)
2008-01-19 16:31:14
コメントありがとうございます。

[matsu子♂さん]
>最近の時代潮流かなかなかたゆまぬ努力というものをサボりがちです

そうかもしれませんね。
でも、世界的に見たら日本人もまだまだ勤勉だと思いますよ。少なくとも欧米諸国には負けてないんじゃないでしょうか。

皆が勤勉であるためには、そのような規範があることも重要でしょうが、それと同じ位相に「勤勉であることが皆の役に立つんだ」という働く側の意識があるものだと思います。
「勤勉」であることが普通ならば、あえて「勤勉」などと形容する必要がない。ちょっと昔の日本は「勤勉であることが皆の役に立つんだ」と多くの人が考えて普通に働いている社会だったのかもしれませんね。


[しゃけんさん]
>日本人特有の勤勉性が身に付いた根拠が、少し弱い感じがしました。

ご指摘ありがとうございます。
正直、自分でもそう思っていました。
「手の文化」が根付いて優れた物を作り出せることが勤勉性につながるなら、優れた物を作り出せる民族は皆勤勉ということになりそう。
でも、世界を見渡すと、物作りは上手くても勤勉じゃない民族もいる(狩猟民族の末裔であるイタリア人あたり)。
ということで、当然一面的ではないんだろうなぁ、と思っていたわけです。

そこで、
>①環境(外圧)と生産様式から。
という視点が必要と思っていました。

日本人の特徴として、勤勉性以外に「忍耐強い」気質があります。
日本という国土は、豊かな自然に恵まれ食べることには困りませんが、ハッキリとした四季があり、冬には厳しい寒さにさらされます。また、実は、天災にも恵まれた土地。地震・台風・山火事・土砂崩れ などなど自然圧力豊かな土地です。
このあたりに適応するなかから「忍耐強さ」が生まれ、
「②共同性」の中心にある自己中を封じ込める各人の意思につながっていったのではないか、と考えています。

これらを前提にして、勤勉であることが
>共同体のなかで規範化され、共認されていった
と考えると良いでしょうか。

ただ、ここで疑問なのは、勤勉性を善しとする意思が生まれたのはなぜか、ということ。

規範化されれるためには、それ以前に皆がそれを善しとする意識があるということでしょう。皆がおかしいと思っていることは規範化されません。
とすると、勤勉性を善しとした意思の生まれ方が気になってきます。

その点が、
>豊かな森に恵まれていたので、地道にこつこつと採集し、或いは栽培してゆけば、確実に喰ってゆけたから、当たり前の事として勤勉になった、のでは?<

というだけでは、説明不足と思います。
豊かな自然に恵まれているだけでは、がんばって働かなくても食べていけるわけで、逆に怠け者になる、などと考えてしまうのは僕だけでしょうか?
今後も、一緒に考えてください。
(続きはこちらで⇒ http://www.jinruisi.net/blog/ )


[bunchanさん]
>おおいに誇りにしたいですね
はい。誇ってもらって十分に良いと思います。

日本人の歴史認識は、どうも卑屈に考えがちなところがあります。でも、そんな必要は全然ない。むしろ、世界的に見て、非常に稀で豊かな環境に恵まれた日本人は、独自に大いなる発展を遂げてきた民族と見るのが正しいと思います。

欧米人は私達の事を「支配者に隷属するだけの弱い民族だ。なぜなら革命を起こしたことがないからだ。」などと言うことがあるそうです。
が、それは大きな間違い。それは武力闘争で勝つ事を善しとする欧米人的(狩猟民族的)価値観です。

私達の祖先は支配者に対して意見を申し述べる場を持っていました。
不作の年は、村が一丸となって支配者に対して代表者を送り、税の値引き交渉をしていました。そして農民の主張が認められることが多々あったそうです。

これって、隷属するどころか、支配者と共同関係にあったってことですよね。
万人が持つ「共同性」をベースにして、武力闘争を回避しながら問題を解決していた事実と、武力で奪い取る「革命」の事実。現在皆に受け容れられるのはどちらでしょうか?


[くまがわ直貴さん]
>自ずから共同体への愛着にも繋がると思います。

日本人がもつ、国家(ステイツ)に対する帰属意識は、この共同体をベースにしていると思います。つまり、国家を「国」という概念で理解するのではなく「人=みんな」として理解していると考えます。
例えは良くないですが、戦争で「お国のために」と言うときの「お国」は、即ち「みんな」ということ。「みんな」=「仲間」のために、だからがんばれるわけです。

昨今、「みんなの役に立ちたい」という意思を持った若者が増えてきていると感じます。これは、日本人としての共同性が顕在化してきた傍証なのではないかと思っています。
だとするなら、特定の誰かの役に立つことではなく、「みんなの役に立つ」こと(事業)にお金が払われるべきだ、とも思うわけです。
政策として、その辺り、どうでしょうか?
フロンティア (フロンティア)
2009-06-06 13:36:36
総合人材コンサルティング会社

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