ごきげんよう諸君。予想通りコメントがつかなかった霧島である。まぁそんな気はしてたんだ、うん。幸い、mixiの方でネタをくれと言ったらそっちでは二つほどコメントがついてな。一つは鯖氏からで「困ったら平成ガンダム1個づつ書いていけば良いじゃない!」、もう一つはりっかさんからで「あれだ、AOCフンの歴史を(ry」であった。
で、考えたのだが、実際のところちゃんと語れるほど私は平成ガンダムに詳しくない事に気付いた。いやまぁダブルオーとか種とか延々と語ってきたが、Wは二週しかしてないし、X、G、ターンエーはもう殆ど覚えてない。ジャミル・NEETとかそれぐらいしか覚えてない。ユニコーンも、原作一応読んだんだがもう殆ど覚えてないしな。なので、これについては再検討する為一旦置いておく。
代わりに、今日はフンの歴史について語る事にしよう。久々の歴史ネタである。AOCネタもちょこちょこ混ざるだろうがな。
フンは、諸君も知っての通りアッティラを大王として東西両ローマ帝国を荒らしまわり、ただでさえゲルマン民族の侵入やら内紛やらで酷い状態だったローマ帝国に大打撃を与えた遊牧民族である。世界史の授業だと忘れられがちだが、アッティラの死後、アッティラの腹心が自分の子供を西ローマ皇帝に即位させている上、その西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスが廃位された時を一般的に西ローマ帝国滅亡とするので、西ローマ帝国滅亡の最後の引き金を引いた民族とも言える。
そんなフン族だが、以前AOC攻略のトルコで語った通り、一般的に古いテュルク系遊牧民であると言われている。実際、トルコ人は自分達をフン族の後継者だと思っておる。ただ、これ、実はよくわかってなかったりする。と言うのも、フン族というのは歴史に残る書物、例えば歴史書であるとかそこまでいかなくても日記だとかそういうものを殆ど残さず消えていってしまった民族なのだ。
実際、フン族について語った史料というのはそのほぼ全てがローマ帝国とかの人間によって書かれたものである。よって、どんな言葉を話していたのか、何処から来た何系の民族なのかというのは極端な話証拠となるものが何もないので判らん、というのが正直なところである。
まぁ、証拠、とか言うとアレだが。歴史家が「●●という事実はあった」と証明するのに使う史料って、時代にもよるが大抵「●●って言ってる人がいた」という「個人の日記」だったりするソースは2chレベルの存在なんだけどな。まぁ逆に言うと、そんなんを使わないといけない程度には、歴史の研究は難しいという話ではあるんだが。
それは置いておいて、そんな訳で、実際フン族というのがどういう出自だったのかよく判ってはいない。以前は、匈奴と同じ民族ではないかと言われておった。匈奴と言ってピンと来る人は、歴史オタ、三国志オタ、三国志大戦オタのどれかであろう。
おふらさん。三国志大戦3では大人気の強カードらしい。ちょっとぐぐってそう書いてあっただけなので、verupで弱くなってるかもしれん。出世したもんだな、2時代はアミバ様だったのに。まぁそれは置いといて、この人、三国志時代の匈奴の王(単于)の一人だ。匈奴は古くから中華王朝の北部に存在した異民族であり、戦国時代(つまり秦の始皇帝登場前だな)から中原(歴史的中国の事とでも思ってくれ)への侵入を繰り返しておった。
三国志の時代になると匈奴は弱体化しており、南北分裂後北匈奴は滅亡。南匈奴も後漢に服属しておった。しかし後漢がボロボロになって戦乱の時代に突入、その際、匈奴でも内紛があっておふらさんは追放され、流れ流れて曹操の下で働いたのである。この南匈奴は、その後五胡十六国時代を生き抜き、北朝から隋唐にかけての名門劉家、独孤家の祖先となった。
フン族は、この南匈奴ではなく、滅亡した北匈奴の子孫と言われている。後漢成立直後(三国志でいう漢。漢は一回滅んでおり、それを再興したのが三国志時代まで生き残ってた漢であり、後漢と呼ぶ。劉備の作った蜀漢は後漢を更に復興しようとしたものなので後々漢みたいなもん)は元気元気、元気な子供は股間がてっぽう百合状態だったのだが、西暦46年ごろ破局が襲ってきた。
蝗の群れの襲撃と日照のダブルパンチにより、国民の三分の二が餓死したとまで言われる大打撃を蒙ったのである。この時、匈奴の南部が独立して南匈奴として本国と決別、後漢に服属する。こういう関係があったので、のちの黄巾の乱では匈奴の兵も鎮圧に出陣している。又、南部独立後、本来の匈奴は北匈奴と呼ばれる様になった。
独立された状況が状況だったので、北匈奴はその後も後漢へ侵入を繰り返すがその度に後漢と南匈奴の連合軍に破砕される。その上、むかーしむかしに滅ぼした東胡の生き残りである鮮卑(ちなみにもう一つの生き残りが三国志にも出てくる烏丸。公孫瓉が袁紹と戦った時袁紹に味方した異民族である)に攻撃されて大打撃。ついでにまたしても蝗の襲撃を受けて大打撃。最後は南匈奴と後漢連合軍に攻撃され、ついに滅ぶのである。
この北匈奴が西に逃れ、やがてフン族になった、というのが一般的な説である。但し、基本的にはよう判らんというのが現状だ。例えば、フンの言語はテュルク系、つまりアジア遊牧民が話すタタール語とかカザフ語とかトルコ語とかそういう系統の言語ではなく、フィン・ウゴル語であるとする学者もいる。これはウラル山脈あたりから発生した言語で、ハンガリー語やフィンランド語がこれに近いとされる。
もしそうだとするなら、匈奴=フンは成り立たない事になる。中原の北から来たのではなく、ウラル山脈のあたりから来た事になる訳だ。又、それ以外に、匈奴というのは基本的に中原の北、モンゴルやロシア最東部(シベリアよりかは西、ぐらい)のあたりに住んでいた民族である。こいつらが西の果てである欧州まで移動する間、血統的にも言語的にも完全に匈奴のままだったのかという問題も提起されている。
東アジアの北から、草原を越えて欧州に到達するには相当な時間がかかったろう。事実として、北匈奴が滅んだのは西暦91年。黒海北方(ウクライナ。オデッサとかキエフとかあるとこ)にようやく到達したのが370年ごろとされている。すると250年以上経ってる訳で、その間にアジア諸民族と混血したり、言語も変質して別のものになったりしてしまう可能性もある。
まぁ、そんな訳で結局よーわからんというのが現代の研究における結論である。フンとはまるで関係ない遊牧民が箔をつける為にフン族を名乗った事も予想されるし、フンについて多くの書物を残した欧州人達も、どうもフン=蛮族の総称ぐらいの勢いで書いたんじゃないかコレってものを多数残してくれているので余計にわからん訳である。
そんな訳で、フン族というのは実はどういう連中かようわからんのである。アッティラの死後すぐに分散しちゃった上、数が少なかった(かなり多く見積もってると言われるローマ側の史料でも人口60万程度)から集団として残らなかったしな。ただどうも、フン人は欧州の人間とはかなり異なる外見だったらしい。特にアッティラは、胴長の低身長で毛深くない、かつ色の黒い人物とされており、これが事実なら東方から来た連中の末裔だろう。
ま、それは置いてこう。彼らの軍事技術は主に騎乗したまま繰り出す、複合弓による射撃。つまり騎射である。ただそれだけではなく、ちゃんとした歩兵や弓兵隊も持っておった。軽騎兵だけだと思われがちなモンゴル騎兵も、実際には重装騎兵がちゃんといたというのと同じである。ただどうも、重装騎兵がいたかどうかがわからない。
と言うのも、昨日の今日で書き始めてるので調べが足りんのである。ただどうやら、フンは軽騎兵中心であった様である。尚、欧州に入ってすぐにフンが駆逐したアラン族というのがいるのだが、こいつらはフンと同じ遊牧民族でありながら重騎兵中心だったらしい。フンは逆だったという訳だ。
まぁ、フン族の有利だった点は有力な騎兵戦力を持っていたというのもあるが、本拠地なしでフリーダムに移動するというのが多分一番の利点だったろう。大体、遊牧民とか異民族というものは、農耕民族の帝国に侵入し都市を攻略したりしていく内に王侯貴族としてその土地に定住するのが普通である。これはモンゴルですらそうだった。元という中華王朝を作った。
しかしフンはそうでなかった。彼らは最後まで定住しない遊牧民族であった。まぁ、後半、特にアッティラ登場以後は遊牧しないで主に略奪で稼いでた可能性があるらしいんで、そういう意味では根無し草のヴァイキングみたいなもんかもしれん。それはともかくとして、居住地なしで常に移動してるとなると攻める必要はあっても守る必要はない。
つまりだな、例えば東西ローマ帝国がフン族と戦う場合、討伐の大軍を召集して攻撃に向かう事が必要だ。しかし、東西ローマ帝国は遊牧ではなく農耕で生きており、巨大な領土を持つ。彼らはこれを守る必要があり、極端な話、その長大な国境線全部に兵隊を置かないとフンを防げないし、現実問題としてそんなもん無理である。
しかしフンはその必要がなく、ひたすら攻めて略奪すれば良いのだ。普通、盗賊ですらアジトを持っているものだが、そのアジトが存在しないというから厄介な話なのである。
さて、まぁそんな訳で、軍事的観点から見ればフンが負ける要素は無い、とまでは言わないが、勝てる要素はいっぱいある。。ただ、欧州侵入当時のフン族は、どうも単独の王の下に統率された集団ではなかったらしい。ゲルマン民族の移動みたいなもんだろう。アレも、ゲルマン民族全体が一人の王の指揮の下移動してきた訳ではない。
ゴート人とか、ブルグント人とか、ノルマン人とか、アングル人とか、そういうのが個別に移動したのである。それら個別の●●人ですら、一つの集団として移動した訳ではないんだしな。例えばノルマン人は、デンマークに移動してデンマーク人の祖先になった者、同じくスウェーデン人の祖先になった者と色々いる。
そのゲルマン人だが、実はフン族に圧迫されて大移動を開始したとされておる。元々ゲルマン人はスカンジナビア半島とバルト海沿岸、つまりスウェーデン、フィンランド、エストニア、ラトビア、リトアニア、それとポーランド北部のあたりに住んでおった。それが段々南下して、ドイツの北部やポーランド、ウクライナといったいわゆるゲルマニアと呼ばれる地域に住む様になった。
ここへ、フン族が侵入してきたのである。現代地図の方でいうウクライナから侵入してきたのだな。ゲルマニアで最も東にいた東ゴートはフンに服従、一方西ゴートはドナウ川を越えてローマ帝国に侵入するのである。ちなみに西ゴート族はそのまま移動し続け、何とフランス南西部まで突っ走って建国する。東ゴート族ものちにローマ帝国のお膝元、イタリアへ移動して東ゴート王国を作るし、他の部族もローマ帝国内を通過して各地に王国を立てた。
そりゃローマだって弱まろうという話である。
ゲルマン人をある程度駆逐したフン族は、そのまま東ローマ帝国に雪崩れ込む。395年の事である。これは初めてのフン族によるローマ帝国攻撃であった。トラキアに始まってカッパドキア、アンティオキアと大暴れである。しかも間が悪い事に、この頃皇帝テオドシウス一世は軍を率いてイタリアに出征中であった上、そのまま陣没するのである。
結果、局地戦の連続となる。そうなれば、強力な軽騎兵を持つフン族が圧倒的に有利だ。フン族は3年間に渡って東ローマ帝国内でヒャッハーし続けた暴れ続けた。結局、398年にようやく態勢を立て直した東ローマ帝国はフン族に決戦を挑み、撃退に成功する。
以下、次回(と言うか次々回)に続く。時間が足りないのもあるが、既に草稿が一万字を超えておるでな。
尚、フンについてあんまり語ってない気がするかもしれないが、気のせいに間違いないので私と一緒に精神科にかかるべきである。
で、考えたのだが、実際のところちゃんと語れるほど私は平成ガンダムに詳しくない事に気付いた。いやまぁダブルオーとか種とか延々と語ってきたが、Wは二週しかしてないし、X、G、ターンエーはもう殆ど覚えてない。ジャミル・NEETとかそれぐらいしか覚えてない。ユニコーンも、原作一応読んだんだがもう殆ど覚えてないしな。なので、これについては再検討する為一旦置いておく。
代わりに、今日はフンの歴史について語る事にしよう。久々の歴史ネタである。AOCネタもちょこちょこ混ざるだろうがな。
フンは、諸君も知っての通りアッティラを大王として東西両ローマ帝国を荒らしまわり、ただでさえゲルマン民族の侵入やら内紛やらで酷い状態だったローマ帝国に大打撃を与えた遊牧民族である。世界史の授業だと忘れられがちだが、アッティラの死後、アッティラの腹心が自分の子供を西ローマ皇帝に即位させている上、その西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスが廃位された時を一般的に西ローマ帝国滅亡とするので、西ローマ帝国滅亡の最後の引き金を引いた民族とも言える。
そんなフン族だが、以前AOC攻略のトルコで語った通り、一般的に古いテュルク系遊牧民であると言われている。実際、トルコ人は自分達をフン族の後継者だと思っておる。ただ、これ、実はよくわかってなかったりする。と言うのも、フン族というのは歴史に残る書物、例えば歴史書であるとかそこまでいかなくても日記だとかそういうものを殆ど残さず消えていってしまった民族なのだ。
実際、フン族について語った史料というのはそのほぼ全てがローマ帝国とかの人間によって書かれたものである。よって、どんな言葉を話していたのか、何処から来た何系の民族なのかというのは極端な話証拠となるものが何もないので判らん、というのが正直なところである。
まぁ、証拠、とか言うとアレだが。歴史家が「●●という事実はあった」と証明するのに使う史料って、時代にもよるが大抵「●●って言ってる人がいた」という「個人の日記」だったりするソースは2chレベルの存在なんだけどな。まぁ逆に言うと、そんなんを使わないといけない程度には、歴史の研究は難しいという話ではあるんだが。
それは置いておいて、そんな訳で、実際フン族というのがどういう出自だったのかよく判ってはいない。以前は、匈奴と同じ民族ではないかと言われておった。匈奴と言ってピンと来る人は、歴史オタ、三国志オタ、三国志大戦オタのどれかであろう。
おふらさん。三国志大戦3では大人気の強カードらしい。ちょっとぐぐってそう書いてあっただけなので、verupで弱くなってるかもしれん。出世したもんだな、2時代はアミバ様だったのに。まぁそれは置いといて、この人、三国志時代の匈奴の王(単于)の一人だ。匈奴は古くから中華王朝の北部に存在した異民族であり、戦国時代(つまり秦の始皇帝登場前だな)から中原(歴史的中国の事とでも思ってくれ)への侵入を繰り返しておった。
三国志の時代になると匈奴は弱体化しており、南北分裂後北匈奴は滅亡。南匈奴も後漢に服属しておった。しかし後漢がボロボロになって戦乱の時代に突入、その際、匈奴でも内紛があっておふらさんは追放され、流れ流れて曹操の下で働いたのである。この南匈奴は、その後五胡十六国時代を生き抜き、北朝から隋唐にかけての名門劉家、独孤家の祖先となった。
フン族は、この南匈奴ではなく、滅亡した北匈奴の子孫と言われている。後漢成立直後(三国志でいう漢。漢は一回滅んでおり、それを再興したのが三国志時代まで生き残ってた漢であり、後漢と呼ぶ。劉備の作った蜀漢は後漢を更に復興しようとしたものなので後々漢みたいなもん)は元気元気、元気な子供は股間がてっぽう百合状態だったのだが、西暦46年ごろ破局が襲ってきた。
蝗の群れの襲撃と日照のダブルパンチにより、国民の三分の二が餓死したとまで言われる大打撃を蒙ったのである。この時、匈奴の南部が独立して南匈奴として本国と決別、後漢に服属する。こういう関係があったので、のちの黄巾の乱では匈奴の兵も鎮圧に出陣している。又、南部独立後、本来の匈奴は北匈奴と呼ばれる様になった。
独立された状況が状況だったので、北匈奴はその後も後漢へ侵入を繰り返すがその度に後漢と南匈奴の連合軍に破砕される。その上、むかーしむかしに滅ぼした東胡の生き残りである鮮卑(ちなみにもう一つの生き残りが三国志にも出てくる烏丸。公孫瓉が袁紹と戦った時袁紹に味方した異民族である)に攻撃されて大打撃。ついでにまたしても蝗の襲撃を受けて大打撃。最後は南匈奴と後漢連合軍に攻撃され、ついに滅ぶのである。
この北匈奴が西に逃れ、やがてフン族になった、というのが一般的な説である。但し、基本的にはよう判らんというのが現状だ。例えば、フンの言語はテュルク系、つまりアジア遊牧民が話すタタール語とかカザフ語とかトルコ語とかそういう系統の言語ではなく、フィン・ウゴル語であるとする学者もいる。これはウラル山脈あたりから発生した言語で、ハンガリー語やフィンランド語がこれに近いとされる。
もしそうだとするなら、匈奴=フンは成り立たない事になる。中原の北から来たのではなく、ウラル山脈のあたりから来た事になる訳だ。又、それ以外に、匈奴というのは基本的に中原の北、モンゴルやロシア最東部(シベリアよりかは西、ぐらい)のあたりに住んでいた民族である。こいつらが西の果てである欧州まで移動する間、血統的にも言語的にも完全に匈奴のままだったのかという問題も提起されている。
東アジアの北から、草原を越えて欧州に到達するには相当な時間がかかったろう。事実として、北匈奴が滅んだのは西暦91年。黒海北方(ウクライナ。オデッサとかキエフとかあるとこ)にようやく到達したのが370年ごろとされている。すると250年以上経ってる訳で、その間にアジア諸民族と混血したり、言語も変質して別のものになったりしてしまう可能性もある。
まぁ、そんな訳で結局よーわからんというのが現代の研究における結論である。フンとはまるで関係ない遊牧民が箔をつける為にフン族を名乗った事も予想されるし、フンについて多くの書物を残した欧州人達も、どうもフン=蛮族の総称ぐらいの勢いで書いたんじゃないかコレってものを多数残してくれているので余計にわからん訳である。
そんな訳で、フン族というのは実はどういう連中かようわからんのである。アッティラの死後すぐに分散しちゃった上、数が少なかった(かなり多く見積もってると言われるローマ側の史料でも人口60万程度)から集団として残らなかったしな。ただどうも、フン人は欧州の人間とはかなり異なる外見だったらしい。特にアッティラは、胴長の低身長で毛深くない、かつ色の黒い人物とされており、これが事実なら東方から来た連中の末裔だろう。
ま、それは置いてこう。彼らの軍事技術は主に騎乗したまま繰り出す、複合弓による射撃。つまり騎射である。ただそれだけではなく、ちゃんとした歩兵や弓兵隊も持っておった。軽騎兵だけだと思われがちなモンゴル騎兵も、実際には重装騎兵がちゃんといたというのと同じである。ただどうも、重装騎兵がいたかどうかがわからない。
と言うのも、昨日の今日で書き始めてるので調べが足りんのである。ただどうやら、フンは軽騎兵中心であった様である。尚、欧州に入ってすぐにフンが駆逐したアラン族というのがいるのだが、こいつらはフンと同じ遊牧民族でありながら重騎兵中心だったらしい。フンは逆だったという訳だ。
まぁ、フン族の有利だった点は有力な騎兵戦力を持っていたというのもあるが、本拠地なしでフリーダムに移動するというのが多分一番の利点だったろう。大体、遊牧民とか異民族というものは、農耕民族の帝国に侵入し都市を攻略したりしていく内に王侯貴族としてその土地に定住するのが普通である。これはモンゴルですらそうだった。元という中華王朝を作った。
しかしフンはそうでなかった。彼らは最後まで定住しない遊牧民族であった。まぁ、後半、特にアッティラ登場以後は遊牧しないで主に略奪で稼いでた可能性があるらしいんで、そういう意味では根無し草のヴァイキングみたいなもんかもしれん。それはともかくとして、居住地なしで常に移動してるとなると攻める必要はあっても守る必要はない。
つまりだな、例えば東西ローマ帝国がフン族と戦う場合、討伐の大軍を召集して攻撃に向かう事が必要だ。しかし、東西ローマ帝国は遊牧ではなく農耕で生きており、巨大な領土を持つ。彼らはこれを守る必要があり、極端な話、その長大な国境線全部に兵隊を置かないとフンを防げないし、現実問題としてそんなもん無理である。
しかしフンはその必要がなく、ひたすら攻めて略奪すれば良いのだ。普通、盗賊ですらアジトを持っているものだが、そのアジトが存在しないというから厄介な話なのである。
さて、まぁそんな訳で、軍事的観点から見ればフンが負ける要素は無い、とまでは言わないが、勝てる要素はいっぱいある。。ただ、欧州侵入当時のフン族は、どうも単独の王の下に統率された集団ではなかったらしい。ゲルマン民族の移動みたいなもんだろう。アレも、ゲルマン民族全体が一人の王の指揮の下移動してきた訳ではない。
ゴート人とか、ブルグント人とか、ノルマン人とか、アングル人とか、そういうのが個別に移動したのである。それら個別の●●人ですら、一つの集団として移動した訳ではないんだしな。例えばノルマン人は、デンマークに移動してデンマーク人の祖先になった者、同じくスウェーデン人の祖先になった者と色々いる。
そのゲルマン人だが、実はフン族に圧迫されて大移動を開始したとされておる。元々ゲルマン人はスカンジナビア半島とバルト海沿岸、つまりスウェーデン、フィンランド、エストニア、ラトビア、リトアニア、それとポーランド北部のあたりに住んでおった。それが段々南下して、ドイツの北部やポーランド、ウクライナといったいわゆるゲルマニアと呼ばれる地域に住む様になった。
ここへ、フン族が侵入してきたのである。現代地図の方でいうウクライナから侵入してきたのだな。ゲルマニアで最も東にいた東ゴートはフンに服従、一方西ゴートはドナウ川を越えてローマ帝国に侵入するのである。ちなみに西ゴート族はそのまま移動し続け、何とフランス南西部まで突っ走って建国する。東ゴート族ものちにローマ帝国のお膝元、イタリアへ移動して東ゴート王国を作るし、他の部族もローマ帝国内を通過して各地に王国を立てた。
そりゃローマだって弱まろうという話である。
ゲルマン人をある程度駆逐したフン族は、そのまま東ローマ帝国に雪崩れ込む。395年の事である。これは初めてのフン族によるローマ帝国攻撃であった。トラキアに始まってカッパドキア、アンティオキアと大暴れである。しかも間が悪い事に、この頃皇帝テオドシウス一世は軍を率いてイタリアに出征中であった上、そのまま陣没するのである。
結果、局地戦の連続となる。そうなれば、強力な軽騎兵を持つフン族が圧倒的に有利だ。フン族は3年間に渡って東ローマ帝国内で
以下、次回(と言うか次々回)に続く。時間が足りないのもあるが、既に草稿が一万字を超えておるでな。
尚、フンについてあんまり語ってない気がするかもしれないが、気のせいに間違いないので私と一緒に精神科にかかるべきである。
ていうか、ヴェネツィア共和国って東ローマ関係じゃありませんでしたっけ。それはひどい…あくまで西欧中心なのか…
これAOCのキャンペーンにあったようななかったような。
城主兵はすべてフルアップ、血統付き近衛が出て安物も充実、おまけに家なしで序盤内政最強、ついでに馬小屋ボーナスでチーム全員も美味しいと、AOCでもフンは勝てる要素はいっぱいありますねぇw
家なしなのは消滅まで遊牧民族だったのを繁栄してるんでしょうね。馬も優秀だったみたいですし。ただ、重騎兵が強かったという描写が何処にも…やっぱり当時重騎兵の強かった連中と言えばアラン族とかゴート族なんですよねぇ