どんでん返しの卑弥呼の墓・邪馬台国ーー10・1倭女王卑弥呼発見なるを変更しました。

卑弥呼の墓の新発見、王都の位置、本名および魏志倭人伝の解明について書きつけます。

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九州説という仮説

2010年01月22日 04時56分56秒 | 卑弥呼
九州説の論者には、
イ筑後の三池郡倭郷、ロ佐賀県吉野ヶ里、ハ宇佐市、二九州の北部、
等々があります。
しかし、イ、ロは、仮説になりえても、ハ、二は、仮説とは言えないと思います。
なぜならば、具体的に地名をあげなければ、
単に九州説というレベルになってしまうからです。
宇佐市や九州北部の場合でも、場所をあげなければ、仮説とは言い難いのです。

事実、魏志倭人伝は、距離や日程を明記しているからです。魏志の千里は、
76.5kmです。地図で確認してください。

したがって、対海國(対馬)、一大國(壱岐)、末盧國(まつろこく)、伊都國、不彌國、
奴國1、邪馬壹國(やばいこく)、投馬國までの八國を
特定しなければ、仮説にもあげられない あてずっぽ 説になります。

また、女王以北の当時の不詳20國、そして最後の奴國2を女王國の境界とする。
この場所を特定しなければなりません。
総じて、9國と不詳20國の一つでも特定できなければ、仮説にはならないと考えます。

奴國1と奴國2は、前原市・神有と豊後高田市・界です。

不詳20國のうち、姐奴國(しゃど國)は、佐賀県神崎市の姉地名でしょう。
姐(あね):姉の意味です。この位置は、女王以北と整合します。

邪馬壹國(宇佐市南宇佐)とその南の狗奴國との界からみて、姉地名は、現在の西です。
当時の方位は、東が北、南が東で、90度左回転していますから、
女王以北は、現在の西を指します。
方位の証拠は、南齊書でも東南夷伝が倭國です。(東南は、現在の北東)
倭國の当時の方位は、次の図を参照してください。

A 魏志の方位(カッコは現在の方位)
        東(北)
         ↑
         ↑
北(西)←←←邪馬壹國→→→ 南(東)・・・至る投馬國(大洲市中心部)
         ↓
         ↓
        西(南)

B 姐奴國の位置図・・・佐賀県神埼市・姉

芥屋
 ↑  神有(奴國1)          界(奴國2)
 ↑  ↗             |  ↗
 ↑ ↗    1500里      | ↗
深江・・・・・・・・・・・・・・・・・・南宇佐・・・・
                   |
   姉(姐奴國)         |


伊都國は二丈町深江、不彌國は糸島の芥屋、
奴國1は前原市神有、奴國2は豊後高田市界です。

魏志倭人伝は、女王以北の、当時でも不詳の國を列記して20國をあげ、
なおかつ最後にあげた奴國2を、女王國の南の狗奴國との境界と明記しています。
宇佐市の南は、国東半島で、デカイ鼻です。
国東六郷は、修験道や鬼伝説のあるところ、
そして、さらに南は、投馬國(愛媛県大洲市)で、5万戸だから、四国全体を指します。
これらが、狗奴國と暴露しています。

もとに戻って、九州説といえば、仮説ではなく、大和説に対抗しての意味で、
卑弥呼の宮処が、九州か奈良かの違いを大きく区別した言葉でした。

九州は、筑後の三毛郡山戸郷(白鳥庫吉説)が明治43年に発表。これに対して、大和説は、
内藤湖南ですが、卑弥呼の宮処が奈良の何処かわからない不詳の説でした。

おもうに、私的な考えよりも、中国史書、日本書紀、古事記の言う事に、
何処までも耳を立てて聞く。
いわば、うさぎさんになった気持ちが大切であると回想します。

ハッとおもえば・・・宇佐は、旧名が莵狭で、莵は、うさぎでした。
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