名邑十寸雄の手帖 Note of Namura Tokio

詩人・小説家、名邑十寸雄の推理小噺・怪談ジョーク・演繹推理論・映画評・文学論。「抱腹絶倒」と熱狂的な大反響。

@ 非論理エッセイ 【シェークスピアの正体】

2016年10月14日 | 日記
 シェークスピアの「リチャード三世」に、敵の大群に囲まれ命請いをする名台詞があります。
「余に馬を与えよ。そなた達に、我が王国を授ける」
 誰も耳を貸さず、リチャード王は惨殺されました。

 この名台詞は、想像の産物です。猫背は兎も角、オカマのリチャード王までブロードウェイに登場した人気のあるキャラクターですが、悪行の数々は皆嘘っぱちです。幼い子供達を殺したという事実もありません。物的証拠も証人も皆無ですし、状況証拠の欠片さえありません。史実にそぐわないほら話です。だからこそ、大衆に喜ばれるのでしょう。ここに矛盾はありません。売れる話には、皆同じ要素があります。

 シェークスピアと呼ばれる作家には、引用と盗作が多い。そのシェークスピアの贋作まで有名になり、劇場の公演記録が多々遺されています。現象的には多くの類似例がある。一例を挙げると、一体何枚のモナリザがこの世に存在するか、ルーブル美術館全作品の中に贋作が何%あるかという本格検証から、美術史の実態が暴露される日がいずれ来ます。多くの観客が名画と讃える作品の多くは贋作です。

 しかしながら、「贋作でもええじゃないか」という論理もあります。それらの作品は、無名の贋作画家に拠って描かれた本ものの名画だという観点です。そこには、社会構造に根付く欺瞞の歴史があります。真作より優れた贋作は多々存在しますし、そもそも真作を真の藝術とする前提と根拠自体が曖昧です。デッサン力、色の選択、テンポ、強弱、巨視と微視の観点、題材の構造、主題の普遍性、対象の重み、それらを包み込む深みと黄金の均衡。傑作はそう易々とは生まれません。が、何らかの権威を持つ人物の評価、或るいは遣り取りされる価格や一時の人気に左右されて良し悪しが決まるものです。

 藝術は、王族や太鼓持ち画家、似非学者が鑑定し得るものではありません。藝術にせよ人にせよ、二流が表通りに並び優れものは隠れているものです。人類には、長い暗黒の歴史があります。国家権力に対する批判は首が幾らあっても足りない。ゆえに、必然的な結果ともいえます。現代も殆ど同じ状況です。芸術祭から映画が外されて何年になるかな。

 とは云うものの、推理サスペンスの作家は、謀反、戦争、藝術鑑定に関与致しません。時の政権を応援し、戦となれば死をも厭わず参戦し、人様が紹介なさる作品はどんな作品も褒める事にしております。それでも、本当に良い絵画に出会うと、言葉に表現し得ない感銘から沈黙を強いられる。ダ・ヴィンチ、ブリューゲル、ゴッホ、モネ、レンブラント、葛飾北斎。きりがないので、閑話休題。

                   *

 先の小噺「国王の条件」に登場する王様は、その後暗殺されました。犯人は誰か。小噺を書いた作家だという結論は早計です。物語に登場しない容疑者は、本格推理小説の伝統に反します。推理小説風に考えると、容疑者は生き残った第三の大臣か衛兵しかいません。第二の地位にある大臣には、殺人の動機がある。美辞麗句を並べ立てる処も怪しい。やっと、本格推理作家に一歩近付いた様です。

 え、違う。死んだ筈の第一、第二大臣が生き残り復讐した。なーる程、あり得ますな。しかし、そんな事を云えば亡霊が舞い戻り殺す事だって。いや、それだと怪奇小説になってしまう。怪奇小説家と本格推理作家のどちらが怪しいかというのが、残された命題かも知れません。いやそうとも云えない。唯単に、作家が読者をからかっているだけの事かも知れません。

 ショークスピアと呼ばれる謎の作家も、どこか似ていませんか。ネタの由来を調べると、オリジナリティも思想も欠如したかなり好い加減な天才作家だと分かります。劇場に来る観客は、オリジナリティにも思想にも興味がありません。ゆえに、必然的な結果と云えるかも知れません。

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