名邑十寸雄の手帖 Note of Namura Tokio

詩人・小説家、名邑十寸雄の推理小噺・怪談ジョーク・演繹推理論・映画評・文学論。「抱腹絶倒」と熱狂的な大反響。

Э キネマ倶楽部 【チャーリー・チャップリン】

2016年10月25日 | 日記
 チャップリン映画を観た事の無い若い世代は幸せです。何故ならば、チャーリーを始めて観る感動をこれから味わえるからです。チャップリンの完全主義に触れる前に映画「チャップリン(邦題「チャーリー」)」を御覧になると、人物や歴史が分かります。ロバート・ダウィー・Jr、アンソニー・ホプキンス、実の娘であるジェラルディン・チャップリン他、名優総出演の大作です。

 観る順番としては、「モダン・タイムズ」「サーカス」「キッド」「独裁者」「黄金狂時代」、そして最後に「街の灯」をお勧めします。チャップリンを語り出すと本が10冊書ける程ですが、未だ御覧になっていない方々に解説するのは差し出がましく思います。一度御覧になった方々に御説明するのは望む処ですが、小説家の解説よりも「Unknown Chaplin(知られざるチャップリン)」というNG廃棄フィルムを集めた傑作映像をお勧めします。ナレーションは往年の名優・ジェイムス・メイソン。迫真の名解説です。この中に極めつけ映像があります。NHK版もある様ですが、米国版の方が優れています。的外れな意見がありません。恐らく、字幕付きのオリジナル版があるでしょう。

 「街の灯」の1シーン。浮浪者が、洋服店のウィンドーの前でどぶに挟まった棒を落とそうとあらゆる手を尽くす。しかし、棒の中心が引っ掛かり格子から落ちません。そこへ、窓ガラス越しで大声でアドバイスする店員がいる。「え、何て云ってるの。ガラス越しなので良く聴こえない」という可笑しなシーンです。窓の外に気を取られ、店員は上司らしい中年女性のお尻に針を刺してしまう。どこからともなく現われる人だかりの自然な迫力。このシーンの面白さは、窓ガラスゆえに声が聴こえない点です。しかし、サイレント映画ですので元々音声がありません。ガラス越しに怒鳴る店員の声が聴こえる様な錯覚が生じますが、そこが見事です。結局NGとして廃棄され映画には使用されていませんが、歴史に遺すべき傑作映像です。この名場面を捨てた理由は、サイレント映画の音のトリックが重なった為かも知れません。このシーンは、下記のエピソードに繋がる場面でした。

 サイレント映画を逆手に取った錯覚は、完成された本編にもあります。警官から逃げた浮浪者が車を通り抜けて降りる。美しい少女に惹かれ、なけなしの小銭をはたいて花を買う。花売り娘は目が見えません。本当の金持ちが戻り、車のドアが締まる。ドアの閉まる音と走り去る音を聴いた盲目の少女が、(お釣りは要らないと、客が去って行った)と勘違いします。「有難う」という少女の横に、お釣りを待ちながら呆然としているチャップリンが映る。そして、抜き足差し足で去って行く。「街の灯」の発端ですが、良いトリックが中々思い浮かばず、この短いシーンを撮るのに1年半掛かっています。その中に、窓ガラス越しで聴こえないアイデアもあった訳です。

 「街の灯」のラストの台詞は映像文学の傑作と云えます。浮浪者と、今は目が見える花売り娘の台詞。「もう見えるの」「ええ、見えます」、唯それだけです。この短い台詞は、物理的に目が見えるという事ではありません。娘の目に、この世の真実が映る。物語の総体に対する観点が開かれる瞬間。作品全てを一点に集中した台詞です。大金持ちと勘違いしていた恩人が、実はズボンの尻が破れた一文無しの浮浪者だったと分かる。そこに、花売り娘の覚醒があります。浮浪者チャーリーの人物の大きさが、刑務所から出たばかりの悲惨なコメディと、これ以上ないというチャップリンの目の演技で示されます。勿論、体中を使う至高の演技も他の追随をゆるさない見事なレベルです。単なるコメディアンではありません。何もかも失くした時に光が見えるという真理、思想のレベルに昇華された勘違いトリック、主題を明確にする絶妙な異化効果、見事に繋がった伏線と無理のない自然な映像など、その後もチャップリン独自の完全主義を超える作家はいないし、これからも出ないでしょう。

(付記)

 少し気になるのが、【チャップリンの[NEXT ONE 発言」は嘘】という、それこそ信憑性の無い意見です。演繹的に推論しても、これはチャップリンの発言と考えられる根拠が幾つかあります。

1.先ず「この間違った情報は、1979年に全日空のコマーシャルで森繁久弥氏が使ったのが初め」という情報は明らかに過ちです。僕自身、1950年代にこの言葉を聴き深い感銘を受けましたので、少なくともこの情報は正しくありません。尚且つ、森繁氏の造語でない点も下記(4.)の観点から明らかです。
2.そもそも「そんな記録は無い」と云う様なあやふやな見解で事実を否定出来るでしょうか。下手な裁判でもあるまいに、記録に残らない発言など世の中に溢れている。頭の固い学者風の方々の虚言かと存じます。「記録に無いから存在しない」と云うその論点が根本的におかしいのです。
3.正しい英語であれば、「THE NEXT ONE」と云った筈だという馬鹿げた意見があります。質問は「貴方は多くの映画を創っていますが、あなたの最高傑作は何ですか?」というものでした。そこで「NEXT ONE」と答えるのは何もおかしくありません。米国人とこの話題を話した事も多々ありますが、誰一人として「THE」など付けないし、却って変な表現です。日常会話にいちいち冠詞を付けるのは、教師、学者、或いは役人諸氏だけでしょう。
4.僕が1950年代に日本で複数の映画関係者からお聞きしたのは、下記の逸話です。(ちなみに、黒沢明監督も御存知であったという記録が残っています)
「チャップリンは、当時トーキーが流行っていたにも関わらず、【街の灯】をサイレント映画として発表した。予算もオーバーしクランク・アップも遅れた。にも拘わらず、映画館は長蛇の列となり、世界中の興行記録(観客動員数)を塗り替えた。その直後の記者会見で、『あなたの最高傑作は何ですか』と問われ、『NEXT ONE』と答えた」
 それだけの事です。嘘にしては、余りにもディテールがはっきりし過ぎています。その上、同じ話を何ら関係の無い複数の方々が話しています。
「チャップリンが、いつも『NEXT ONE』と云った」という増幅表現がありますが、それは正確ではありません。しかしながら、口づてに言葉が変化するのは当然であり、それを間違いだと敢えて攻撃なさる行為こそ、チャップリンの名声を利用した売名行為の様に感じます。この台詞は、「街の灯」完成直後の1931年に一度だけ云った言葉です。当時は、誰の軽口であれ記録などされておりません。チャップリンは、半分冗談で云ったのかも知れません。詰まり、どれか具体的な作品名を云えばしつこい質問になる。ゆえに、五月蠅い記者を煙に巻いたのでしょう。なにしろ洒脱な方ですので...。云われた当人が気を悪くして記事にしなかったとしても当然です。ゆえに、この言葉を聴いたどなたかが伝えたものかと思います。いずれにしても...、皆さん天国にいらっしゃるので、真相は藪の中です。しかしながら、この言葉には、芸術家の在り方を示唆した深い意味があります。軽口とは云え、チャップリンであれば当然の考え方です。
5.チャップリンは、老後ジェイムス・メイソンと深い交友関係がありました。その思い出話の中に「いつも、もう一寸という処で完全な作品には至らなかった」という言葉があります。これは、映画「チャップリン」でも使われています。その謙虚な姿勢があればこそ、こう云う名言が出たのではないでしょうか?そういう本音は、公式の会見や自叙伝には現われないものかと思います。更に云えば、そんな事を云った事自体、当の御本人でさえ忘れているのが当然だという事です。その時の聴き手が、感銘を受け他に伝える。多くの名言に共通した経緯ではないでしょうか。

 結論を申し上げますと、この台詞が語られたと云う状況証拠があります。逆に、語られなかったと云う断定には何ら根拠がありません。「記録が残されていないから、この台詞は嘘だ」と決め付ける方々の精神構造が疑われます。時は1931年。その当時の記録などあり得ません。現代とは異なり、そんな些末な出来事を喧伝しないのが古き良き時代かと存じます。口伝の言葉を、「存在しない」と主張する方がどうかしているのです。

 かと云って、斯様な馬鹿げた論争には興味の欠片もありませんので、いかなる反論も御遠慮申し上げておきます。駄目なものを駄目と論証するのは徒労。そんな暇が惜しいのです。大好きなチャップリンの逸話なので、この言葉に感銘を受けた心ある方々に対する誹謗中傷に対し、ひと言反論させて頂きました。あしからず。



ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« Э キネマ倶楽部 【アンドレ... | トップ | Э キネマ倶楽部 【ベルナー... »

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。