名邑十寸雄の手帖 Note of Namura Tokio

詩人・小説家、名邑十寸雄の推理小噺・怪談ジョーク・演繹推理論・映画評・文学論。「抱腹絶倒」と熱狂的な大反響。

@ 文体論 【文体とは何ぞや】

2017年05月17日 | 日記
 文体とは、思想・藝術に於いて作家と作品との間に存する媒介思想を指します。作家と作品を繋ぐ根本技巧と云えない事もない。が、主題の無い作品に文体は要りません。単にスタイルがあれば良い。英語で文体を「スタイル」と訳しますが、似て非なる概念と考えた方が無難です。正しい英語があるとすれば、「アイディオロジカル・コンセプト(Ideological Concept)」がやや近い表現と云えるでしょう。主義やイデオロギーとは異なる想念です。

 作家の精神が新たなものを求める、未到達なものへの接近方法と考える方々が多い。が、幾ら斬新と見える表層を描いても、主題がなければ作品の価値がない。流行を超越している文学そのものに、古いも新しいもありません。本ものと偽せものがあるだけの事です。魅力あるスタイルを持つ作家は、一時代に数人程度いる。が、文体を持つ作家は、人類史でもごく稀ではないでしょうか。音楽も絵画も、他の藝術も皆同じ様な状況です。が、文学が一番遅れている。何故ならば、言葉の背後にある想念を描く藝術ゆえに難しいのです。

 「文体」を、作家と対象の間のカメラと想定する論理解析があります。この考え方には、分かり易い側面がある。望遠レンズ、魚眼レンズ、色眼鏡、高速度撮影、高解像度フィルム、或いは白黒映像を好む藝術家もいるでしょう。白黒という事は、観客に色彩感覚を委ねる文学表現に近いと云えるかも知れません。変わった作風では、プリズム映像、陰陽の裏側とも云えるネガや立体的3Dに拘る作家もいます。人間の目に映る立体感は、捉え方の異なる左右の視覚が脳内で融合する現象ですが、それをわざわざ解体して偽装の距離感を出す3D技術には呆れます。目に悪いというよりは、脳に悪影響が出る筈です。

 絵画の歴史には、二つの目と脳を繋ぐ視覚反応の演繹分解から、視点を印象的にぼかしたり、平面に立体を描こうと無理をする画家がいます。映画作家のルイス・ブニュエルなどは、逆に如何にも立体的に見える絵画に、平面的な上塗りをして視覚の嘘を暴露する。詰まり、恣意的に示した立体感を意図的に壊し観客を混乱させる訳です。もしそこに、何らかの価値があれば優れた表現と云えるでしょうし、無ければ手品と変わりません。「藝術は疑念を提示するだけで良い。結果は観客に委ねられる」と主張するのであれば、それはそれで良いかも知れませんが、ごく稀に思想表現に成功した作品があるゆえに如何しても興味が半減してしまいます。

 文学では深層心理を描こうと試行錯誤を重ね、音楽ではテンポ・ルバートや不協和音を使う。そういう表現技巧は、藝術総体の一要素と云えます。「一即多=多即一」の関係ゆえに、言葉や音や色の末端処理も確かに重要です。単にリズムとか音韻という事ではありません。技巧を一切使わぬ卓越した技巧は、思想表現に不可欠とも云えます。

 「文体の装飾的な修辞技巧から、作家の思想的な立場を失う事なかれ」という先人の教えがある。しかしながら、自分の思想を持つ経験が無いと理解し難い非論理です。「ソクラテスもプラトンも、みんな悩んで大きくなった」と唄った某作家の宣伝文句を思い出します。元々持たぬ素質を、千年嘆く必要はありません。文体無用と考える作家志望の若者達は、異なる世界の想念を描けば良いのであり、文学の本質を理解する読者が少ない事を思えば、釣り合いは取れているかも知れません。これは嫌味でも皮肉でもありません。文体・思想は、一歩誤まると一生を犠牲にする様な恐ろしく深い落とし穴の様なものです。死ぬまで誤解し無駄な努力を重ねる愚行は、極力避けるべきです。

 達磨と武帝の有名な禅問答があります。「景徳伝灯録」に登場する武帝は、梁代の帝王です。論理的には、学者並みの智慧者であったと伝えられます。

「わしは、多くの寺を建て仏教を応援した。山ほどの功徳があるだろうね」
「功徳など、一切ありません」
「何でそうなるの」
「功徳と思う途端に迷いが生じます。折角善意で良い行いを報じたからは、欲望を捨て真理を求めるのが本道でござる」
「それなら、本当の功徳をこれに見せよ」
「功徳は、『放下した智慧』の中に在る。功徳を求める心には何も見えません」
「それなら、仏法の究極の真理を言葉で表現してみよ」
「聖濁の想念が、共に消えた処に生じます」
「もう一寸、分かり易く説明してくれ」
「雲一つ無く、カラッと澄み渡った空を思い浮かべて下さい」
「なる程、それなら何となく分かる」
「それが執着であり、無益なもの全ての根源です」
「ちんぷんかんぷんじゃな」
「そう思う想念を、放下すれば良いのです」
「あんた一体何なのさ」
「論理で問われる限り、識らぬとしか答えられません」
「どんなに偉い坊さんか知らんが、あんたと話していると頭が痛くなる。下がれ、下がれ。二度と顔を出すな」

 達磨さんの様な覚者は、人類史上滅多にいるものではありません。間違った教えを、むやみやたらと拡げる似非思想家が多すぎる様に感じます。約二千五百年の歴史を俯瞰した感慨ですが、間違っているでしょうか。

「こころ」という言葉から感じる印象は、人により千差万別です。

 心の役目は、脳の機能とは異なる。記憶や思考とは似て非なるもの。そう看破すると、おぼろげながら「心」の正体が見えて来る。心は、五感と思考能力を含む六道全てを統べるものであり、形も相もありません。詰まり、目も耳も鼻も口も手足も脳も、心が支配している。一例を挙げましょう。山を仰ぎ見る。風の唄が聴こえる。稲の香りが心地よい。楓の樹肌に手を触れる。茶を味わう。鷹の翔ぶ行き先を想う。そこには、天界宇宙を捉える「こころ」が在る。そして、全ての印象が一即多の世界観となり、一滴の聖水が河となり滄海に流れ込みます。

 文体とはそのまんま、あるがままの真理を指すものです。処が、そこには真理を閉ざす邪魔者がいる。それは…、人間の思惑です。「修辞の為の修辞は嘘」と先刻御承知の筈なのに、プロと自称する方々のおかしな虚言が世に溢れています。「何も足さない。何も引かない」というキャッチ・コピーがありました。曖昧なだけで、実体は商品を売る事を目的としています。そもそも、物理的な観点の稚拙な表現に過ぎません。

「何も足さない。何も引かない」
「だから何なのさ」
「男は黙ってサッポロ・ビール」
 結構面白いものですね。ビールが呑みたくなりました。

 「文は人なり」と云います。そう想うと、その「ひと」と云われる想念を先ず放下したくなる。小説は、誰かの為に書くものではありません。己の為に書くものでもない。言葉にも依存しない。美文も捨てる。すると確たる核が見えて来る。書くべきものなど無い。そう悟ると、書くのが俄然愉しくなる。そこに文体の心が現われます。その境地に至る方には、「文は人なり」という概念がほのかに見えて来ます。

 「伝は覚」と云いますが、受け取る側の心次第で文体の真意は全く異なります。それが、あらゆる概念の前提であり、好い加減な想念が人間世界を覆い尽くしている。人の思惑を超えた処に真理があります。好みや趣味とは明らかに異なる。次元の異なる本ものの世界観とも云えるかも知れません。




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