泥凡夫の私にとっては, 「自利利他」と云う時は, 何かをする場合に「自分も利益を得るが, 他人も利益を得る」と理解し, そこには, 汚染した利害関係が潜んでいます。
仏の教えでは, 「自らはさとりを求め, 人々に対しては救済し, 利益を与える」行為で, 菩薩の実践に相当します。到底, 泥凡夫の私にはおよぶものではありません。
「自利」は阿弥陀仏の佛になりたまいたるこころで, 「利他」は衆生を往生せしむるこころです(中村元著, 佛教語大辞典, 東京書籍参照)。
「歎異鈔」の第四絛には次のことが記述されています。
「慈悲に聖道、浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。
浄土の慈悲というは、念佛して、いそぎ佛になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく、衆生を利益するをいうべきなり。
今生にいかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念佛もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべき、と。云々。」
ありがたいことです。罪悪深重で煩悩熾盛の汚染の私は, 「南無阿弥陀佛」の確信をいただき, 念仏称名で佛と一体とならしていただけることで「自利利他」の実践ができることです。
最上のよろこびです。そして「念佛もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべき、と。云々。」
また, 「教行信証」の「念仏正信偈」には,
「本願の大智海に開入すれば、行者まさしく金剛心をうけしめ、慶喜の一念相応してのち、韋提とひとしく三忍をえ、すなわち法性の常楽を證せしむといえり。」
南無阿弥陀佛 合掌











