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煩悩と私(煩悩の分類と執着)

2012-04-14 07:02:09 | 

煩悩と私(煩悩の分類と執着)

 煩悩は「唯識三十頌」では次のように分類されています。

 [煩悩]…6種
  貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)・慢(まん)・疑(ぎ)・悪見(あくけん)
 [随煩悩]…20種
  忿(ふん)・恨(こん)・覆(ふく)・悩(のう)・嫉(しつ)・慳(けん)・誑(おう)・諂(てん)・害(がい)・憍(きょう)・無慚(むざん)・無愧(むき)・掉挙(じょうこ)・惛沈(こんぢん)・不信(ふしん)・懈怠(けたい)・放逸(ほういつ)・失念(しつねん)・散乱(さんらん)・不正知(ふしょうち)

 さらに「歎異鈔」には, 次のような厳しい語句があります。
 「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく, いまだむまれざる安養浄土はこひしからずさふらふこと, まことに, よくよく煩悩の興盛にさふらふにこそ」
 「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫, 曠劫よりこのかたつねにしづみ, つねに流転して出離の縁あることなき身としれ」
 「われらが身の罪悪のふかきほどをもしらず, 如来の御恩のたかきことをもしらずまよへるを, おもひしらせんがためにてさふらひけり」
 「まことに, 如来の御恩ということをばさたなくして, われもひとも「よしあし」ということをのみ申しあえり」

 上述の四苦八苦の煩悩が昼夜を問わず脳裏から離れなくなるとき最も苦痛を感じます。この苦痛から逃れたい解消したい気持ちが一杯になることがしばしばです。苦しめば苦しむほど,ますますその気持ちは増幅されます。人生に対して投げやりになります。
 迷える者は「六道輪廻…地獄, 畜生, 餓鬼, 修羅, 人間, 天上の6つの境涯を輪廻」して「罪悪深重, 煩悩熾盛」に苦しみ, 「逃れたい, 避けたい,助かりたい」という気持ちが生じます。

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煩悩と私(転変と無所得)

2012-04-08 03:54:17 | 



 罪悪深重で泥凡夫の私が「弥陀の本願」を頂戴した過程を記述しました。支離滅裂で独断と偏見のところが多々ありますが, お暇なときにお読み下さい。ここでは, 参照する経典などの内容を, 僭越ながら, 主として自分流の分類で記述し, 自分流の仮名遣いや漢字を使用しました。 

 朝, 目が覚めて, 読みたい本が脳裏に思い浮かびました。二階の書斎にその本があるので, その部屋へいくために階段を上って行きました。書斎に入って椅子に座ったとたん, その読みたいと思っていた本を, 読みたくないと思いました。本のかわりにパソコンを開きました。

 上述の一連の行為は, ほんの数分の時間でした。そのわずかの時間で, 私の心は一変していました。このような似た行為は毎日起きています。

 私の心の一変に対して, あらためて驚愕するばかりです。心は転変して, 一瞬たりとも留まらないで常に変化し, つかみ所がなく, トラブルを起こし, 不安を生じています。全く煩悩具足の泥凡夫です。
 このつかみどころが無い一連の行為は, 「無所得」, 言い換えるならば, 「空・無相・無我」と一体化していると云われています。

 「唯識三十頌」の中に, 人の心は転変して, あちらを思えばこちらを思い, こちらを思えばあちらを思い, 一瞬たりとも留まらないで常に変化すると記述されています。

 煩悩具足の泥凡夫の私は, 毎日の生活で四苦八苦…生 老 病 死および愛別離 怨憎会 求不得 五陰盛…の状態で過ぎています。

 深い潜在意識において, 「我」による「我癡・我見・我慢・我愛」の四煩悩が必ず潜んでいるといわれています。

いずれにせよ, 常に一時も離れずに心と体の煩わしさに悩まされながら四苦八苦しながら人生を歩んでいます。楽しいことはあまりないように思われます。


 その罪悪深重で泥凡夫の私が, そのままで, 浮き沈みはありますが, 自利利他の人生を力強く歩むことができ, 黒い雲の煩悩の中でも, 一瞬でも歓喜地と感謝を味わうことができるようになりました
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般若の空慧と私3

2012-03-14 16:56:02 | 

                       般若の空慧と私3

         (今日の記述は「般若の空慧と私2(2012-03-10 16:27:07)の続きです)



 罪障煩悩というものは, 元々無いもの。あるがまま生滅する無常のもの。だから無理をして生滅させる必要はないのです。それより諸法無我の道理を聞いて, 如来本願の名号を聞信し, 能く一念喜愛の心を起こせば, 煩悩を断じないで涅槃を得ることができると, つよくさとされるのです。

 ここで注意しなければならないところは, 「信力畢竟智」ということです。親鸞聖人は, 「まことに知んぬ。疑蓋間雑なきが故にこれを信楽と名づく。信楽はこれ一心なり。一心即ち真実の信心なり」と仰せられていますが, 如来廻向の名号を信楽するということは, これまで述べた一切皆空無上正遍智という仏智を, 本願招喚の勅命として信受する現前の事実にほかありません。

 ところでこの信心は, 普通云われている信仰とは異なり, 他力廻向であると同時に, これを信受する機の方に全く体というものが無いというところにあります。「信心獲得」というのですが, 獲得した機にその体はさらに無く, あるものはただ「名号」がそのまま機の上に活動し続けているだけで, 獲得した我というものは, 存在しないのです。

 この点に, 念仏称名には, 大きな特徴があり, 「ワシは信心を獲得した」, 「私は本願を信じています」といった, この「ワシ」「私」というものの無い, 無我の相が如実にあかされているのです。それでこそ大信心は仏性なり, 仏性すなわち如来なり, ということができます。智慧の念仏, 信心の智慧とは, 般若の空慧そのものです。如来は私を済度しますが, 度して度する所は無いということになります。

                           南無阿弥陀仏                  合掌


                       (霊晃聖人講話 ’真実’参照)


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般若の空慧と私2

2012-03-10 16:27:07 | 

                       般若の空慧と私2

         (今日の記述は「般若の空慧と私1(2012-03-07 05:23:50)の続きです)


 この「我」とは一体どんなものでしょうか。ある種のもよおしによって, 因縁仮和合して出ているのです。地水火風の四大と, 色受想行識の五陰が巧みに集まって有機的に結合した生命ということができます。
 たとえば滝壺の泡はある種の仮和合で出来るようなもの。滝となって落下する水が, 岩にぶち当たってできた泡は, つかまえると無明のざわめきや, 罪障の汚れに染みこんでいると思われます。しかし手にとると元の水に帰ってこぼれ落ちます。

 世尊は衆生をたとえて, 泡のようなもの, しぶきのようなものだと仰せられています。これは自性というものは, いかなるものにも, 本来は無いものであるということを教えて下さっています。自性がないということは, 言いかえれば諸法は無我ということになります。本来無我なので無我になろうと力む必要はありません。「自力を捨てよ」とよく言われますが, 持って行って捨てる自力というものは元々何も有りはしないのです。

 水から成る雪という自性は無いのですから, 無くする必要はないのです。それなら何故やかましく「自力我執を捨てて, 無我の信心を喜べ」と言われるのでしょうか。それは要するにこのような仏智の真如実相が聞こえず信ぜず, 寝てもさめても全てに自性があると思い込んで, 「このワシが, この自分が……」と盲目的に執着しきっているからです。
 これほど根強い執着の妄見はありません。だからこそ如来は般若の空慧をもって十八空を説かれ, あれも空, これも無自性と, 諸法無我の道理を衆生に領解聞信させようと骨折られるわけです。

                       (霊晃聖人講話 ’真実’参照)


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般若の空慧と私1

2012-03-07 05:23:50 | 

                       般若の空慧と私1

         (今日の記述は「般若の空慧と私(2012-02-22 01:57:12)の続きです)


 しからば空の状態・本質である我達は, どうしてここに出て居るのかを聞くのが次の問題となります。それはいうまでもなく因と縁が相(あい)より相(あい)起ってここに出てきているのです。人間として自分が生まれてきた因縁には, 深く複雑なわけがあるのですが, 出てくる有様を, 経典には次のような記述があります。

 「赤白二水というのは, 父母の胎中にあって, まだ兆しはじめ無い時の二水である。父母の業縁によって, 本来の二水は開顕する。ついで二水は増長し胞衣, 蓮華となる。大きさは両手を合わせたぐらい, この胞に七つの孔と三つの毛とあり, 胞内の妄心つねにこの門より通う。一つの孔を通真の孔という……」

 以上の記述のように, こと細かにとかれていますが, 「妄心つねにこの門より通う」とありますように, 衆生は無明の妄識を久遠劫來の宿業としてもっており, それで妄想転倒の迷見は去ることなく, 生死苦海に流転輪廻きわもなく繰り返しているのです。

 ですから, このような衆生を済度して, 真如一実の功徳宝海, 涅槃浄土に往生させるということが, 如来の智慧であり慈悲方便にほかありません。そこで如来廻向の名号を信受し, 大行を行じて仏智を聞いていくと, 一切皆空無上正遍智が頂かれ, 次第に深く味あうことができるようになります。

 そうしてこれまで迷って苦しんできた因縁の宿業も, 無明の闇が破れて「本来は皆空であり, ひとつとしてつかまえるものがらが無い真理」が領解できるようになるのです。


                       (霊晃聖人講話 ’真実’参照)


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