■前回まで、観音様の御話を聞いていただきましたが、「観世音菩薩」という名前を「観自在菩薩」と訳し直したのが、三蔵法師・玄奘さんであったと申し上げました。
今回は、この玄奘さんが残した業績について、少しばかり御話します。年表を少しずつ刻みながらの説明なので、目に留まった項目を拾い読みして下さっても結構です。お忙しい方は、玄奘さんが翻訳した経典の多さを実感して下さるだけでも宜しいかと存じます。
俗の話ですが、米国の劇作家でアーサー・ミラーという皮肉屋がおりして、アメリカのセックス・シンボルなどと持て囃(はや)されていたマリリン・モンローさんと目出度く結婚に漕ぎ付けた時のこと、「貴方の素晴らしい頭脳と私の魅力的な肉体を併せ持つ赤ちゃんがきっと生まれるわ。」と有頂天になっていたモンローさんに、このヘソ曲がりの近眼男は言ったそうです。「その逆になったら目も当てられんぞ!」
■人類の歴史の中には、時として強靭な肉体と無尽蔵の精力を併せ持ち、その肩の上に驚異的な頭脳を載っけたような人物が現れるもでございます。そういう人物が高度な倫理観を保持し続けて人類の知的遺産となるような大仕事をして下さるという奇跡も起きるようです。その代表的な人物の一人が、玄奘さんです。では、艱難辛苦(かんなんしんく)の単独留学冒険旅行から、誕生したばかりの大唐帝国に帰国(出発したのは隋王朝ですから、帰国と言うのはちょっと変です)した時点からの御話となります。……この書き方は乱暴でした。歴史上はしっかりと唐王朝が正式に発足していましたから、正確には、「まだ新王朝の基盤が安定していない時期」とすべきでした。反省です。
<645年>
1月7日 玄奘帰国。
2月1日 洛陽で太宗に謁見し西域報告書を求められる。更に還俗と高句麗遠征に同道を請われるが、玄奘は固辞する。太宗は母の菩提寺として建立した長安の弘福寺を翻訳所に提供する。
二代目の皇帝に即位したばかりの太宗は、大戦略家でしたから、西域の情勢を細大漏らさず、現場を走破した玄奘さんから直接聞きだそうと熱心に質問をしたようです。本来ならば、国法を破って「脱隋?」した玄奘さんは極刑に処せられても文句が言えない立場でしたが、太宗は法を曲げても情報が必要だったのです。更に、唐王朝の皇帝は、北方民族の一つである鮮卑系の出自を隠すように「李」姓を自称していましたから、同じ姓を持っていたと言われる伝説の老子と同じ家系に連なっている振りをして漢民族の上に違和感無く君臨しようとしたのですなあ。ですから老子を教祖とする土着宗教の道教を、熱心に信仰して見せて民の歓心を引くのに成功した反面、道教と儒教に嫌われていた外来思想である仏教に対しては、余り良い顔はしなかったのです。
■大唐帝国は、チャイナの歴史の中でも特に国際色の濃い、文化と経済の両面での発展を見たのでした。日本からの遣唐使が有名ですが、抜群の軍事力でシルクロードを安全な通商路にしたので、西からの文化流入は驚異的な質と量を誇りました。都の長安は、正に世界の中心になったのです。ですから、長安の町には無数の言語が飛び交う市場が開かれ、珍しい文物が山のように集まったのです。チャイナは強大な軍事力でしか、安定的な統一を維持できない場所で、一旦強固な安定状況が生まれると、恐るべき富と文化を吸い込む場所でもありました。その最盛期の入り口に、玄奘さんは膨大なサンスクリット語原典を象や駱駝(らくだ)に載せて帰国したのです。西域に対する警備を仰せつかって、シルクロード上に直線的に並べられた要塞基地や狼煙(のろし)台から、東に向かって来る玄奘一行の情報が次々と長安に齎(もたら)されて、都中で歓声が上がったと、玄奘さんの伝記には書かれています。
■実際の玄奘さんは、孫悟空も猪八戒も連れていませんでした。単身でシルクロードに挑み、砂漠や草原の支配者達と交渉しながら、仏教信仰ネット・ワークを唯一の頼りとしてインドへの旅を進めたのです。トルコ系の言語が入り組んでいる地域ですから、支配者達から通訳を用立てて貰いながらの旅だったようです。自分の目で見た様子に加えて、こうした土地の事情に通じた者達から得た情報が、後の『大唐西域記』という大著に詰め込まれました。
今では東洋文庫などに収められていて、簡単に全文を読むことが出来ますが、研究者の中には、現存する『大唐西域記』は玄奘さんが太宗に献じたオリジナル作品ではないのではないか?と疑っている方がいらっしゃいます。つまり、極一部の高級官僚と皇帝だけが独占して極秘扱いになった箇所が、宮廷の奥深くで抜き取られて或る場所に厳重に保管され、一般の凡人が読んでも構わない、言わば残り滓(かす)だけが公表された可能性が高い、という意見です。
そういう可能性はきっと高いと思います。しかし、残り滓でも、この詳細な見聞記録は、その歴史的価値を少しも減らさなかったのですから、玄奘さんは偉い人だったのです。
■先ほど申しました通り、道教を熱心に信仰している太宗に、玄奘は仏教の尊さと重要性を雄弁に語って、ついには母親の菩提寺を翻訳作業所として使える許可を得てしまいます。西域で鍛え上げられた交渉力と状況分析力が冴え渡っていたのでしょうなあ。太宗は、決して仏教徒になったわけではなく、玄奘を完全に自分の手中に置いておく目的で、身内の菩提寺に閉じ込めた心算だったかも知れません。内心では仏教を信じていない皇帝が、いつ心変わりするのか分かったものではなかったでしょうが、玄奘さんの仏教修行者としての使命感は、そんな不安を掻き消すほどに強烈だったのでしょう。
大唐帝国皇帝という世界最大のスポンサーを手に入れた玄奘さんは、休む間も無く「新訳」経典作りに着手します。
一言で「翻訳」と申しますが、玄奘さんが最初に着手したのは数十人規模のプロジェクト・チームの編成でした。ですから、玄奘さんは偉大な冒険家であると同時に、有能なプロデューサーであり、プロフェッサーでもあったというわけです。玄奘さんが短期間に選抜した僧侶達は、音読・単語のチェック・翻訳・再確認・清書というように流れ作業のチームとして編成され、必要な時には玄奘さんが特別授業を行なって高度の翻訳能力を短期間に発揮し始めたようです。トレーナーでもありディレクターでもあったのですな。おまけに、惚れ惚れするような美男子だったというんですから、玄奘さんが生まれた時には「天」の大バーゲン・セールが有ったのかも知れません。ニ物どころか、五つも六つも天からの贈り物を受け取っていたようです。
其の弐につづく。
★玄奘さんの御仕事特集 目次
今回は、この玄奘さんが残した業績について、少しばかり御話します。年表を少しずつ刻みながらの説明なので、目に留まった項目を拾い読みして下さっても結構です。お忙しい方は、玄奘さんが翻訳した経典の多さを実感して下さるだけでも宜しいかと存じます。
俗の話ですが、米国の劇作家でアーサー・ミラーという皮肉屋がおりして、アメリカのセックス・シンボルなどと持て囃(はや)されていたマリリン・モンローさんと目出度く結婚に漕ぎ付けた時のこと、「貴方の素晴らしい頭脳と私の魅力的な肉体を併せ持つ赤ちゃんがきっと生まれるわ。」と有頂天になっていたモンローさんに、このヘソ曲がりの近眼男は言ったそうです。「その逆になったら目も当てられんぞ!」
■人類の歴史の中には、時として強靭な肉体と無尽蔵の精力を併せ持ち、その肩の上に驚異的な頭脳を載っけたような人物が現れるもでございます。そういう人物が高度な倫理観を保持し続けて人類の知的遺産となるような大仕事をして下さるという奇跡も起きるようです。その代表的な人物の一人が、玄奘さんです。では、艱難辛苦(かんなんしんく)の単独留学冒険旅行から、誕生したばかりの大唐帝国に帰国(出発したのは隋王朝ですから、帰国と言うのはちょっと変です)した時点からの御話となります。……この書き方は乱暴でした。歴史上はしっかりと唐王朝が正式に発足していましたから、正確には、「まだ新王朝の基盤が安定していない時期」とすべきでした。反省です。
<645年>
1月7日 玄奘帰国。
2月1日 洛陽で太宗に謁見し西域報告書を求められる。更に還俗と高句麗遠征に同道を請われるが、玄奘は固辞する。太宗は母の菩提寺として建立した長安の弘福寺を翻訳所に提供する。
二代目の皇帝に即位したばかりの太宗は、大戦略家でしたから、西域の情勢を細大漏らさず、現場を走破した玄奘さんから直接聞きだそうと熱心に質問をしたようです。本来ならば、国法を破って「脱隋?」した玄奘さんは極刑に処せられても文句が言えない立場でしたが、太宗は法を曲げても情報が必要だったのです。更に、唐王朝の皇帝は、北方民族の一つである鮮卑系の出自を隠すように「李」姓を自称していましたから、同じ姓を持っていたと言われる伝説の老子と同じ家系に連なっている振りをして漢民族の上に違和感無く君臨しようとしたのですなあ。ですから老子を教祖とする土着宗教の道教を、熱心に信仰して見せて民の歓心を引くのに成功した反面、道教と儒教に嫌われていた外来思想である仏教に対しては、余り良い顔はしなかったのです。
■大唐帝国は、チャイナの歴史の中でも特に国際色の濃い、文化と経済の両面での発展を見たのでした。日本からの遣唐使が有名ですが、抜群の軍事力でシルクロードを安全な通商路にしたので、西からの文化流入は驚異的な質と量を誇りました。都の長安は、正に世界の中心になったのです。ですから、長安の町には無数の言語が飛び交う市場が開かれ、珍しい文物が山のように集まったのです。チャイナは強大な軍事力でしか、安定的な統一を維持できない場所で、一旦強固な安定状況が生まれると、恐るべき富と文化を吸い込む場所でもありました。その最盛期の入り口に、玄奘さんは膨大なサンスクリット語原典を象や駱駝(らくだ)に載せて帰国したのです。西域に対する警備を仰せつかって、シルクロード上に直線的に並べられた要塞基地や狼煙(のろし)台から、東に向かって来る玄奘一行の情報が次々と長安に齎(もたら)されて、都中で歓声が上がったと、玄奘さんの伝記には書かれています。
■実際の玄奘さんは、孫悟空も猪八戒も連れていませんでした。単身でシルクロードに挑み、砂漠や草原の支配者達と交渉しながら、仏教信仰ネット・ワークを唯一の頼りとしてインドへの旅を進めたのです。トルコ系の言語が入り組んでいる地域ですから、支配者達から通訳を用立てて貰いながらの旅だったようです。自分の目で見た様子に加えて、こうした土地の事情に通じた者達から得た情報が、後の『大唐西域記』という大著に詰め込まれました。
今では東洋文庫などに収められていて、簡単に全文を読むことが出来ますが、研究者の中には、現存する『大唐西域記』は玄奘さんが太宗に献じたオリジナル作品ではないのではないか?と疑っている方がいらっしゃいます。つまり、極一部の高級官僚と皇帝だけが独占して極秘扱いになった箇所が、宮廷の奥深くで抜き取られて或る場所に厳重に保管され、一般の凡人が読んでも構わない、言わば残り滓(かす)だけが公表された可能性が高い、という意見です。
そういう可能性はきっと高いと思います。しかし、残り滓でも、この詳細な見聞記録は、その歴史的価値を少しも減らさなかったのですから、玄奘さんは偉い人だったのです。
■先ほど申しました通り、道教を熱心に信仰している太宗に、玄奘は仏教の尊さと重要性を雄弁に語って、ついには母親の菩提寺を翻訳作業所として使える許可を得てしまいます。西域で鍛え上げられた交渉力と状況分析力が冴え渡っていたのでしょうなあ。太宗は、決して仏教徒になったわけではなく、玄奘を完全に自分の手中に置いておく目的で、身内の菩提寺に閉じ込めた心算だったかも知れません。内心では仏教を信じていない皇帝が、いつ心変わりするのか分かったものではなかったでしょうが、玄奘さんの仏教修行者としての使命感は、そんな不安を掻き消すほどに強烈だったのでしょう。
大唐帝国皇帝という世界最大のスポンサーを手に入れた玄奘さんは、休む間も無く「新訳」経典作りに着手します。
一言で「翻訳」と申しますが、玄奘さんが最初に着手したのは数十人規模のプロジェクト・チームの編成でした。ですから、玄奘さんは偉大な冒険家であると同時に、有能なプロデューサーであり、プロフェッサーでもあったというわけです。玄奘さんが短期間に選抜した僧侶達は、音読・単語のチェック・翻訳・再確認・清書というように流れ作業のチームとして編成され、必要な時には玄奘さんが特別授業を行なって高度の翻訳能力を短期間に発揮し始めたようです。トレーナーでもありディレクターでもあったのですな。おまけに、惚れ惚れするような美男子だったというんですから、玄奘さんが生まれた時には「天」の大バーゲン・セールが有ったのかも知れません。ニ物どころか、五つも六つも天からの贈り物を受け取っていたようです。
其の弐につづく。
★玄奘さんの御仕事特集 目次











シルクロードのロマン漂う感じで楽しく拝見しました。
つい最近NHKのBSで「荒馬と女」の撮影現場についての番組をやっていましたが、マリリンの方がミラーへの態度がひどかったみたいです。
私はマリリンのファンで、少し偏っているかもしれませんが、彼女の受け答えは当意即妙で頭は良いと思います。
確かに育ちのせいで教養はありませんでしたが(そこをミラーが馬鹿にしたというような話を聞いたことがあります。本当かどうかはわかりませんが)、教養を身に付けようとかなり努力していました。
関係ない話ですいません。
昨年の秋西安に行ってきたのですが、その際読んだ本で、冒険家・三蔵法師のスケールの大きさを再確認しました。
いったい何が青年三蔵法師を駆り立てたんでしょう。
いつかその旅をたどってみたいものです。
偉い人たちも「さん」づけで呼んでいるのがいいです。そのほうが親しみが持てますね。
NHKの新シルクロードを見ているとたびたび三蔵法師の話が出てくるので「西遊記」しか読んだことのない私も興味をひかれて少し勉強したいと思っていた所です。ここで知識を得たいと思います。
へっぽこ儒者の拙文で真に恐縮至極です。
私も西安に行ったことがあります。
最近の大雁塔付近は変に観光化されていて好きではありません、
勉強になります。
自分のようなへっぽこ儒者は到底かないません
道楽となってしまった暦法計算の延長で、中国史を齧りだした。
3つものブログを文書主体で運用するとは大したものだ。ざっと眺めてみたが、文筆に慣れている人物と見た。わたしのところは、文章を綴るのに四苦八苦していて、画像でインパクトを補っている。いまのところ文章の内容も、あまり刺激的にならぬように、当たり障りのないように内容を記述している。一般の人と比べれば、読書の量は多いと思っているが、その読書量に比例するほど、わたしの文章は手馴れていない。それでも、何でも書いているうちに、よそ様に読んでもらえる文章が書けるようになるだ、と気休めにしている。
仏教をテーマとするからには、僧籍にあるものとみた。
仏教は経典が多すぎて、なかなか取っ付きにくものである。それでも「臨済録」と「正法眼蔵」などは通読したが、「碧巌録」は漢文だけで読みきれていない。
臨済録、正法眼蔵、碧巌録と禅宗臭さがありますが、親鸞も少々齧っているけど...やっぱり無宗教のわたしです。
海外旅行にたびたび行けるような、裕福な寺院を持っていて、時間的にも相当に余裕がある坊さんで、ブログを活用して宗教活動をしようとしているのではなかろうか?
その宗教活動は、伝統的な仏教のようであるので、まずは一安心と言っておこう。
旅限無さんのブログ記事を読んで、仏教の宗派まで当てられたら、わたしも仏教評論家になれるのかもしれないが残念。いまのところ宗派までは当てられない。
最近は、自分のホームページやらブログ、そしてプログラムと気を配っていて、よそ様のブログまでは閲覧していませんでした。旅限無さんのトラックバックで、ブログの動きを知らなければと、気付かせてもらいました。
「玄奘の話」は長沢和俊なんかで、ざっと読んでますから、このつぎは少し遡って「梁の武帝の話」なんかどうでしょうか?
今、NHKの新シルクロードを見ているので、仏教史についても、非常に興味があります。
私は、中国の歴史や古典が好きですが、好きとはいっても、三国志や項羽と劉邦の時代のことにちょっと詳しい程度なので、仏教史については、ほとんど知りませんでした。
ですから、こちらのブログは、とても、参考になります。
これからも、たびたび、立ち寄りたいと思います。