五劫の切れ端(ごこうのきれはし)

仏教の支流と源流のつまみ食い

玄奘さんの御仕事  其の弐拾四

2005-06-29 07:00:00 | 玄奘さんのお仕事
■釈尊の最期を記録した仏教経典は、とても描写がリアルで、「汚(けが)れ」と「清(きよ)め」に神経を使う日本の神道系の信仰には馴染みません。釈尊はボロを着て裸足で過ごしていましたし、すさまじい下痢症状に苦しみながら最期を迎えるのです。とても尾篭(びろう)な話ですが、原始経典は正確に記録しようと努力しています。症状からすると、鍛冶屋のチュンダさんが提供した食事は、やはり夕食だった可能性が高まります。チュンダさんのマンゴー園で一夜を過ごした後に、釈尊は北に向って出発しているので、食中毒の症状に気付いていなかったと思われます。しばらく歩くと、釈尊は激しい腹痛と下痢に襲われています。余りの激しさに、とうとう腰が抜けて立ち上がれなくなってしまうのでした。最期を看取ったアーナンダさんは不思議に元気で、釈尊の要求に応えようとあちこち歩き回っています。

■釈尊は大き目の布を肩から掛けていたようで、その布を四つに折って地面に敷けとアーナンダに命じますから、消耗が激しかったのでしょう。すぐに言われた通りにアーナンダは布で座を作ると、釈尊はそこにへたり込んで二度と立ち上がられないような状態になります。すさまじい下痢で脱水症状を起こしている釈尊は、三度もアーナンダに水を求めます。出家者は持ち物に厳しい制限が有って、その中に水筒類は入っていないので、アーナンダさんは困ります。近くに小川が有ったのですが、折悪しく荷車が500台も通過したばかりで泥水になって飲み水には使えません。困ったアーナンダさんは、もう動けないと言っている釈尊に、先に有るカクッター川ならば水が綺麗だから、そこまで頑張って歩きましょうなどと、ひどい事を言っています。そこに行けば「手足も清められます」とアーナンダさんが言い添えているところから、実態は激しい下痢で糞尿まみれになって横たわっている釈尊の姿が想像されます。

■師弟の間で押し問答をしている間に、小川の水が澄んだと言いますから、結構な時間、二人は水をめぐって口論したのでしょう。托鉢用の椀でアーナンダさんが水を汲んで来ると釈尊はそれを飲み干して少し元気になります。そこに釈尊とは逆方向に歩いて来たクシナガラのマルラ族の貴族が足を止め、何と、その男に説法して帰依させてしまったと記録が有るのです。釈尊という人物のすさまじい教化能力と情熱が分かります。更に、この貴族が目にした釈尊の惨状を想像すると、インド文化における聖者や出家者に対する考え方も理解できます。

■カクッター川で水浴した釈尊は、きっと衣類や布を洗って貰ったことでしょう。下痢症状も腸内が空っぽになって治まったようで、更に北を目指して歩き始めた釈尊でしたが、体力の消耗は凄まじく、再びへたり込んでしまったようですが、先ほど帰依したばかりの貴族が支配している土地まで行こうと主張する釈尊でした。ヒランヤヴァティー川を渡るとそこはクシナガラで、マルラ族の土地でした。そこに貴族達が散歩を楽しむ美しい林があって、有名な沙羅双樹の間に釈尊は横になって最期を迎えるのでした。

■玄奘さんは如来入寂の地に立って、釈尊の最後の息を見下ろしていたと思われる木を撫でて何事かを考えたそうです。誰にでも訪れる死について改めて考えたのかも知れません。彼はこの時、目的地のナーランダー僧院に向っているのでしたから、そこでの学問、そして帰国の旅路と帰着後の大仕事、これらを全て達成する使命感を確認しながら、ホトケに助けを求めたのではないでしょうか。

■釈尊寂滅の地の次に玄奘さんが訪ねたのは、大都市のヴァーラーナスィーです。聖なるガンジス川のほとり、大勢の人々が身を清めに巡礼に訪れ、最期を迎えて灰を流して欲しいと熱望する聖なる川で発展した都市です。仏教を学びに来た玄奘さんの目には、単なる邪教の大都市でしかなかったのでしょう。熱烈なシヴァ神信仰の熱狂やおぞましい姿の苦行者がうじゃうじゃしている風景に反感を覚えたようです。全裸に灰を塗りつけている苦行者を「外道」と記録しています。今でもこういう行者さんは沢山いますし、彼らが編み出したとされる各種の呪術を、仏教はそれらとの対抗上止むを得ず取り込んで、密教部門を確立するのです。玄奘さんはその歴史的分岐点に立たされている事を間も無く知ります。

其の弐拾五に続く

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