旅限無(りょげむ)

歴史・外交・政治・書評・日記・映画

やっぱり無いのかジャーナリズム? 其の弐

2005-09-11 20:54:06 | マスメディア
其の壱の続き

■「見て来たようなウソ」に関連して、サピオの夏合併号に掲載された比較的地味な記事を思い出しました。ジャーナリストの水間政憲さんが地道に取材してまとめてくれた朝日新聞のヤラセ話の暴露記事です。主人公は本多立太郎(りゅうたろう)さんという91歳の元気なオジイチャンです。本多勝一さんとは血縁関係は無いそうですので念のため。


1914年北海道小樽市生まれ。1939年5月に応召して陸軍第15師団51連隊・第2大隊6中隊に配属。同8月中国江蘇省金檀に派遣され41年5月に帰国。43年に再応召、北方守備隊に配属された。終戦後シベリアに抑留され47年8月帰国。帰国後は、86年2月から現在まで、国内全都道府県を巡回して、自らの戦争経験を「戦争出前噺」として講演し、1027回に上る。

ここまでは、御苦労様でした。貴重な体験談を多くの人に伝えることも大切なことですからお体に気を付けながらお続け下さい。と申し上げたいところなのですが、

(今年)5月19日……盧溝橋をゆっくり歩き、頭を垂れて橋の上で土下座した。そして60年前の自分の罪を中国人民に謝罪した。……出迎えたのは中国人民抗日戦争記念館館長・王新華と、『我認識鬼子兵』の著者で中国では有名な作家、方軍の両氏である。国営新華社通信、人民日報、中国青年報、北京晩報やネット、テレビなど中国メディアが大々的に宣伝された。

と書かれると困惑してしまいますなあ。

■この本多さんがチャイナで大人気なのは、盧溝橋事件や南京大虐殺について、「見て来たような話」をしているからのようです。盧溝橋事件に関しては、


「1937年でしょ。私は新聞社に勤めていましたが、(中国側がまず発砲したという)報道には疑問を持っていた。まあ、新聞記者と言っても卵みたいなものでしたが」

と判断に苦しむような曖昧な発言をしているのですが、1995年11月25日付の北海道新聞には「二十歳で東京の朝日新聞記者となった」という紹介記事が出ているのだそうです。1934年から応召する1939年まで勤務した事になっているらしいのですが、本当だとすれば20歳から5年間の勤務です。正社員なのか臨時雇いなのか、雑用係なのか、押しかけ手伝いなのか、身分は明らかにはなっていませんが、

朝日新聞紙上に掲載された本田氏の講演の紹介記事や本人の投稿記事が大量に存在する……

と聞いては、ヤラセ疑惑が湧いてしまいますなあ。800回、900回、1000回の節目ごとには律儀に激励記事が載っているそうです。

■筆者の水間さんは、1991年から2005年までの朝日新聞を調べ上げて、20本以上の本多さんが投稿した記事を探し出してくれています。多くは朝日の社説を「側面支援」するタイミングの良い投稿なのですが、問題なのは「見て来たような話」が戦争体験として掲載されている事です。


「血や油が流れる川で米をといだ仲間」2004年11月20日付
「死体が浮く川で平然と米をとぐ日本兵を見た」2002年11月25日付


水間さんは御本人に確認して、南京虐殺現場をぜんぜん見ておらず、「ピースボート」の講師役で参加した時にチャイナ側から教わっただけとの事です。更に水間さんは本多さんと同じ中隊に配属されていた戦友の皆さんを丹念に取材して、18万人が聴いたといわれる本田さんの講演ネタの裏を取って歩いています。結果は、御想像の通りで、部隊の行動記録とかけ離れたホラ話の連続です。

■ぜんぜん話せない中国語で現地の少女と語り合ったり、捕虜を銃剣で突き刺して60キロ先の長江に投げ込んでしまったり、地獄のインパール作戦で戦死した中隊長と敗戦の報を聞いたり、距離と時間が大混乱しているのが分かります。御本人の名誉と敬老精神からでしょうか、水間さんはさりげなく本多さんの御親族から聞いた言葉を紹介しています。


「祖父は虚言癖があります」

社員の虚言癖には厳罰を科すけれど、元社員?の一般読者の虚言なら大歓迎なのか?認知症の御老人を大切にするのなら、晩節を汚すような「見て来たような話」をさせて喝采を送るよりも、きちんとした治療を受けさせてあげるべきではないでしょうか?本田さんの講演会は、「フーテンの寅さん」並みの名調子とのことで、ハンカチで涙をぬぐって聞き入る女性も沢山いるのだそうです。こういう場合、日本語では「いい面の皮」という表現を使いますなあ。

おしまい。

最新の画像もっと見る