旅限無(りょげむ)

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板橋と云へばアイヌ

2005-02-07 19:12:02 | 歴史
2005年2月5日、板橋区立郷土資料館でアイヌ文化振興・研究推進機構が主催した講演会を聴きに行った。企画展「樺太アイヌ民族誌――工芸に見る技と匠」の開始に合わせて、国立民族博物館教授の大塚和義先生が貴重なスライドを上映しながら樺太アイヌ文化を紹介し、現在も解決していない問題まで、一時間半の持ち時間いっぱい語り尽くした。参加者の中には、先生が支援活動をしている樺太アイヌの方も数人いらっしゃり、皆で先生の熱弁に聴き入った。
 残念ながら、北シベリアに広まっていた諸言語は「抱合語」で、膠着語の日本語とは種類が違うから、「膠着語回廊」には含まれない。回廊の北に広まるアイヌ語を含む言葉は、最も近しい隣人である。しかし、文字を獲得する努力を重ねた日本語の先人達の業績を高く評価する余り、それが行き過ぎると、「無文字文化」に対する恥ずべき侮蔑心が産まれてしまうので、異文化理解の重要性が増している現在、日本近代史の汚点となった『土人保護法』を制定した事実を決して忘れてはならない。野蛮なアイヌに「文字=日本語」を教える事を善行だと独断した明治という時代の荒っぽさ、国境を画定しようと苦闘しながら、際限も無く領土を拡張した時代を、冷静に学ぶのは今でも難しいのである。
 講演の最後に、短いながら質疑応答の時間が持たれると、早速、ロシアの横暴さを言い立てる元気な御老人が熱弁を振るって、大塚先生を閉口させてしまった。先生の立場では、日本もロシアも米国も、貪欲に資源を収奪する目的で支配領域を拡大し続けただけの話で、近代国家というレバイアサン(化け物)同士の土地の奪い合いは、現地に暮らす人々にとってはどちらの旗が立とうと、迷惑なだけなのだが、御老人は、「間宮林蔵が海峡を見つけたんだから、樺太は絶対に日本の領土だ。」と譲らない。なかなかの勉強家らしく、「ロシアは、シベリアを侵略していた時代でも、地球儀も正確な世界地図さえ持っていなかった。」と、ロシアの侵略性を責め立てたのだった。
 奈良や京都を中心とした大和朝廷や、鎌倉・江戸を中心とした武家政権とは無関係に存在した北の交易ネットワーク。大塚先生は、そのネットワークの中で重要な位置を占めていた樺太アイヌの文化をこよなく愛し、彼らを尊敬する言葉を熱心に伝えようとしていた。そして、返す刀で現在日本も権益を求めて資金援助しているサハリンの天然ガス田開発事業が、大規模な自然破壊を続けている現状をスライドを使って話しておられた。タイガやツンドラの大地は豊かな生命の揺り籠、ガス田開発の為に地面を剥き出しにして道や建物を造ると、鮭や鱒が激減し野生動物も姿を消してしまう。自然と共存している原住民は、伝統的な生活の基盤を奪われて、貴重な文化を根こそぎにされてしまう。
 今も昔も、ロシアと日本は表面上は敵対したり友好関係を結んだりしつつも、実質的には北の自然と文化を奪い続けている事には何の変わりもないのである。間宮海峡の名前にしたところで、ロシアはしっかり別の歴史を編み上げて、自国の地図には別の名称を付けている。どちらも、樺太アイヌの人々には無縁の名称である。

■蝦夷錦(えぞにしき)の話

 驚くべき北方交易ネットワークの全貌が鮮やかに見えたのは、大塚先生が「蝦夷錦」の話をして下さった時だった。今も京都の町を練り歩く「山鉾巡行」の山車(だし)を美しく飾っている「蝦夷錦」は、そもそも長江流域の特産品である。それなのに、日本人が「蝦夷」の名を冠して珍重していたのは何故なのか?
 清朝を建てたのは、満洲の女真族だった。彼らは万里の長城の北に広がる自分達の故地を聖地として漢民族の移住を厳しく制限し、北京を拠点としてチャイナ全土を支配した後も、快適な避暑地として各種の伝染病が蔓延する不快な土地を離れて夏を過ごす習慣を守った。従って、全土から吸い上げられた全ての物産は一旦北京に集積された後に、続々と満洲の地に送られるという物流の経路が確立していた。上質の絹糸は山深い四川省で生産され、長江を下って織物地帯で金糸銀糸を織り込んだ最上級の錦が完成し、北京の皇帝に献上されてから、毎年官僚群に下賜されたと言う。
 大塚先生が引いた分かり易い例が、最近発覚した大阪府の職員に毎年ばら撒かれたスーツ仕立て費用の話だった。使い切れない分は横流しして小遣い稼ぎをしていたこの事件と同じで、清朝は更に大規模な横流しが大流行したらしい。毎年、最上級の錦織の衣服が下賜されると、不要な分を貴重な物資と交換しようと北へと送られた。満洲の森林地帯を故地とする女真族は、黒貂(クロテン)の毛皮を何よりも珍重し、最高級品は皇帝が愛用したから、その特産地としてアムール川流域から樺太は常に注目されていた。
 大塚先生の話では、元朝のフビライ汗が樺太を三回攻めた理由は、同じく黒貂の毛皮が欲しかったからだったらしい。
 アムール川を遡上する鮭と鱒はハルビンに集積されて北京に送られていたが、同じ魚が樺太アイヌにとっても貴重な食料であり、その魚皮は衣服や靴の材料となる。樺太アイヌから、冬季は歩いて渡れる間宮海峡の向かい側、沿海州のオロチ族、アムール川河口のウリチ族、アムール中流域のナナイ族までを結ぶ、海と河を利用した長大なネット・ワーク。彼らが一連の交易路を結び付けて、北京に集まる品々を北海道を経由して日本本土に送り込んだ事になる。特に、ナナイ族の木工工芸品は珍重され、その技術は樺太アイヌにまで伝わっていた。それは北海道アイヌの木工技術を遥かに凌駕していたと言う。ナナイ族と言えば、黒澤明監督が現地まで出掛けて完成してアカデミー賞を受賞した『デルス・ウザーラ』の主人公である。映画では、森に暮らす知恵と狩猟の腕前が強調されていたが、彼らの木工技術は特筆すべきセンスと繊細さを持っている。
 北海道沿岸から樺太で獲れるラッコの毛皮、海豹(アザラシ)の毛皮と脂、昆布、干し海鼠(ナマコ)、はアムール流域に送られ、黒貂の毛皮と共に北京へと送られた。昆布や海鼠は満漢全席には欠かせない食材となった。現在ロシア領のウラジオストックは、昔は『海鼠が丘』と呼ばれており、『デルス・ウザーラ』の原作を書き残した探検家で文化人類学のアルセーニエフも、「海鼠漁の絶好の漁場だ」と記録している。これらの産品と交換されたのが、鉄製品と錦織製品だった。北海道に送られた錦は、日本からの刀、タバコ、木綿製品等と交換され、日本各地の資産家が高値で買い取った。その一部が、今も京都の山鉾の山車を飾っているのである。

■日本に対する新たな視点

 長江流域の特産品が、北から到来したために、日本人は「蝦夷錦」と呼んだ。長崎貿易に目を奪われると、日本の周辺に広がっていた交易路の実態を見失うのである。西ばかりでなく、北へも開かれていた日本の経済的な位置、それが明治近代の最大の難問となった対露西亜政策の源でもあった。北海道から樺太、司馬遼太郎が「オホーツク街道」と呼んだ千島列島からカムチャツカへと到る広大な交易地域は、対ロシア戦略によって日露両政府間で分け合われて二国の国境地帯となって分割された。それは同地域の土着文化を根絶やしにして、ロシア文化と日本文化とに色分けすることを意味していた。
 全島を日本が領有した後、千島列島と交換された樺太島は、ニ分割されてから日本の敗戦に乗じたソ連によって占領される。1946年からの二年間、将来において日本政府が「アイヌの居留地=日本領」と主張するのを恐れたソ連は、樺太アイヌを強制送還する。北海道アイヌとは別系統の彼らは、札幌近郊に居留地を与えられて、海と密接に結びついた自分達の文化と切り離されて暮らさざるを得なくなった。こうして、樺太アイヌの文化は衰弱しその言語は絶滅したのである。
 現在、天然ガス田開発が進む樺太サハリンでは、全島人口70万人に対して僅か4000名の少数民族が、自然環境破壊に反対しているのだが、ロシア・日本・中国の権益を求める動きに対しては、無力である。大塚先生は言う。「ほんの十数年分の地下資源、環境に優しいと宣伝される天然ガスを得るために、やっと生き残っている彼らの文化を消滅させて良いのだろうか。」
 ロシアとの国境が未だに定まらないまま、今も日本の外交は右往左往している。島を二つ返して貰っても仕方が無い。四つ帰れば明治維新以来の懸案が解決されるのか?アイヌ文化を公教育の中でどう扱うべきか、日本語や日本文化とは何なのか?南の琉球語はどうすれば良いのか?少しは前科を悔いて「アイヌ文化振興法」を作った日本政府には、北海道の周辺に広がっているアイヌ文化圏を見通す視点が欠けている。
 NHKの語学教育番組の中に、やっと「日本語」の名を冠した講座が現れているのだが、未だに「アイヌ語」も「琉球語」も現れない。勿論、各地の方言は自然に滅亡するのに任されている。東に日本に散らばっているアイヌ語を語源とする地名、日本の伝統文化の深層に潜む精神文化の原型を伝えるアイヌの自然崇拝文化の重要性が再認識されるようになっても、肝腎のアイヌ人とアイヌ語が消滅してしまう。
 近畿に発した日本の政治権力が、東に向かって拡大し、蝦夷という地名が北へ北へと押し上げられ、北海道を呑み込んだ時点で死語となったが、名前が無くなっても歴史は消えない。輝かしい明治維新には戊辰戦争という陰の歴史が有る。朝敵とされた人々は、徹底的に弾圧され、逆賊となって靖国神社にも祭られてはいない。
「白河以北、一山百文」と言われて、問答無用で天皇の財産として収容された東日本の山々は、今でも広大な国有林となって盛んに杉の花粉を吹き上げている。戦後の植林運動の後始末が出来ない赤字国債に押し潰されている日本の姿がここに露となっている。決して消えない歴史の遺産を正負を区別せずに学ぶことが重要なのだと改めて考えた一日であった。