新宿しあわせ一也blog

現・「新宿44ファンタジータワー」支配人のブログです。
支配人になるもっと昔から 2007年スタート

新宿44アートフェス2021~未来よ輝け~なんロケLIVE take3

2021-12-13 19:15:26 | Weblog

文化芸術復興支援チャリティーイベント「新宿44アートフェス2021~未来よ輝け~なんロケLIVEtake3が盛大に終わりました! 今回はスペシャルゲストでポールダンサーやファイアーダンサーも出演(この為に新宿44ファンタジーホールはポールダンス用ポール設置工事しました、なのでこれからはポールダンスイベントも出来ますよ) 今回はとても感動的だったので、嬉しくて超久々にブログ書いてます、あ、そうそう、これを機に、ブログタイトルを一新して、本当に感動した時だけ書くことにしようかな 今までの私も、私自身に変わりないので、立場や環境が変われど、敢えて昔からのブログにて引き継いでいます。ご了承くださいませ!


「死刑裁判の現場〜ある検事と死刑囚の44年」のコメント欄でのやりとり

2018-09-02 15:48:24 | Weblog
(私)
そもそも死は罰なのかな?だとすれば被害者も罰を受けた事になるけど。寿命尽きるまで、反省の日々を送らせる、それが本当の罰ではないでしょうか?

(相手)
最悪な刑罰による重犯罪の抑止、被害者遺族などの感情における仇討ち的な刑、反省を前提としての更生、もちろん拷問に値する強制懲役を容認できる世の中ではない、世界基準に追随するのが正しいとも言いきれない…難しいですね…だからこそ議論しなければならないと思います。

(私)
なるほど、拷問に値する強制懲役を容認できる世の中ではない、これで納得。しかし、死刑は安楽死みないなもの。余程不治の病で苦しんでる人にさえ安楽死を許さないのに、なぜあっさり殺してやるのだ?
足立区の女子高生ドラム缶殺人なんて、どれだけむごい拷問の末殺されたか。いっそあっさり殺してくれと思っただろうに。生き地獄を味わった被害者を想うと足が震えてくる。しかも少年法に守らられるなんて最悪の結末。これじゃ抑止も何もあったもんじゃない。未成年なら何をしてもいいと宣伝しただけ。死よりも恐ろしいのは半殺しです。半殺しの状態で一生生かしてはいかがでしょうか?そうすれば長期にわたり拷問する必要は無くなります。男の場合、男の最も原動力である局部を切断し、両手両足を切断し、それでも殺さず最新の医療で生かし続ける。絶望の中、寿命尽きるまで生き続ける。これが生涯かけての反省です。どうでしょう、死刑よりも恐ろしいでしょう?死刑が廃止されても、十分抑止に繋がると思います。

(相手)
安楽死の話しはやはり死に値する野蛮な懲役や2?3年で重度の拘禁症になるとされる劣悪な禁固ありきと考えます
実際は被害者遺族の心は何をしても晴れません
私の考えは極論ですが死刑に限らず交通の反則金から全て防犯(犯罪抑止)にあると思います
しかし殺人率と死刑の有無も警察力や貧富などが加味されていないので微妙
思うのは、私も含め誰かが利己的な理由で人を殺めると想像し、死刑があるから踏み止まる、終身刑ならば殺る、どうだろうか?やはりわからない…

(私)
私なら死刑の方がむしろやる。終身刑の方が恐ろしい。死は、いずれ誰もが経験せねばならないことであって、けして罰ではない。皆、普段から死を意識せず生きている(つまり一生死なないくらいの考えで)だから極端に死を恐れる。死は、いうなれば無意識。では無意識とは?つまり分かりやすく言えば寝ている時の状態。つまり死そのものは簡単に言えば寝てるのと同じで、苦しみも無ければ悲しみもない、つまり“無” ということは、本当に恐れているのは死そのものではなく、死ぬ瞬間の苦しみと、この世の幸せ(富など)を失う事への恐れ。殺人を犯す人間は、概ね後者ではない。では、一瞬の我慢さえ出来れば死など怖くない。それとも天国と地獄があって、地獄に行きたくないから?なんて確証のない空想が抑止になど繋がる筈もない。要は何が言いたいか、失うものも無い、半ばやけくその殺人者にとって死などむしろ怖くないってこと。無意識なんだから。それより意識がある中で、永遠に続く苦しみの方がよほど辛い。

(相手)
たしかに、取り返しのつかない誤ちの対価に絶望感を設けるならば死こそが極刑とは言えませんね
色々な方々がいるのであえて回りくどい言い方にしますが、加害者にはどんな罪を命じても被害者及び被害者遺族に対する贖罪は無いとして執行部官の精神的負担も考慮した結論を出す時期にきているのですかね?
私のようなクズな親の元に生まれた小学生の子どもも成人判例で…話しがずれましたm(__)m

(私)
議論の必要があると言うなら、死刑の前に、死そのものをきちんと考える必要がありますね。学校でも教わらない、どんな偉い人でも知らない、それが死。だって、この世は生きてる人だけ(死の経験が無い人)で構成されているのだから。死を知らないのに、死を罰だと断言すること自体が恐ろしい。社会に出た事のない学生が社会を語るようなもんで、浅知恵と想像のとても確証のない世界。
私はこう思いますよ、たとえば歯医者で麻酔をせずに治療したらどうなりますか?激痛に耐えねばなりませんよね、それが償いです。死は、麻酔をするようなもんです。一度麻酔をしてしまえば、殴ろうが切り刻もうが痛みはありません。大切なのは、生きてこそ、痛みを覚える、という事です。つまりは生きてこそ償わせることが出来るのです。かと言って、卑劣な殺人者の人権だ何だと言うつもりはありませんよ、きちんと何らかの形で生き地獄を一生味わって頂きます。
あとは、殺人の場合、被害者も死んでいる訳で。遺族は、被害者は神様に認められ、人間界を卒業し天国に招かれた、そう思いたい筈。それなのに、その同じ場所に加害者を送り込むのはいかがなものか?加害者は地獄に行くから良いとでも?そんな確証のない空想に死後を委ねるのはリスクが高すぎる。もしも天国も地獄も存在しなかったらどうする?
人間、不治の病になって、初めて死を意識する。しかし実はそれじゃちょっと遅い気がします。今、元気な人も、普段から少しは考えてほしいもんです。(私は宗教家ではありません)

(相手)
自分もそうだと思います。制度の不備という話ならば、
裁判官や検事、弁護士の能力も個人差があり、そのために量刑にバラ
つきが出てしまうのは避けようがない。実質当事者主義そのものに
限界があることになるけど、そのことはここでは問題にしていない。
この事件というより、番組は死刑囚と個人的つながりができた検事が
初めて人を死刑台に送った心の葛藤に悩んでいる、という感傷の話です
自分から制度に疑問をもって死刑囚に面会して検証したわけではなく、
私信をもらってその人に興味を持ち、情がからんだというような話です


死って眠り?2017ver.

2017-11-21 18:36:57 | Weblog
眠りは、死に近い現象か。

よく、精神を病んでいる人は睡眠薬を飲んで長時間眠ろうとする。
この世の概念で言う“現実逃避”、しかし理解出来るところもある。
眠りとは、“無意識”になることで、無意識になるということは、一時、全てを忘れられるから、悩みや苦しみから解放される。
普通の人でも、単純に疲れたら眠るが、そういう意味では前者は疲れまくっているのだろう(一般的に言う疲れとは違う種類だろうが)

死を考えた時に、一般的には“無”を連想する。
無とは、無意識。つまり、この世の現象でいうなら、失神や眠っている時。
ということは、死を恐れる、ということは、無意識を恐れる、ということになり、おちおち眠ることも出来なくなる。

厳密に言うなら、体は存在している訳だから、完全な“無”ではないが、
眠っている時は意識が無い訳だから、体の存在は意識していない。
ということは、やはりこの世の“生”という認識は、意識と体、その両方が揃って成立しているのだろう。

眠っている時は、体は存在しているが、意識が存在していない、なのでそのひとときだけは、体があるという意識もなく、生きているという概念も忘れている。
しかし、夢を見る時がある。それはつまり、無意識の中に、もう一つの意識があるということになる。
ここがポイントなんです。
夢は時に、この世の価値観では理解出来ない、不可解な世界を映し出す。
自分が空を飛んでいたり、意味不明なストーリーの主人公になっていたり。
これはまさに、体から離れた意識だけの世界であり、死後に近い現象と連想させられる。
なんてこというとどうしても宗教的になってしまうが、そこは誤解しないでほしい、私は宗教家ではない。

二つの考え方が生まれる。
一つ目は“希望”、もう一つは。。
確かに、この世の悩み、苦しみの多くは体が関係している。
何よりも、まず“健康”でなければ、仮にどんなにお金があっても心から楽しめない。
しかし、無意識の中の意識では、時に鳥のように大空にはばたく事も出来る。これはまさに“希望”であり、睡眠薬を使ってでも眠る価値がある。
ただ、そうなると、どうしてももう一つの考えが頭をよぎる。

この世の意識とは、基本、自らの意志で構成されるが、無意識の中の意識は、基本、自らの意志では構成されない。
この世でも、良い日があったり、悪い日があったりするように、無意識の世界でも、鳥のようにはばたく日もあれば、蛇のように地面を這いつくばる日もある。
そしてその全ては自らが培った記憶が根源となっている(基本的には)
歓迎される内容なら良いが、たまには思い出したくもない内容もあるだろう。
つまり、こういうことだ。
自分の意志で構成はされない不可抗力の世界ではあるが、その世界を作ったのは自分自身ということになる。
つまり世界を創るのは神だというなら、その世界の神は、自分自身ということだ。

こうなると、出来れば夢を自在に操りたくなるだろう、それが死後の世界だと思うのなら尚更だ。
そこで宗教家なら往々にしてこのように言う。悔い改めなさい、と。
確かに、夢を死後の世界に例えるなら、合点はいく。夢=本性、となれば、単純に心の綺麗な人が綺麗な夢を見る、となるからだ。
それはそれは皆、恐ろしくなって善行に励むだろう。いい夢を見る為に。
信じる者は救われます、なんて言われて多額のお布施もしてしまうかもしれない。なんだかんだ言って、皆、自分が可愛いから。
せっせと善行を行うのもいいが、それが死後の幸せの為ならば、結局は自身の保身のように思う、やれやれ、死後までこの資本主義の概念をもっていかねばならないのか。
それでも別の良いのだが、、もっと別次元な問題だと思いますね、真実は私にも分からないですが。

話はそれますが、前途した無意識の世界というのは、眠りに例えると然程怖くはありません。では何故死は恐れられるのか?
私の場合は、死というより、“死に方”ですね。単純に、その瞬間がどれほどの苦しみなのか、どれほどの痛みなのか。それでも一瞬ならまだ良いですが、最悪の場合、何らかの事件に巻き込まれ、じわじわ拷問されなぶり殺されることなんて想像すると足が震えてきます。
1988年に起きた、女子高生コンクリート詰め事件なんて、辛くて恐ろしくて未だに震えます。あまりの悲しさに涙が出ます。
こんなこと書いたら不謹慎ですが、せめて、いっそ一思いに逝かせてあげてほしかった。長時間にわたり拷問を受け、どれだけ苦しんだだろう。
彼女は、この記憶と共に死後を過ごしているとは到底思いたくない。そんな筈は決してない。

となると、やはり、全てはうまく帳尻が合うように出来ている、そう思う。そう信じたい。
私は宗教家ではないから、神や仏とは言わない。だが、我々の概念を超越する何かがある、それだけは確か。

私は、人より善行を積んだ訳ではない。人を傷つけたこともある。墓参りにも行ってない。神も信じてない。
宗教家なら、地獄に行くぞ、悔い改めなさい、神を信じなさい、と言うだろう。
本当に、日本人全員が“本気で”そうしたら、資本主義は崩壊する、何故なら日本人全員が全財産を寄付するから。全員が破産、つまり国が破綻。
極端な発想はやめて、“出来る範囲で”やりましょう、つまり“おすそ分け”?
私はおすそ分け研究員ではないから正確な比率は分からないが、おすそ分けとは、せいぜい良くて1割くらいではなかろうか。
つまり9割保身、1割寄付。1万円持ってる人は千円、100万円持ってる人は10万、、
ということは、9割地獄に行く。いえいえ意識の持ち方です?10万100万寄付する人もいれば10円、100円の人もいる、尊いお気持ちに変わりはありません?尊いお気持ち、というのは、その人一人一人の価値観、つまり一人一人の人間性であって、、
じゃ年金や税金も、その一人一人の尊いお気持ち、でいいのか、良くないよな。つまり我々は信用されてない、ルールを決めなきゃちゃんと出来ない不完全な存在。法律があり、警察や刑務所があるから抑止されているだけで、もしもその全てが無くなったら、、?犯罪し放題、そして多くの人は、地獄行き決定か。

だから私はこうして意識をしている。
答えは出なくとも、常に意識し、考えている。
そして健康に生きている今を、心から感謝している。
地獄に怯え、何かに委ねはしない。ただ、後悔と反省は日常茶飯事だ。

そんな中、今日も眠りにつく。滅裂尻切れ御免。

平和ボケしすぎない、と、うれし涙を流せる人生

2017-11-21 18:21:12 | Weblog
不眠症の人が、眠る為にロシアンルーレットに参加して、敢えて命の危機を味わい、そこから生還する事で、ぐっすりと眠った。
そんなファンタジーな物語をどこかで見ました。

幸せとは、やはり当たり前になっては幸せではないんだなと、つくづく再確認させられる場面ですね。
これまでも度々お伝えしてきたように、物事の全ては相対している。
くどいようで申し訳ないが、↓
人生の悲しみを知ってるから、人生の喜びも知ることが出来る。
人生の苦しみを知ってるから、人生の楽しみも知る事が出来る。
人生の不幸を知ってるから、人生の幸せも知る事が出来る。

死を身近に知ってるから、生きている事を実感出来る。

つまり、幸せを感じる為には、適度に不幸も体験せねばならないということ。
私の知り合いで、産まれた時から金持ちの家で、成人後もいまだに親に養ってもらっている人がいる。
我々のように誰にも頼れず、泥を噛みながら自力で這い上がって来た者からすれば何とも羨ましい話だが、どうやら当の本人は幸せではないようだ。
毎日、暇なんだって。なるほど、これがいわゆる平和ボケか。
君は一度、ロシアンルーレットをやったほうがいい。
うん、さぞ生きていることを実感できるぞ。

私は新宿に在住してるが、路上喫煙の注意係、路上駐輪の注意係などで、定年後のご老人をよく見かける。
老後に敢えて働く人も増えている、なるほど分かってる人たちだ。
多くは賃金の為ではない、労働後の旨い酒を飲むためだ、というのは冗談だけど、つまりはそういうこと。
日々に充実感をもたせるためだ。確かに、年金や恩給で悠々自適だとしても、毎日テレビをぼーっと眺めてるだけじゃ幸せは感じられない。

幸せとは、頑張って、苦労してこそ、得られるものなんだ。だから、幾つになっても、頑張らねばならないのだ。
そう、たとえばうれし涙。
うれし涙は苦労して手に入れた者にしか流せない。楽して手に入れたら涙も出ない。喜びもその一瞬だけですぐに流される。
うれし涙を流せる人生、我ながらなんて素敵な言い回しだ(自画自賛笑)

ありがとうございます

2017-11-21 11:36:13 | Weblog
何かの物語でこんなシーンがあった。
侵略する兵士、迫害される奴隷、愉快犯のように次々に奴隷を殺す兵士。
兵士が銃を突きつけると、殆どの奴隷は怯え嘆き命乞いするが、
ある奴隷に銃を突きつけると、その奴隷は微動だにしない。

兵士「お前は死ぬことが怖くないのか?」
奴隷「ありがとうございます」
兵士「何故、有難うなのだ、死は恐ろしい筈だ」
奴隷「人間は生かされているので、死にたくても死ねないものです。だから死なせてくれてありがとうなのです」
兵士「人間は自らの意志で生きている、だから殺される事は感謝ではない筈だ、本当に怖くないのだな?」
奴隷「心から感謝致します」
兵士「なんてムカつく奴だ、本当に殺してやる!」
奴隷「ありがとうございます」
ドキューン!!

このシーンは私の遠い記憶なので、概ね自己流に再現されています。何の物語だったかは思い出せない。恐らくキリスト系なのは想像つく。

私は、まだまだ、いわゆる善人にはなれない。
許容範囲内の親切はするが、寒空の中に眠る老婆に声はかけなかった。
そんな日は、このシーンを思い出すんだ。つまり私は兵士だ。