えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・何事もない重み

2016年08月27日 | コラム
 鋏が肩口を分け入ってお喋りの合間に髪を床へ散らしてゆく。大型犬の毛並みを整えるたわしのようなブラシで髪を梳いてから美容師は「どれほど切りますか」と聞いた。窓ガラスに映る物差しと体の位置を見比べて三十センチほどで、と答えると美容師は物差しを腰の物入れに仕舞い水鳥のくちばしのように曲がったクリップを取り出した。

 頭の上でまとめていた髪は下ろすといつの間にか腰に手を当てた時に毛先がそこへ届くほどの長さまで成長し、髪を洗うと水を吸った塊がずっしり頭上に乗る。整えないまま夜中に外へ出ようものなら悲鳴を上げられる。あまり伸ばしすぎてもよろしくはないようで、何でもない時にお手洗いで髪を整えていると「ヒッ」という悲鳴とともにドアの閉まる音がしたこともあった。長髪と悲鳴の因果のきっかけは間違いなく某映画のせいだろうが、江戸時代の怪談集の挿絵はだいたい皆「おどろの長髪」なので昔から長髪を解くという行為はそういうものと一体になっていると思ってもよいのだろう。そもそもショートカットを白い目で見られなくなった歴史が浅いことは脇に置いておく。

 肩口あたりに鋏が入った。断ち切る音も聞こえないのは耳に被さった髪のせいか、降り続ける雨が強まったせいかはわからない。稚児髷の形にあちこち丸められた髪束がほどかれて鋏を入れられてゆく。背中に落ちている切れ端と残った髪の長さは似たようなくらいだろうか、ともかく肩先から徐々に重みが消えた。髪束がすべてほどかれて鋏を入れ終わると「濯ぎますね」と美容師は前掛けをとった。洗髪台に向かう半ば振り返ると、座っていた椅子の背もたれの下に小型犬並みの毛の塊があった。もう一人の美容師が幅の狭いモップで落ちた毛をまとめると塊は動き出しそうな具合にまとまり、ブラシに合わせて床をなめらかに滑るさまがどうにも生き物めいて仕方ない。こんな物体を今まで背中に乗せていたのだと思うと首のこりも理由もいく。「毛羽毛現みたいですね」「は?」「いえ何でもありません」美容師はほどよく力のこもった指で頭を支えながらシャワーを器用に扱って髪を濯いだ。

 すっきりと重みの抜けた頭を上げて髪を乾かしてもらいに元の席へ歩くと、ちょうど歩いた後へ髪の切れ端がばらばらと落ちていた。

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