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飛鳥稲淵は豊穣の時を迎えた 〜棚田の風景と古代飛鳥〜

2016年09月15日 | 奈良大和路散策

稲淵の棚田風景

飛鳥から吉野へ向ける道すがら

 

 石舞台古墳のあるあたりは嶋庄と呼ばれ、蘇我氏の奥津城であった地域。蘇我氏は嶋の大臣(しまのおおおみ)と呼ばれていた。そもそも飛鳥は蘇我氏が勢力を有する地域。その地が舞台であった飛鳥時代は蘇我氏の時代だったとも言える。初期ヤマト王権が3世紀中盤以降奈良盆地に起こったのだが、その場所は盆地の東、三輪山山麓(ヤマト:山の麓)であった。居館跡や運河などの跡が見つかった巻纒遺跡や、最古の前方後円墳である箸墓をはじめとする大型前方後円墳文化を作った「三輪王朝」はここからスタートした。

 

 6世紀にはヤマトの大王の宮都は三輪山麓を離れ、盆地の南の飛鳥の地を転々とすることになる。飛鳥の地は奈良盆地の中では大和川から難波、瀬戸内海、筑紫を通じて大陸とつながる地の利を有する土地であった。もともとは東漢氏などの渡来人一族が住んでいたところであったが、蘇我氏はこの飛鳥の地を重視し、渡来系一族との交流を通じて外来文化、ことに仏教を積極的に取り入れた。他の有力氏族、大伴氏や物部氏を凌駕して大王家の外戚となり政権運営に影響力を有することとなる。今日、明日香村は稲穂がたわわに実りまさに豊穣の時を迎えている。嶋庄、祝戸からさらに吉野に通じる峠に向かって進むあたりが稲淵。ここは棚田が有名だ。もう一つは、石舞台から多武峰に向かう冬野川沿いの登り坂あたりにも棚田が広がっている。まさに「豊葦原瑞穂の国」の姿を彷彿とさせる景観だ。

 

 しかし、いつの頃から飛鳥にこのような棚田の風景が形成されたのだろう。こうした景観はおそらく弥生の姿ではなかっただろう。初期ヤマト王権も後の飛鳥王朝も稲作農耕に経済基盤を置く王権であった。しかし3世紀以前の北部九州のチクシ王権と異なり、弥生的な農村集落たる環濠集落や高地性集落を政治拠点とする王権ではなかった。耕作地/農村集落と王都(宮)は截然と分かれていた。奈良盆地における初期の環濠集落である唐古鍵遺跡も「王都」としての性格はなく純然たる農耕集落(ムラ)であった。初期ヤマト王権の「王都」たる纒向遺跡は完全位離れた場所に形成されている。6世紀の飛鳥も「王都」の地であった。飛鳥は転々と移り変わる宮殿や外来宗教である仏教寺院などの異国風建築物がひしめく「近代的な」人工的都市であった。その周辺部には大王家や有力氏族の古墳が散在していた。これまでの弥生倭国的な地域とは異なっていた。今感じる「国のまほろば」「豊葦原瑞穂の国」といった田園景観は、むしろ奈良盆地の中央部から北に広がっていたのだろう。すなわち古代奈良湖が干上がった跡に稲作耕作地が拡げられた。舒明天皇が天香山に登り、そこから北に広がる豊かに実る奈良盆地を展望して「うまし国ぞ秋津洲大和国は」と読んだ風景だ。

 

 稲淵、栢野森は飛鳥の中でも南の果てである。吉野へと抜ける峠道(芋峠)へと続く山がちな地域、すなわち飛鳥世界の絶界である。大海人皇子が吉野へ逃れ、壬申の乱で飛鳥に凱旋して天武天皇として即位。その皇后、のちの持統天皇が度々吉野行幸を行った道だ。また都に疱瘡が伝染せぬように峠に疱瘡除けの猿石を置いたりもした。今の稲淵や飛鳥のこの田園風景は、必ずしも飛鳥時代を代表する風景ではなかったにちがいない。当時は水利に恵まれた平地以外は稲作には向かない土地柄だったであろう。棚田という耕作形態はずっと後世になってからのものだろう。

 

 ここ稲淵にも一時期宮都が営まれた。飛鳥稲淵宮だ。発掘調査の結果、祝戸地区にその遺構らしき物が見つかった。どの時代の宮都なのか?確定できていないが、645年の乙巳の変後、皇極上皇、中大兄皇子は一時都を難波に移したが、やがて孝徳天皇を難波宮に置き去りにして再び飛鳥に戻った。その時に造営された行宮(仮宮)ではないかと言われている。だとするとなぜこのような辺鄙なところに行宮を置いたのだろう。

 

 また最近話題になった都塚古墳。今年の発掘で石積みの階段状ミラミッド構造の方墳であることがわかった。誰の墓であるか決定的な証拠は出ていないが、かなり手の込んだ方墳であることや、蘇我氏の奥津城で蘇我馬子の石舞台古墳に近いことから、蘇我稲目の墓ではないかと言われている。

 

 飛鳥から吉野へ向かうここ稲淵から栢野森辺りはなかなか謎の多い場所だ。今は長閑で豊かな棚田風景が広がる田園地帯だが、おそらく飛鳥人はこうした風景をここに見ることはなかっただろう。稲作農耕を行う土地というより、聖なる地、異界へつながる土地という理解であっただろう。今でもこの地区では毎年1月には綱掛け神事(男綱)が執り行われ、「子孫繁栄」「五穀豊穣」「家内安全」「無病息災」を祈念する習わしだ。この時飛鳥川をまたいで結界が張られていることを見ても、ここは彼の地、此の地を隔てる場所だった。飛鳥なる世界の鄙の地は奥が深い。

 

稲淵の棚田

 

嶋庄あたり

 

都塚古墳

最近の調査で階段ピラミッド状の方墳であることがわかった

蘇我稲目の墓ではないかと言われている

 

石棺がそのまま残る珍しい古墳

 

石舞台付近の棚田

 

石舞台地区の背後には多武峰が

中大兄皇子と中臣鎌足がクーデタの謀議を行った談合(語らい)山からは飛鳥の全体が見渡せる

 

毎年1月に行われる綱掛け神事

(男綱を掛けて、子孫繁栄、五穀豊穣、家内安全、

無病息災を祈る)

対をなす女綱は下流に掛けられる。

聖なる世界、異界との結界だ。

(写真はmahonoHPより)

飛鳥稲淵宮跡

(明日香村世界遺産HPより)

 

 

 

 

 

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