抵抗戦線

ブログを使用しての種々の論考

詩623 かつて独立国であった琉球国の主体性を回復すること 12 天皇

2016年10月11日 11時35分44秒 | 政治論

 ヤマトゥにおける天皇の存在性と琉球沖縄でのそれは天地ほどの違いがある。

 ヤマトゥにおいて国家主義が鎌首をもたげるときは必ず天皇制国体ということが言われる。天皇制は国家主義者にとって、国民に対し、実体のない国家をさも実体があるかのように見せかけるために都合よく利用される奇怪なアイテム(天皇という存在について常民レベルで民俗学的に考究された学跡は見当たらない)にほかならなかった。鰯の頭も信心から、というのは俗諺だが、国家主義者にとってはまさに天皇でも鰯の頭でも利用できるものは何でもよかったということだ。あの三島由紀夫でさえこの誘惑に勝てなかった。日本国憲法はこうした国家代議の保守系為政者の意向を反映すべく「日本国民統合の象徴」という位置づけで天皇制を温存した。米国も又傀儡国家を把持するためにこれを利用すべく占領下日本を巧みに導いた。但し、為政者の都合は、天皇を「主権の存する日本国民の総意に基く」地位とする憲法上の規定「国民主権」から、到底、天皇制悪用の手ずるにはならない軛を負った。安倍晋三の国家主義的発露は実は未だその端緒にさえ達してない(この、安倍晋三の招来的な危険性を喧伝するのは、この宰相の対中脅威、対北脅威煽動と連動する水掛け論にしかならない)が、彼が今やっていることは恐らく道半ばで愚かにも頓挫するにしろ、憲法規定を天皇主権とする帝国憲法への復古的改悪の準備にほかならず、結果的には醜態を晒す、国費浪費とでもいうべき愚行そのものだ(同じように、戦後政府官僚の誤った国策選択の末生じた原発費用の猛烈な無駄ー退くも地獄進むも地獄ーは、愚行というのも愚かしいほどにばかげた実態をどこまでも晒し続けている)。

 一方、琉球沖縄にとって天皇制は親の仇、不倶戴天の敵以外ではなく、ヤマトゥ国民が何気に持っているらしい?天皇家への親和感は恐らく皆無であろうと想像される。天皇神格化と皇民化教育、「おおきみのへにこそ死なめ」という玉砕推奨国体は、沖縄戦という、未曾有の人民淘汰の惨劇を運命的に沖縄県民に齎した。もし総じて国民が天皇家へ帰依しているというのなら、同化策下の沖縄県民は自ら死をもてこれを証明したのだが、天皇は戦後直ぐ連合国米国に沖縄島嶼を差し出して防共最前線とし、己の国体を護持すべく子々孫々までその生贄としたのだった。これが戦後国防論の要を成し、ヤマトゥ本土が現実に拒否していたはずの日米安保不動産負担を集中的に押し付ける流れとして現今日米画策の有無言わさぬ動力源となっている、というほかない。見よ、菅官房のあの死神のような無表情を、安倍晋三の薄笑いを。彼らの背後には、戦後日本が踏襲した不滅の天皇制国体の亡霊が取り付いている。高江の現場には鬼気迫る征服者たちが、「我は(天皇の)天下国家の公務員」とばかり、人民を蹴散らして(皇国のために)恐るべき自然破壊に勤しんでいる。早晩歴史が彼らの悪事を断罪するであろう。いずれにしろ沖縄県民が天皇家に対して、ヤマトゥ常民並の極めて自然な親和感などというものを保持しているとは到底思えない。曖昧さに根拠を置くなら言えるこの故なき天皇愛は、日本人の心根に触れる微妙なゆらめきとしてしか確認できず、その余りに日本人的な性格からその特殊な人間的異空間を想定せざるを得ず、もし琉球国が独立するとしても天皇家に対しては何らの哀惜も生じないことだろうことは確実である。(つづく)

 

 

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