抵抗戦線

ブログを使用しての種々の論考

詩447 傀儡国家 2

2013年08月27日 22時39分29秒 | 政治論

 北一輝の、当時は斬新な論陣の行く末は、彼が本来明治人だということから一歩も出なかったことを証明していた。明治大帝への無条件な崇拝と親愛。明治維新をフランス革命になぞらえ、明治天皇をナポレオンに凝らす(江戸幕府がブルボン王朝というわけだ)という、現代人には到底思いも及ばぬ発想を齎しているのが、彼の天皇親愛(天皇機関説的な言及を可能にするほどの親愛)であった。彼は明治16年(1883年)、志賀直哉と同年に生まれた。漱石は慶応3年(1867年)の生まれ。「こころ」の「先生」が自死を遂げたとき残した「私」への手紙で「明治」という時代に言及している。そしてそこで乃木将軍の殉死(学習院の生徒だった志賀直哉はこの報に触れ、馬鹿なやつだと思ったそうだが)に触れ、「時勢」のことをいい、明治天皇の崩御とともにひとつの時代が終わったと言う感じを持ち、この先、生き延びることは「時勢」に遅れることという思いに至った。「先生」は「私」にこうした感懐が理解不能であろうことを言うが、あえて説明すれば、といって確かに納得のいくものでない弁明を書き下す。「国体論及び純正社会主義」「支那革命外史」「日本改造法案大綱」を読み進めると不可解な雰囲気に取り付かれてしまうのだが、恐らくは「大時代」という呼称を冠する「明治」時代が故知らず醸し出すものなのであろう。勿論これは理解とかいう段階にない想像に過ぎない。彼の思想は明らかに大東亜共栄論へ至るものだったが、現実には彼の思惑とは似ても似就かぬ軍人論理の理不尽で暴力的な実力行使として、昭和戦争時代を駆け抜け撃沈する。勿論北の思想は2.26事件で途絶えたと考えたほうが実情に合っているのであって、大東亜共栄圏は満州事変不拡大方針をかなぐり捨て中国侵略を強行していった関東軍の、見え透いた欺瞞そのものであった。大東亜戦争肯定論の骨子は、この観察眼の鋭い論者が捉えた北一輝直伝の東亜理念が、大正ロマン爛熟と昭和の堕落によって理念的に「捩じ曲げられた」運命を、「歴史の悲劇」と断じることだった。但し、ここに林房雄の限界がある。彼もまた「明治」の時代を克服し得ない、「ヤマト民族」の感傷にひたっている文人の一人であったか。(つづく)

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