抵抗戦線

ブログを使用しての種々の論考

詩437 邪心かそれとも衒学

2013年08月18日 16時32分10秒 | 政治論

 不可知論でいくと「及びがたく知りえないもの」としての軍事問題がある。人間の歴史は戦争の歴史だったと言っていいくらい、軍事の問題は常に我々に付きまとってきた腐れ縁であり避けて通れないものがある。それだけにその関係し関連する分野は多岐にわたる。従ってまた多くの関係者が不可分に近い内容でこれに携わっているといっていいのだろう。軍産複合体というがこの表現は歴史学的には形容矛盾に相違ない。あらゆる戦争がほぼ確実にその原因過程結果において経済活動に関与しないことなどあり得なかったはずだ。戦争特需は勿論事実上の利権確保保全が目的の戦争も当然ある。しかも自国内の事に限定するならいざ知らず他国に特派して軍事行動を展開する侵略的な戦争も数知れずある。大日本帝国の場合対中、対アジア戦線はまさにこの侵略的な戦争行為に当たるのだが、現今政権以下その追随者たちはこの「侵略性」について目を背けるか疑義をはさむか否定するかしているらしい。最初に言ったように我々は「及びがたく知りえないもの」と軍事問題を認知しているが、史実に関しては必ずしも「知りえないもの」とは思っていない。但し、この史実が疑いなく事実かどうかはどこまでいっても確信することは決してできない。何故なら我々は当事者ではないのだから。勿論ある史実に疑義をはさみ否定し目を背けるものも決して当事者ではなかったはずだ。我々は誰かにその話を聞き誰かに伝えそのまた誰かが誰かに伝えるというふうに歴史を知った、のだった。史料を読むにしろこの伝聞形式に違いはない。クリストの伝聞は当事者から始まったにしても史料的にはいつか4種類の異なる内容の伝記を後世に残している。にも拘らずいくつかの事柄については共通する「事実らしきもの」を明らかにしている。しかし「復活」を俄かに事実と信じられるものはそういないだろう。あるいは多くの奇跡を行った、という話にも少しく疑問符を禁じ得まい(たとえそれが医学上の真理にマッチするというものだとしても)。架上に無残な刑死を遂げた掛け値なしの救済者、という驚きの印象が信仰を促した。つまり重要なのは個々の事実の事実性ではなくそれが我々の中の人間性に達するとき「認識」する「意味」なのである。(つづく)

 

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