旅日記

半世紀前の旅日記です。

ハッゼリム・キブツの話~キブツの生活

2017-11-19 15:05:19 | 私の旅日記~第8章 イスラエルの旅

*ハッゼリム・キブツの話
 私は前記の条件を承諾して、テルアビブのキブツ事務所からこのキブツを紹介され、遣って来た。このキブツの周囲は、鉄条網で囲まれていた。1日数回、銃を片手に管理人の方2名が、その鉄条網に沿って巡回、警備をしていた。
 私の家(時に、「部屋」とも言う)は、ゲートから一番奥にあった。そこからの光景は、木一本も生えていない、赤茶けた半砂漠的な小高い台地が幾重にも連なり、荒涼とした大地が広がっていた。15キロ~20キロ先はヨルダン川西岸地域で旧ヨルダン領であった。ヨルダン兵やゲリラがキブツに潜入、或いは攻撃して来てもおかしくない地理的な状況を思うと、『少しも不安を感じない』と言う訳にはいかなかった。
 共用のトイレは、キブツ内に何ヶ所かあった。私の部屋の右の奥まった鉄条網脇にもあった。部屋にバス(お風呂)は無く、共同シャワー室があった。食事は、広い食堂で取っていた。私の様な一時的滞在者の為の家も、何件もあった。このキブツの人数は、食堂に集まった人達の目算で約200人位であった。
 食事は、キブツ生活の中で最も楽しみの一つでした。私はソ連の旅、及び、シーラの実家滞在以外、量、栄養、そして3食きっちり食事を取っていなかったので、いつも腹が空いている状態であった。特に、ロンドン・アテネ間をヒッチ中の昼は、全く取ってなかったので腹が空いている状態が通常の状態になっていた。そんな事で3食、そして量的にも質的にも充分に取れるキブツの食事は、満足であった。食事はバイキング形式であった。例えば、朝食はミルク、パン、ジャム、バター、ハム又はベーコン付き野菜サラダ、卵の料理、チョコレート、ヨーグルト、そしてコーヒー又はティーが好きなだけ食べられ、飲めた。昼食や夕食時は、前記の食べ物の他、日によって色々な肉料理も出たし、魚料理もあった。魚や肉等のメイン料理は、好きなだけ食べられる訳ではなく、給仕担当さんが給仕してくれた。色々な果物も出た、特にオレンジはいつでも毎食出た。私は時にオレンジを好きなだけそれを持ち帰り、自分の部屋で食べていた。
 とは言うものの、私は『好きなだけ腹いっぱい食べる』と言う事をしなかった。何の農業知識も無い、入所したばかりで何をして良いのか分らない私が、『食事だけは人一倍食べる』と言う事に、気が引けた。実際に食事の量について直接、或は、間接的に1度も言われた事は無かった。しかし、根底には『働かざる者、食う可(べ)からず』、の様な雰囲気があった。大切な事は、周りのイスラエル人達と合わせる事、そして、いずれにしても『腹八分目』が大事なのであった。 
 キブツでの労働の対価としての賃金の支払は、基本的になかった。賃金の支払が無くても、衣食住及び病気怪我等は、心配無用であった。私に直接関係ないが、大学を含め子供の教育費等は、キブツが面倒を見てくれていた。ここに居れば、欲を出さない限り何の心配も無かった。
 私がこちらに来て10日過ぎた頃、キブツ管理人から有り難い事に「大学へ通って見ないか」と薦められた事があったが、私は断った。頭の悪い私は日本語でさえ大学の授業に付いて行けるのか、疑問であった。英語を十分に話せる、聞き取れる事が出来ると言う訳でないし、ましてやヘブライ語は全く知らないので、『苦労するのは、目に見えている』と思った。そして私は旅の途中であるし、突然言われても、しかも学校へ行くとなれば半年や1年ではなかろう。両親の意向も無視出来なかった。又『無料で学校へ行かせてくれる』と言う事は、このキブツ、或はイスラエルに対して恩を受けるので、『一定期間、拘束されるのでは』と言う不安を感じたからであった。しかしキブツを去り、後から良く考えてみると、イスラエルの大学への招致は旅に出てから私に与えられた最初で最後のチャンスでもあったのだ。ヘブライ語を学びイスラエルの為、或は、日本とイスラエルの掛け橋になる為に、何らかの貢献に努力すべきではなかったのかと思った。余り深く考えずに、取り敢えず大学へ行って見て、駄目だったら駄目で良かったのだ。チャンスは自分からゲットすべきものであり、後から悔やんでも仕方ない事であった。
 話を元に戻すが、お酒を飲みたい時、多少お小遣いが支給されたのでそれでビールが買えたし、キブツから一人1本ブランデェの支給があった。しかし、ノンベイの人は嫌われた。娯楽については、時にダンス・パーティー、映画鑑賞、ゲーム遊び、ホーク・ダンス等もあった。本を読みたい人は、図書室にたくさん本が置いてあり、スポーツ関係では卓球台があった。
 イスラエルは共産主義国ではないが、キブツ組織・運営は、ある意味に於いて『共産主義的な社会生活』の一面があると私は見た。何故ならば、イスラエルは建国まだ20年の新興国で、世界的認知に於いても、国内の国家的社会的基盤に於いても、まだまだであるし、人口も国の広さに対して少ない。その為、シオニズム運動はまだ継続中であった。
 3度の中東戦争に勝っても平和条約は締結されず、依然アラブ諸国に囲まれ、国防は最重要な課題であった。又、国土(農地)の確保は、イスラエル国家・国民皆の課題であると思われた。占領地を含む国土を開墾し、耕し、そしてその農地を守る、その最前線がキブツ組織であった。ある意味に於いて、キブツは過って大日本帝国の国家・軍が推し進めた、満蒙開拓移民政策の様な国防対策の一環とも考えられた。
 いずれにしても、ユダヤ教の信仰から生まれる連帯責任感の強いキブツの人達やイスラエルの国民は国家の為、そして後からイスラエルに集まってくる世界各地のユダヤ人移住者のシオニズム政策実施の為に、砂漠や荒れ果てた土地を開拓・開墾し、農地を作り、或は植林し緑化を成し遂げ、豊かな国土を作り上げる、そんな崇高な理想・理念を持った先駆者達であった。私の様な無宗教で理想もない、まして欲がある者には、長居は出来ない気がした。キブツに入る条件とは別に、そんな意味からも私の滞在は、最低期間の1カ月にしたのであった。そして私の浮いた想いは、ここに来て打ち砕かれてしまった。と言うのは、私の無知から『キリスト教が生まれた土地だから、キブツでもクリスマス休暇や年末年始休暇があるだろう』と思って遣って来たが、イスラエル人はユダヤ教徒、彼等はユダヤ歴で生活しているので、キブツでのクリスマスや年末新年休暇は無かった。無知とは怖いもの、すっかり当てが外れてしまった。
 毎週木曜日は、配給所で生活用必需品類が支給される日であった。例えば、タバコ、石鹸、タオル、靴や衣類(新品、良い物は無かった)に至る生活関連品を自分の好きなだけ貰えた。『好きなだけ』と言っても、これも暗黙の了解があり、家族構成や自分本人の使用量に応じて受け取るべき、と心得るのが涵養であった。
 結論として『キブツ』とは、原野、荒地を農地として開墾し、農場として維持・運営している協同の組織体を指し、又そのキャンプ地を指す。
                                                    (ハッゼリム・キブツの話は終り)

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