旅日記

半世紀前の旅日記です。

社会主義に思う事~モスクワの旅

2017-08-09 07:45:33 | 私の旅日記~第2章 ソ連の旅
モスクワの旅

・昭和43年7月17日(水)小雨後曇り(社会主義に思う事)
 
観光の話は省略。午後は自由時間となり、自分の好きな所へグループを作って出掛けた。私は橋本さんと大学助教授の“森本敏さん”(野田政権当時の防衛大臣、現在は拓殖大学院の教授で度々テレビに出演している)の3人でゴーリキ通り(モスクワの銀座)へ出掛けた。外国での散策と言うか、ブラブラと街を歩くだけでも物珍しい物を発見したり出逢ったり、とにかく色々な物に対して新鮮さを感じ、とても楽しかった。
 その足で我々は革命博物館へ行った。ロシアの第1、第2革命、及び、10月革命等に於けるレーニンの革命の記述、それから彼が使った椅子、机、ノート等日用品が展示され、革命が起こるべきして起こった印象を得、偉大なレーニンの再発見でもあった。なおこの館の中での写真撮影は、禁止であった。
 帰り際に道に迷った我々は、博物館の中で知り合った高校生らしき若者に助けられた。彼は、我々の為に自分のお金で地下鉄の改札口を開扉してくれて、ウクライナ・ホテルがある最寄り駅まで連れて来てくれた。何と親切な学生であろうか。特に異国の地では、人の親切が身に沁みた。彼の行為に対し、感謝の印として森本さんがボールペンを渡した。彼は喜んで胸に付けてあったレーニンのバッジを取り外し、彼の胸に付けた。そのタイミングの良さに感心し、我々は彼と握手して別れた。
 彼を含めてソ連人の喜ばれる物を我々は既に知っていたのであった。ナホトカやハバロスクで子供達は、「チュウイング・ガム、チュウイング・ガム」と言って寄って来た。与えてやると彼等は、小さなレーニン・バッジを引き換えにくれた。学生達は、我々が公園や街のベンチに座っているとボールペンを求めて来たり、闇関係の男達は、セイコーの時計やドルを、又女性達は、ナイロンの靴下を求めて我々に声を掛けて来た。ソ連は、これらの品物が大量に出回っていないので、貴重品の部類に入るのであろう。彼等は物取りや乞食の様な感じはしなかったが、消費生活に於いて満たされないソ連の現状のワン・シーンであったのだ。
 ホテルで夕食を取った後、鈴木さん(仮称、以後敬称省略)、照井さん(仮称、以後敬称省略)、そして私の三人はゴーリキ通り周辺へ散歩に出掛けた。我々はビールで一杯やろうと言う事で、裏通りやあちらこちら探したが、東京の様な飲み屋は全く見当たらなかった。
 仕方がないのでレストランでも入って飲もう、と思っていたら、何処の店も待っている人の行列で、混んでいた。この時、私は用を足したくなったので、あるレストランのトイレを借りたのでした。しかし、モスクワ一番の繁華街で表向きは綺麗なレストランであったが、トイレは余りにも汚くビックリした。ウンコをする所は、日本式(便壺)でも西洋式(水洗)でもない、私の未体験ゾーンであった。仲間達の情報によると、何もここのレストランだけが汚く、臭いのではないらしかった。概してソ連のトイレは、似たり寄ったりとの事であった。今の様な一般的な日本の便壺の方がよっぽどましで、彼らの衛生概念の低さはどうなっているのであろうかと思った。その様なトイレで用が足せるソ連人の我慢強さには、“インド人もビックリ”(どの様な訳か、日本でこの言葉が流行っていた)したであろう。いずれにしても飲み屋、或いは、バーの様な酒場を探すことは出来なかった。要するに、『ソ連には飲み屋が無い』と我々は判断した。
 我々が公園のベンチに座っていると、ドル買いやセイコーの時計を買い求めるおじさん達が五月蝿かった。崇高な社会主義の理想に邁進しているソ連(?)で、こんな人々が存在していると思うと、あの革命はいったい何であったのであろうか。私は疑問を感じるのであった。
 我々は飲むのを諦めきれず、先程見掛けた『メトロ・ホテル』と言うホテルへ入る事にした。所が、入ったのは良いが、私は一瞬、躊躇を感じてしまった。鈴木と照井も入った瞬間、その雰囲気に躊躇したようだ。と言うのは、ホールは豪華・立派過ぎたのであった。ホールも然る事ながら、辺りを見ると皆、貴族の様に着飾った人々で各テーブルは賑わっていた。舞台には、オーケストラ如く多くの演奏家が配置されて、ゲスト用のテーブルと舞台の間には広くスペースが取られ、そこで紳士淑女がダンスをしていて、豪華絢爛の雰囲気が漂っていた。私はこの国が労働者の、プロレタリア階級の国であることを一瞬疑った。
 誰からともなく、「ここで飲もうぜ」と言って席を探していたら、ボーイが近寄って来て、一番後ろの空いているテーブルを案内してくれた。我々3人とも背広を着ていて、恥をかかずに済んだ。他のボーイが注文を取りに来たので、「ピーボ」(ビールの意味)と言って指3本立てた。1本50コペイカ(200円)で、格式ある雰囲気の割に安くて助かった。しかし、私は、『これから多くの国、そして、出来るだけ長く旅を続けよう』と思っているので、本当は、ビールなんか飲んで贅沢していられないと感じていた。回りのテーブルを見ると我々の注文は余りにも貧しく、場違いであったが、構わず11時までここで話しを積もらせた。私はこの2人と今日初めて話をした。そして、彼等も私と同じように、『会社を辞めて出て来た』との事であった。話をしている内、お互い気持が打ち解け、「以後、共に旅をしよう」と言う事になった。帰りは地下鉄に乗って帰って来た。

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2 コメント

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旅は道連れ (tango)
2017-08-09 11:03:19
トイレ事情はどこの国も日本ほど
整備されていないのですね?
私も初めて十数年前に上海・北京・など<広州・蘇州・
西安・・>などに行きました時びっくりしました
風呂敷で前を隠してトレイに行ったことがあります
オリンピックのころ北京はトイレがきれいになっていました
どこの国でも優しい思いやる若者がいるんですね
ヨーロッパでは年寄りを見ますとすぐ、席を譲っていました
これには年寄りに優しい福祉政策の気持ちが
いきわたっているのだなと感じました
生活環境がよくわかります
旅作家になれますね?(^^♪
tangoさん、コメント有難うございます。 (nakayoshinotabi )
2017-08-09 15:13:53
15年ほど前に妹夫婦も中国へ行った事がありました。何と言ってもトイレ事情が悪く妹の夫は二度と中国へは行きたくない、と言ってました。私の旅日記の中ではもっと凄く汚いトイレで用を足した記述が出てきますが、若いから我慢できました。当時の日本でも便壺式で上から下をのぞくと溜まった大小便が見え、上から爆弾(大便)を落とすと反撃に遭い、尻にお返しの便が襲いかかってひどい目に遭った事がありました。当時の欧米人は日本は汚い国だ、二度と便壺の和式トイレは使いたくない、と思ったでしょうね。
 今回はチョッと臭い話になって失礼いたしました。
   Have a good day!! From Yoshi

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