旅日記

半世紀前の旅日記です。

キブツ入所条件の話~キブツの生活

2017-11-19 07:09:59 | 私の旅日記~第8章 イスラエルの旅

*キブツ入所条件の話

  こちらのハッゼリム・キブツに来る前に、テルアビブのキブツ事務所である条件を提示され、それに署名しました。それでこちらのハッゼリム・キブツを紹介され、来られたのでした。
 その提示された『キブツ』(日本語にすると「農業共同体、農業共同組織、農業共同部落、或はアグリカルチャラル・コミュニティ等の言い方があるであろう」)の入所条件は英文であった。翻訳し、ここに書き留めて置く事にした。
【〈一時滞在労働者へ〉 
 簡単に貴方が働くキブツが見付かる様に、この紙面を読んで頂きたいのです。
キブツは、貴方にとって不思議な、或は全く理に合わない様に思われるかもしれませんが、習慣や制度を伴った、一つの生活の道なのです。例え不思議な現象であったとしても、全体的に見れば通常、良き道理なのです。そして貴方がキブツの組織、及びキブツ精神(キブツ主義)について説明出来るまで、キブツを信用して物事を捉える事を、我々は提案致します。
 貴方は、キブツに長年住んでいる人達の客人である、と言うことを忘れないで欲しいのです。そして個人の感情に支配されない、利己主義であってはならない事を望むし、一般的な公共機関への訪問者ではないと言う事を理解して下さい。「感謝と理解」と言うこの真実が、他の方と接触によって起こる、不必要な摩擦を避けてくれるのです。
 『キブツ主義』(感謝と理解、そして相手の事を思いやる心)は、チョットした人間性であり又、全てこれを根源とする事を理解して頂きたいのです。多くの点に於いて、キブツの理想に達しない状況に出会うかも知れませんが、一時的滞在者を含めメンバーは、キブツに対し全ての面で責任があります。
 一般的にイスラエル人は、深酒をしませんし、薬(麻薬を意味)には眉をひそめます。薬を飲んでの車の運転は、重い罰が与えられます。
 キブツに於いて現実からの逃避は不承知であり、注意されます。ハシシやLSD(大麻や覚せい剤)の使用は、如何なる状況であっても、黙認するキブツはありません。又、酒を飲んでの乱痴気騒ぎも嫌われ、洋服や一般的な行状に於いては、キブツの習慣に照らし合わせ、自身が判断すべきであり、キブツ主義は甘えを許しません。
 9月から1月までの期間、キブツ探しは容易ですが、2月から8月までは、キブツ主義に則って組織化されたグループが入ってきますので、見付けるのは不可能です。
 キブツに於ける一般的な労働状態や、異なった住居に慣れるまで日数が掛かりますので、1ヶ月未満は受け付けておりません。
 友達から如何なる事を聞いたとしても、前もっての連絡無しで入所しようとしても、入所が出来るキブツはありませんので、注意して下さい。前もって電話や手紙で入所を希望される場合は、返事を出す為の時間的余裕が必要です。他の如何なる方法は、控え目に言っても無作法であります。どうぞ上記の事務所を通して手配して下さい。
 少なくても最初の2週間分位のタバコ、トイレの必需品、バンドエイド等持参して行くべきであります。その後、それらは支給されます。作業着が必要な場合、貸与しますが、試着してから持って行って下さい。
 労働は1日8時間、週6日です。これは、季節や作業内容によって多かったり少なかったりします。Sabbath(「シャバス」と言ってユダヤ教徒の安息日。通常土曜日)の休日は、必ずしも土曜日に当てはめる必要はありません。土曜日に働く事は度々あり、代わりに次週、繰り下げて休みを取る様に成っています。
 医療についての質問は、詳しく一覧表にして分かり易い様になっています。キブツに到着前から病気で悩んでいる方や、日常的に病気がちな方は、健康保険の適用はありませんので、指摘しておきます。
 特別な手配は到着後、キブツで行います。入所は、18歳から35歳までの方のみ受け入れます。
 これらの条件を御承認されるなら、我々は喜んでキブツを紹介致します。我々は、貴方のキブツへの申込をお断りする権利を有するし又、貴方を必要とする所へ送る(紹介する)権利を持っております。但し、心に留めてあるキブツがあれば、ごく自然にそのキブツを我々は考慮いたします。

〈キブツに於ける一時的滞在者の為の保険〉
①医療と入院~説明省略 ②国民保険~説明省略 ③雇用責任保険~説明省略 ④第三者保険~説明省略 ⑤個人的事故~説明省略
私(署名者)は、上記の条件を受け入れますので、署名によって宣誓します。】と書かれてあった。                              

                                                                                      (キブツ入所条件の話は終り)

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キブツへ行く~キブツの生活体験 (キリスト降誕の地・ベツレヘム訪問、フランクとの喧嘩、その他の出来事)

2017-11-18 14:20:57 | 私の旅日記~第8章 イスラエルの旅

キブツの生活体験
(キリスト降誕の地・ベツレヘム訪問、フランクとの喧嘩、その他の出来事)

・昭和43年12月12日(木)曇り後雨後曇り(キブツへ行く)
 長倉はハイファへ旅立った。青山は、2・3日後に何処かのキブツに入ると言う。私もキブツへ行く為、ベエルシェバへヒッチで行く事にした。ベエルシェバはテルアビブから110キロ程行った所、ハッゼリム・キブツはその町からさらにネゲヴ砂漠へ10キロから20キロ位行った所であった。私の持っている道路地図には、『ハッゼリム』と言う地名は載っていなかった。 
 私は歩いて郊外へ出た。途中、基地へ行くのか、それとも軍服姿(多くは迷彩服)のまま職場へ行くのか、自動小銃を肩から提げている多くの男女の兵士を見掛けた。
 街の中央では見掛けなかったが、郊外へ出ると古い家並みが沢山あった。そこは、アラブの雰囲気が感じられる、パレスチナ人達が住んでいた。都市の片隅にひっそりと暮らしている彼等は、スッカリ立場が逆になってしまった様であった。そうか、そうなのか。テルアビブはユダヤ人上陸地、入植地として、そしてイスラエル建国の新しい街作りとして、ここを首都としたが、古くから街が現存していたのだ。新しく出来た地域は、イスラエル人の為の居住地区、そして従来の地区は、パレスチナ人の居住区として分離されていたのだ。私は複雑な国家形態を見た。
 所で、六日戦争(第3次中東戦争)でエルサレムの旧市街地を含むヨルダン川西岸地域やシナイ半島をイスラエルが占領したので、ベエルシェバ、エルサレム、そしてベツレヘムの一帯はパレスチナ人の他に、多くのヨルダン系のアラブ人も住んでいた。イスラエルは又、複雑な地域であった。イスラエル人(ユダヤ人)、パレスチナ人、そしてアラブ人(ヨルダン人、エジプト人)の見分けは、そんなに難しくなかった。彼等の顔は三者とも似ているが、外見はどこかが違って見分けが出来た。パレスチナ人男性は、ズボンを履いて、長い手ぬぐい(クーフィーヤ=パレスチナの代表であるアラファタ議長が頭に被っている物)を頭に巻いていた。パレスチナ女性は、ワンピースの様な服で頭に頬被りをしていた。アラブ人男性の外見は、白衣の長いドレスを着て、頭に白い布物(クーフィーヤ)で頭を覆って丸い輪っかを付けていた。アラブの女性は、殆どが黒の長いドレスを着て、鞍馬天狗の様に覆面(「ブルカ」、イランでは「チャドル」と言う服装)をして、彼女達の顔が見えるのは目だけで、中には目をも網で覆って、全く顔が見えない女性もいた。イスラエル人男女の外見は、西欧人が着ている、履いている様な一般的な服装であった。イスラエル人の顔は西欧人に似ている人もいたが、大多数の人は中近東人に似ていた。イスラエル人は大昔、チグリス・ユーフラテス川辺り(メソポタミア)からパレスチナへ移住して来たと言うから、中近東人に似ているのも無理はなかった。そしてイスラエル人は、自分達の国を持たなかった所為か、大抵の人はヘブライ語の他にもう1ヶ国語、或は2ヶ国語以上を話せた。
 話は逸れたが、私が郊外へ出てヒッチをしていると、中年男性が寄って来て、「何処まで行くのか」と聞かれた。私は、「ベエルシェバまでヒッチで行くのです」と言ったら、彼は1ポンド札を私に手渡し、「これで行け」と言って素早く立ち去って行った。私は呆気にとらわれてしまったが、何だか知らないが貰っておく事にした。100キロを1ポンド払えばそこまで行けるのか。タクシーは勿論、バスでも行けそうもない感じがした。後日キブツ滞在中のある日、死海へ行こうとベエルシェバでヒッチしていたら、近寄って来た男性から行き先を聞かれ、「それならこれで行け」と言って2ポンド渡された事があった。そうなのか、1ポンド2ポンドあればかなりの距離をタクシーで行けるらしい事が分った。そうするとイスラエルに初めて来た日、テルアビブ郊外からテルアビブまで“乗合タクシー”(シェルート)に乗って5ポンド払ったのは、やはり『ぼられた』のだ。クヤシー気分が新たに湧いて来た。しかしイスラエル人は、ぼる人もいれば、向こうから近づいて来て、『これで行け』とお金を渡してくれる人もいる。私は単細胞なので差し引き、『イスラエル人は良い人』と言う印象を持った。
 ヒッチは意外と簡単で、直ぐトラックが止まってくれた。何の変哲もない風景が続いた。ベエルシェバが近くになるにつれて、大地が乾いて来た(土漠、砂漠化した感じ)様な気がして来た。ベエルシェバの町は、イスラエル人用に新しい団地群を建てるのか、遂次建設中であった。それに反して、レンガや泥で出来た貧弱な家々には、パレスチナ人が住んでいた。街の様相は、新旧はっきり分かれていた。ドライバーに、「ベエルシェバは新しい町ですね」と言ったら、彼は「新しい町ではない、20年も経っている」と言った。無理もないと思う。イスラエルが建国して既に20年経っているのである。20年の感覚の捉え方なのだ。
 トラックのドライバーとベエルシェバの郊外の交差点で別れた。ハッゼリム・キブツ方面の道は真っ直ぐ伸びていたが、車は走っていなかった。周りの状況は草木も生えてない土獏の光景、そして何も聞こえない静寂な世界がそこにあった。
 トボトボ歩いていたら、向こうから車が停まってくれた。そして私が黙っていたにも拘らず、ドライバーはキブツ前で降ろしてくれた。彼は私がキブツに入所するのを知っていたかの様で、全く不思議であった。乗った時間は20分程度であったであろうか。ハッゼリム・キブツはベエルシェバからそんなに遠くなかった。 
 ゲートを通ると直ぐ管理事務所があった。管理人達は快く私を向かい入れてくれた。入所手続きを済ませると、管理人1人が銃を担いで私を部屋まで案内してくれた。キブツ敷地内には、幾つかの共用建物(食堂、集会所、娯楽室、図書室、生活用品ストック及び配給所等)と共に、多くのこぢんまりとした家(16畳から20畳程度の広さの家)がたくさんあり、そこに家族単位で住んでいた。そして敷地内は良く整っていて、庭園もあった。アスハルトの歩道を事務所から13分程歩いて、やっと私の家に着いた。数ある家の中で“私の家”(時には、『部屋』とも言う)は一番奥、ベッドが3つ備えられ、広さが12畳程であった。
 一番奥(奥付近のこの一帯はゲスト・ハウス、所謂一時滞在者用専用の家)は、食堂を始め、幾つかある施設へ一番遠いのであった。一時的滞在者では、仕方ないのであった。私の家には既に先客2人(フランク、ピーター)が住んでいて、3人で住む事になった。家と言っても台所、トイレ、浴室は無かった。あるのは毛布1枚のベッドだけであった。毛布1枚では寒そうなので、管理人にもう1枚お願いしたら、「用意しますから明日、生活関連施設へ取りに行って下さい」と言ってくれた。他の家に住んでいるエンディ、バート、そして他のキブツ一時滞在者の仲間達からも快く私を迎え入れてくれた。

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第三次中東戦争後のテルアビブの様子~テルアビブの旅

2017-11-18 07:46:45 | 私の旅日記~第8章 イスラエルの旅

・昭和43年12月10日(火)晴れ(私の誕生日)
 午前中、長倉とレストランでお喋りし、午後はボーリング場へ行って過ごした。遊ぶ程の金がある訳ではなかったが、誕生日なのに余りケチるのも虚しいし、彼に付き合った。ボーリング場は空いていた。ワンゲームして私の得点は、77と100。彼は、140と90であった。帰りにレストランで小瓶ビール1本(60アゴロ、約52円)を飲んで、ユースに戻った。 
 今日も無事に、且つ、平穏に私の誕生日を過す事が出来た。

 

・昭和43年12月11日(水)曇り(テルアビブの様子)
 キブツへ行く予定であったが、取り止めて明日にする事にした。長倉もHaifa(ハイファ)へ旅立つ予定であったが、明日行くことになった。

 テルアビブはイスラエルの首都であるが、イスラエル人の雰囲気として、或は心情として、Jerusalem(エルサレム)を首都にしたいらしい。テルアビブの建物は建国してから建てたらしく、殆んど新しかった。個人の住宅は皆、高床式になっていたのが特徴的であった。6日戦争でテルアビブの街が攻撃させた様な痕は、ロッド空港を除いて私の見た範囲内で全く無かった。
 イスラエルの人々は、概ね親切、友好的であった。そしてテルアビブは明るく、住み良い感じがする街であった。それでは街の様子が全く平和そのもの、と言う訳ではなかった。街の至る所でやたらと銃を肩から提げ迷彩服を着た兵士達の姿が目に付いた。彼等はレストランで食事中でも、ショッピング・ストアで買物中でも、通りを歩いている時でも、乗用車を運転中でも、皆兵士は銃を離さず、一般生活をしながらいつでも臨戦態勢の状態であり、『平和になった』と言う状態ではなかった。
 しかも兵士は、何も男だけでなかった。街の至る所で多くの女性兵士も目に付いた。綺麗な女性も迷彩服を着て、銃を肩から提げていた。女性が銃を担いだ姿を、『格好良い』と言うだけでは済まされない一面がこの国にはあるのだと思った。自分達が戦い、独立を成し遂げたこの国を守らなければならない、と言う意識を感じた。そして人口が少ないこの国は、女性も兵力として国防の一端を担わなければならなかった。そんな理由からであろうか、この国は男女問わず皆、徴兵制であった。

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日本の10大ニュースと長倉は強かった~テルアビブの旅

2017-11-17 15:41:12 | 私の旅日記~第8章 イスラエルの旅

・昭和43年12月9日(月)晴れ(日本の10大ニュースと長倉は強かった)
昨日、キブツで働く所をテルアビブから余り離れてない所を希望していたが、キブツ事務所の係りの方から「そこは一杯で希望に添えませんでした。明日又、来て下さい」と言われ、今日再び事務所に立ち寄った。そうしたらHazzerim Kibbutz(ハッゼリム・キブツ)に決定した。係りの方からそこの住所と行き方を教わった。そのハッゼリム・キブツは、テルアビブから100キロ以上のBeersheba(ベエルシェバ)の町からさらに南下したNegev(ネゲヴ砂漠)の北端に位置する所であった。Sinai(シナイ半島)とDead Sea(死海)の中間地点で、まさに何にもない様な所であった。
 国境付近では現時点、休戦協定が成立している状態であるが、依然として小競り合いが起きているとの情報があるし又、所によって過激派によるキブツへのテロ攻撃もあるとも聞いていた。しかし戦争やテロ攻撃の怖さ・恐ろしさを知らない私は、何処でも構わないとこの時は思った。
 キブツの滞在場所も決まり、長倉と街へ出掛けた。その後、地中海を望む海岸のベンチに腰掛け、彼と色々な事を語り、一時を過した。暖かな陽気で海は青く、首都に拘わらず誰もいない浜辺は美しかった。何処で戦争が起きているのか、まるで嘘の様に平和を感じた。そしてロンドンからのヒッチの旅は、寒く寂しい旅であったが、それも嘘の様に今は平穏であった。
 この後、我々は新聞を読みに日本大使館へ行った。相変わらず日本は、お粗末な事件が多かった。鉄道事故、学園紛争、火事、盗難、そして殺人事件等で三面記事は賑わっていた。面白かったのは、東大の文化祭ポスターに男の背中の肌に銀杏の葉が描かれ、そこに『止めてくれるなおっかさん、背中のイチョウが鳴いている。男東大どこへ行く』と、こんな文句の歌(詩)が書かれていた。一寸ヤクザらしい台詞であるが大分、反響があったらしい。
 因みに、今年の10大ニュースとして挙がっているのは、
①日本初の心臓移植 ②川端氏のノーベル文学賞受賞 ③飛騨川バス転落事故 ④東大紛争 ⑤参議院選挙 ⑥十勝沖地震 ⑦メキシコ・オリンピック参加 ⑧寸又峡ライフル魔(きんきろう)事件 ⑨3億円強奪事件 ⑩小笠原返還であった。
 遅い昼食を取った後、私と長倉はユースに戻った。どちらが「相撲しよう」と言い出したのか分らないが、お互いに「君には負けないぞ」と言うのであった。私は高校二年の時、柔道部の連中と柔道場で相撲をした事があったが、決して彼等には負けなかった。又、小学5・6年の時はクラスでトップの方であったし、昔から相撲が好きだった。そんな事で、体格が同じぐらいの長倉と相撲しても、負けない自信があった。でも結果は6回やって私は2度しか勝てなかった。彼は強かった。強い理由を聞くと、彼は高校時代レスリング部に所属し、選手として国体を含む色んな大会に参加し、実績の持主であった。服を脱いだ彼の身体は、筋肉モリモリの体付きをしていた。それに反して私は、数ヶ月間、栄養不足とカロリー不足で力が出ず、負けるのは当然であった。

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キブツ探し、そして長倉君との再会~テルアビブの旅

2017-11-17 07:31:23 | 私の旅日記~第8章 イスラエルの旅

・昭和43年12月8日(日)晴れ(キブツ探し、そして長倉君との再会)
 今日の未明、雷を伴った凄い雨が降り、目が覚めた。今朝方もヒョウ交じりの物凄い雨が降った。朝食を取ってから主人に、「キブツに入所したいのだが、如何したら良いのか」と尋ねたら、キブツ事務所の場所を教えてくれた。
 朝食後、そのキブツ事務所へ行った。その事務所(Ichud Hakvutzot Vehakibbutzim)の方は、私が「キブツへ入所したい」と言ったら、友好的に向かい入れてくれた。入所申込用紙に名前等必要事項を記入したが、この時点ではまだ何処のキブツになるのか、決まらなかった。キブツはたくさんある様で、『何処のキブツへ行きたい』ではなく、『何処のキブツで人が足りないので、そちらへ行って下さい』と言う様な関係であった。

暫らくすると、日本人1人が事務所に入って来た。名前を聞くと、青山さん(仮称、以後敬称省略)と言う方であった。私はアテネで長倉から青山の事を聞いていたので、彼に「私はアテネで長倉に会いましたが、彼も貴方に会いたがっていましたよ。長倉もテルアビブへ一両日中に来ると思います」と言った。私は彼と直ぐに親しくなった。青山と事務所を出た。テルアビブの街を歩きながら彼に、「今夜からユースに泊まりたい」と言ったら、彼は私をユースに案内してくれた。

ユースのベッドで休んでいると、隣のベッドのアメリカ人と仲良くなった。彼から“実践、実用的な英語”(卑猥、下品な言葉)を教えて貰った。不思議なものでこの様な英語は直ぐ覚えられたし又、忘れなかった。
 その後、私がロビーでくつろいでいたら Gabriel Sassoon(ガブリエル)と言うイラン人と知り合った。又ロビーでフランス人とイギリス人が何か話をしていた。暫らくすると、第二次世界大戦中の事で大いに激論になって来た。イギリス人が、「ダンケルクの戦いで一番初めに逃げ出したのはフランス兵だし、ノルマンディー上陸作戦に於いてもフランス兵は、ドン尻でイギリスやアメリカ兵の後に付いて来ただけだ。フランス兵は軟弱だ!」とそのフランス人に言っているのであった。フランス人はこれについて一生懸命に弁明、反論していた。
 夜10時頃、アテネで親しくしていた長倉が、イスタンブールから戻って来た。彼は、「貴方と青山さんに会いたかった」と言っていたが、私も彼に会えて本当に嬉しかった。
 今日は有意義で、面白い1日であった。

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イスラエルの簡単な歴史の話~テルアビブの旅

2017-11-16 17:25:02 | 私の旅日記~第8章 イスラエルの旅

*イスラエルの簡単な歴史の話
 イスラエルに滞在するにあたって、この国の歴史について少し記して置く事にした。
そもそもこの国は、4000年の歴史があり、紀元前(BC)のソロモン時代、既に最盛期を迎えた。
[その基礎を作ったのが、BC1020年頃の初代の王・サウルであり、その跡を引継いだのがダビデ王であった。ダビデは、王国をより徹底して統治する為、BC997年、エルサレムに都を移した。又その息子ソロモンによって“エルサレム神殿”(『第一神殿』と言われ、今ではその跡に黄金のイスラム寺院が聳え建っていた)が築造され、その中に十戒石板を入れた契約の箱が収められた。その事によって聖都として、エルサレムの地位が確立した。
 ダビデは、バビロニアによるエルサレム滅亡(BC586年)までのイスラエルの王国史の中で、名君中の名君と称された。神からもイスラエルの民からも最も愛され、その治政はイスラエルの黄金時代とされる]。([ ]内は、河谷龍彦書の『イエス・キリスト』より) 
 その後の王国は、イスラエル王国とユダヤ王国に分裂し、バビロニアによって亡ぼされた。その後もペルシャ、ギリシャ、ローマ帝国等の支配を受けるが、後にローマ帝国の保護の下にユダヤ王国が再建された。しかしAC135年、ユダヤ王国はローマ帝国に対し反乱を起こし、失敗してしまった。以来、ユダヤ人は故国を追われ全世界に分散し、1800年の長い間、世界各地で差別・迫害を受けての放浪の民になってしまった。この間19~20世紀までイスラエルの歴史は、空白状態になってしまった。
 エルサレムは、その後キリスト教が公認されると聖都として、キリスト教徒の町となった。しかし7世紀になるとイスラム教徒が占領、10世紀にはキリスト迫害から十字軍の遠征があり、その後も幾度か支配者を変えた。そしてエルサレムは、13世紀頃からアラビア人の手に移り、16世紀にオスマントルコに征服されたのであった。
 19世紀に入りキリスト教の影響力が強くなると、その世紀半ばからユダヤ人の間で、「パレスチナへ集まろう(帰ろう)」と言う、『シオニズム運動』が起こった。1917年、イギリスはユダヤ人がパレスチナに祖国を建設する事を認め(バルフォア宣言)、この地はイギリスの委任統治領となった。特に第二次世界大戦前から戦後に掛けて、パレスチナの地へ多くのユダヤ人が入植する様になった。1948年、国連はイギリスの委任統治が終了した事を決定、同時にユダヤ人はイスラエル国家として一方的に独立を宣言した。
 パレスチナの地には、ユダヤ人と共に古くから多くのパレスチナ人が住んでいた。あるキブツの幹部の話しによると、「パレスチナ戦争以前は、ユダヤ人もパレスチナ人も仲良く、そして隣人同士として助け合い、この地に住んでいた」と言う。それにも拘らず、ユダヤ人は一方的にイスラエル国家の独立を宣言したので、パレスチナ人のみならず周辺のアラブ諸国が一斉に反発、ここにパレスチナ戦争(第1次中東戦争)が勃発した。
 イスラエルはこの戦争で勝利し、パレスチナの大半を占領、現在のイスラエル領の基礎になった。翌年の1949年、国連に加盟(アラブ諸国はイスラエルを国家として未承認)するも、その後の1956年5月、スエズ動乱(第2次中東戦争)が勃発、又もイスラエルが勝利した。
 そして、昨年(1967年)6月、三度アラブ諸国と六日戦争(第3次中東戦争)が勃発した。アラブ連合共和国(エジプト)は、シナイ半島からイスラエルへ向けて戦車部隊を投入し、進撃を開始した。戦いはシナイ半島のみならず、対シリアとゴラン高原国境付近、対ヨルダンとヨルダン川西岸地域、対レバノンと国境地帯で行なわれた。この戦いにはイラクも参戦し、又モロッコ、イラン、パキスタン等のイスラム諸国も何らかの形で後方支援したのであった。
 しかし戦いは6日間で四面楚歌のイスラエルに大勝利をもたらし、シリアからゴラン高原、ヨルダンからエルサレムの旧市街を含むヨルダン川西岸地域、アラブ連合共和国からシナイ半島全域を占領し、現在(1968年)に至っている。
 小さな国がヨルダンより広い国になってしまった。それにしても僅か人口250万人程度(現在は850万人)の、しかも新興国・イスラエルが歴史も古く大国のアラブ連合共和国(エジプト)を始め、回りを反イスラエル諸国に取り囲まれているにも拘らず、3度戦って3度とも勝利をしたのだ。如何してイスラエルはこんなにも強いのであろうか。如何してアラブ(イスラム)諸国は、有利な条件がありながら戦争に勝てないのか。逆に言えば、アラブ諸国は如何してこんなに戦争が下手なのであろうか。『首都・テルアビブまでは、最短でヨルダン国境から25~30キロ程度、戦闘機を伴って戦車、機甲部隊で一気に攻め込めば、数時間内でアラブ諸国はイスラエルの首都を落とせるのではないか』と私は思った。アラブ諸国がイスラエルに負けたその疑問、原因が分ったのは、イスラエルを去ってからの事であった。
 現在、イスラエルとアラブ諸国の本格的な戦争は休戦状態(この時点から、幾つかの過激派テロ組織が結成)で双方、国としての面目を保っている。しかし、イスラエルによってパレスチナの地を追われたパレスチナ人の事は、何ら問題が解決されず、その立場が逆になってしまっただけであった。 
 いずれにしても、私はイスラエルの強さ、ユダヤ人の故郷であるパレスチナ、そしてユダヤ教、イスラム教、キリスト教の聖地のエルサレムに大いに興味を持った。又、旅の途中、クリスマスや新年をゆっくりキブツで過ごしたく、このイスラエルの地に足を踏み入れたのでした。
 所でユダヤ人を語る時、我々が忘れてならないのは、第2次世界大戦中のナチス・ドイツによるユダヤ人迫害であり、その虐殺は目を覆うものであった。強制収容所での虐殺の責任者であった元ナチス親衛隊大佐アドルフ・アイヒマンは、アルゼンチンで愛人と密かに暮らしていたが、1960年イスラエル秘密警察によって逮捕されたのだ。イスラエルの刑法に『死刑』の判決はないらしいが、特例で彼が処刑されたのは、つい2・3年前の話なのだ。そのセンセイショナルなニュースは、私の脳裏に今も焼きついているのです。
                                              (イスラエルの簡単な歴史の話は終り)

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シーラおばさんと出逢う~テルアビブの旅

2017-11-16 08:51:49 | 私の旅日記~第8章 イスラエルの旅

テルアビブの旅

・昭和43年12月7日(土)曇り後晴れ後雨(シーラおばさんと出逢う)
*参考=イスラエルの1ポンドは、約86円(1アゴロは、約86銭)。 
 アテネを去る日が来た。出発まで私は、和田とあるインテリーの日本人と共にアラブ大使館(現エジプト)へ行ったり、レストランで昼食を取ったりして過ごした。いつも20ドラクマ以内で食事を済ませていたが、アテネ最後の食事なので2人に合わせ、普段より奢ってしまった。食事後、1人45ドラクマを請求されビックリした。他の2人も一応、『高い』と認識し、主人に抗議した。しかし言葉が通用せず、埒(らち)が開かなかった。この様な状況の下、4ヶ国語も5ヶ国語も知っているインテリーも所詮、私と同じであった。そこで和田が主人の見ている前で店の名前をメモした。店を出る際、私は100ドラクマ紙幣で清算すると、お釣りは55ドラクマであるのに6ドラクマ多くお釣が帰って来た。他の2人もそうであった。お店の主人は、不当に値段を釣り上げてぼろうとしたが、和田が店の名前を書いたので、店の信用を落とす事に心に引っ掛かったのか、主人は値段を改めたのだ。いつもふざけてヒョウキンな和田だが中々、頭が良いと感心した。
 その後、私はイスラエルへ旅立つ為、和田と共にエール・フランスの営業所まで行った。和田が付いて来てくれた事は、未知への旅立ちに不安を抱いている私にとって心強く、有り難かった。和田も「キブツへ行きたい」と言っていた。彼とキブツで会う約束をし、握手してバスに乗り込んだ。バスが出発し、見えなくなるまで彼は手を振って見送ってくれた。つい2日前に彼とユースで知り合い、親しく話し、そしてトニー・タニーに似て、ひょうきんに振舞って人を笑わせていた、そんな彼との別れは寂しかった。友達を又、失った感じであった。彼は私の後を追ってキブツに来ると言うが、この時点で私が何処のキブツに入れるのか、まだ分らなかった。
 バスには乗客5~6人しか乗っていなかった。間もなくしてバスは、アテネ郊外に出て海岸通りを走った。車窓から夕日が沈むエーゲ海の光景は、旅情溢れる美しさであった。私はその光景を考え深い想いで見惚れていた。気の合った旅人との出逢い、彼等と楽しかった束の間のアテネの滞在、別れの寂しさ、そして新たな旅立ちへの不安と期待を抱きながら一路空港へバスは走った。  
 国際空港に到着し周りの乗客を見ると、私の様なリックを背負い、ジャンバーにジーパン・スタイルは誰もおらず、場違いの感があった。私のフライト・ナンバーは、Trans World Airlines(TWA)の840便、フライト予定時刻は午後4時50分であった。
 そうしている内にTWA840便の案内放送があった。私の乗る飛行機は遅延の理由は分らなかったが、1時間30分遅れである事が分った。暫らくたってから再び、出国手続きや搭乗手続きの案内があった。私はその案内放送に従って行動した。待合室へ戻ると隣の席のおばさんに「何か飲むか」と言われ、喉が渇いていたので、おばさんの行為を有り難く受け取り、コーラをご馳走になった。おばさんの年齢は45歳を過ぎた位で、名前は『Sheila Franker』と言って驚いた事に、私の文通友達のシーラと同じであった。名前の通り彼女は英米系の顔であった。彼女はJerusalem(エルサレム)に住んでいて、ギリシャに観光に来て、イスラエルへ帰ると言うのであった。おばさんに私のシーラの事を話したら、彼女もビックリした様子であった。私はおばさんにスッカリ親近感を覚えた。彼女は私に、「エルサレムに来た時は、私の家に立ち寄って下さい」と住所と電話番号を書いたメモを渡してくれた。
 そうこうしている内にTWA840便の搭乗案内があった。私は彼女と共に所定のゲートを通り、そして搭乗バスに乗った。それで飛行機の所へ行き、タラップを昇って機内へ入った。おばさんの席は、私の席より前の方であった。
 4時50分のフライト予定であったが、結局アテネを飛び立ったのは7時頃であった。ハバロスクから乗った飛行機はプロペラ機であったが、今回はジェット機で、機内は静かであった。飛行機は墜落すると100%『死』であるし、慣れない所為もあり、機が揺れたり降下したりする度にビクビクしていた。テルアビブのロッド空港に着陸前、機は大きく揺れて降下した。墜落しているのではないかと、本当に怖かった。お茶やアルコール等のサービスがあったので、1時間30分の空の旅は、慣れる間もなくイスラエルに着いてしまった。
 何はともあれ無事に着陸し、ホッとした。私はシーラおばさんの手荷物を持ち、彼女と共にタラップを降りた。外は雨が降っていた。最近火事があったのか、空港待合室の天井は焼け落ちてポッカリと大きな穴が空き、空が見えた。彼女の話しによると、「昨年の第3次中東戦争時、エジプト空軍の爆撃によるもの」と話してくれた。私は内心、『偉い所へ来てしまった』と思ったが、アラブ諸国とイスラエルは、まだ戦争状態である事は承知していた。

お世話になったシーラおばさんと、ここで別れなければならなかった。彼女は、アテネ空港で私の航空券の事を心配してくれたり、コーラを奢ってくれたり、又彼女と話をしている内に不安が薄れ、搭乗時間が大幅に遅れていたが、待ち時間は苦にならなかった。彼女と一緒だったので、気を余り使わずに搭乗出来たし、イスラエルに入国する事が出来た。
 外へ出ると空港利用者専用バス(?)が待っていた。私は、『これに乗ればテルアビブまで行ける』と思い、バスに乗った。市内へバスは移動していると思っていた。しかし暫らくするとバスは寂しい場所で止まり、全員降りた。バスは先に行かず、私にとっては降ろされた様なものであった。市内へ行く接続バスが無い場所、そして暗い場所で辺りがどうなっているのか、この場所がテルアビブからどの辺りなのか、全く分らなかった。
 市内へ如何して行けば良いのか、迷っていたらタクシー・ドライバーが寄って来て、「4ポンド出せばNO5バス・ストップ(市内中央へ行ける停留所)まで乗せて行く」と言うので、仕方なくタクシーに乗った。このタクシーは、乗合タクシーの『シェルート』と言ってこの時、乗り方を知らなかった。ヨーロッパや日本のタクシーより大きめで、車の中に他の乗客3人が乗っていた。乗車距離がどの位なのか分らないが、4ポンド(344円)は、どうも高い感じがした。他の人はいくら払うのか、聞けば良かったがしなかった。
 ドライバーは他の乗客3人をそれぞれ異なった場所で下ろし、私が最後になった。一時止んでいた雨も再び降り出して来た。夜10時近く、雨の中を歩いてユース探しは大変なのでドライバーに、「ユースまで行って下さい」と言った。すると、「もう1ポンド払えば行く」とドライバー。不当な請求であるのか、そうでないのか、日本円に換算すれば大した額?ではないが、どうも私は、『不慣れな旅行者を騙そう』としている気がしてならなかった。

ドライバーは、私の希望に添うユースへ行かずホテルでもない、そんなある建物前に車を止めた。そして、「ここがユース・ホステルです」と彼。「ここはユース・ホステルではない」と私が言うと、「ここは、ユース・ホステルです」と彼は再度、言った。私は取り敢えず彼を信用して、建物の中へ入って見た。主人らしき人が現れた。ここは、明らかにユースでもなければホテルでもない、ペンションである事が分った。

しかし雨が降っているし、もう遅い(10時を過ぎていた)、ここに泊まる事にした。ドライバーに5ポンド札(約430円)を渡したが、色々言い訳をして結局、お釣りは無かった。それにしてもユースでないのに、如何して彼はユースと言ったのであろうか、理解出来なかった。
 後に分ったのであるが、やっぱり乗合タクシーの料金は、もっと安い様であった。私はここの国に遣って来たばかりの不慣れな旅行者の弱みに付け込まれてしまったのだ。『ごまかされた』と気が付いても、後の祭りであった。

このペンションの主人も凄く調子が良く、返って薄気味が悪く、過剰請求をされるのではないか、と思うほどであった。ペンション代7ポンドで朝食付きと言うが、何かごまかされている感じがしてならなかった。  
 とにかく不愉快なイスラエルの初日であった。寝たのは11時であった。

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アテネの人々の話(古代文明の栄光とあの美男美女は何処へ)~アテネで思った事、感じた事の話(古代文明の栄光と現実)

2017-11-15 15:40:20 | 私の旅日記~第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅

*アテネの人々の話(古代文明の栄光とあの美男美女は何処へ)
 ギリシャは、スペインやイタリアと同様に『シェスター』があり、12時から午後の4時頃まで店を閉めていた。アテネの街を歩いていると、する事も無い男性市民の多くの人は何の為なのか、数珠をジャラジャラと弄んでいた。或いは道路上でボサーと長時間座っていたり、サイコロを転がして遊んでいたりする光景を街の至る所で目にした。又、何もしないでボサーと立っている多くの大人達、若しくはいつ買ってくれるのか分らないのに、宝くじを売っている男性もいた。この様に一般的に余り働いていない多くの男性が目に付いた。そうかと言えば、学校へ行っている様子もない、多くの子供達が働いているのを見掛けた。その反面、家に閉じ籠っているのか、女性が余り見当たらなかった。そんな女性の結婚について、女の人が持参金を多く持って行かないと結婚が出来ない、男もそれを目当てに結婚をすると言う話も聞いた。

メイン・ストリート以外の喫茶店は薄暗く、汚れた雰囲気で安物のテーブルと椅子が店の中や外に置いてあるだけであった。フランス・パリーの様な洒落た店、雰囲気ではないので誤解しないように。人々はそんな喫茶店や店の前で、30cm程の瓶の中にボコボコとアワ(煙)が出ているのを太いゴム・ホースを使って、物思いに耽る様に吸っていた。これは『水タバコ』と言って、吸っているその光景はアヘンを吸っているかの様に見えた。

ギリシャは経済が停滞していて、働く職場が無いのだ。そして見掛けだが、或いはこんな言い方をしては申し訳ないが、彼等の顔をよく見ると頭の切れそうな人がいない感じがした。アテネの人々、そしてギリシャ人は、何の生き甲斐を持っているのであろうか。この国の経済・産業の発展の遅れ、結婚、教育、或は軍事独裁政権、貧困、格差等を考えた時、今度は民衆によるクーデターが起こっても、おかしくない現状であった。 
 ギリシャは、ヨーロッパだからもっとヨーロッパ人に似ていると思っていた。しかし、どちらかと言えば、トルコやイラン人の中近東人に似ているのであった。あの古代ギリシャの彫刻の様なヨーロッパ人的なきりっとした面構えと同時に、品性溢れた顔立ちの男性は、何処へ行ってしまったのだろう。女性もそうだ。ミロのヴィーナスの様な美しい体、顔立ちの良い女性、あの様な美女は何処へ行ってしまったのだろう。無理もないのか。マケドニアやローマ人に侵略され、或は400年以上に渡るトルコ帝国に支配され、混血を重ねて来て純粋な古代ギリシャ人の血を引く人がいなくなったのであろう。人は勿論、街の様子や雰囲気は、西洋と中近東がミックスされた感じ、否、寧ろギリシャは中近東やアラブに近い感じがした。    
 パルテノン神殿を造った高い文明を誇った古代ギリシャを思う時、あの面影は何処へ行ったのか。余りにも現在のギリシャの姿は寂しい、そして割り切れない感じがした。
                                                   (アテネの人々の話は終り)

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美術品の話~アテネで思った事、感じた事の話(古代文明の栄光と現実)

2017-11-15 09:08:39 | 私の旅日記~第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅

*美術品の話
 ギリシャはアテネのみならず国中に、又エーゲ海の島々や地中海のクレタ島に数多く遺跡があり、まさに遺跡と美術の宝庫なのだ。それにも拘わらず、その方面の知識も関心も無く、私が尋ねたのはアクロポリスの丘とアテネの国立博物館だけであった。興味、関心がある人にとっては、折角そこまで行ったのに、『勿体ない』と思ったでしょう。しかし私にとっては、『それらは猫に小判』であった。もっとこの国の歴史や美術を勉強しておけば良かった、とつくづく思った。
 そんな私であるが、アテネの国立博物館へも行って見た。古代の彫刻が主であり、中には幾つかの模写もあった。しかし誰もが足を止める様な有名な物は無かった(私が知らなかっただけ)。

以下、私の独り言。
【古代パルテノン神殿に飾ってあったと思われる数々の彫刻が、ロンドンの大英博物館に陳列されていたり、又ミロのヴィーナスを始め有名な彫刻がパリのルーブル博物館に飾られていたりしていた。
 これらの美術品はあるべき所に在ってこそ、その価値があると思うのだ。例えば、名古屋城の金の鯱鉾(シャチホコ)は、名古屋城天守閣の屋根のむね両端に取り付けてあってこそその価値があるもので、それが又、『お城の美』でもあると思うのだ。ルーブルや大英博物館で、『金の鯱鉾』を見たって何の意味がないのだ。それと同じだと思うのだ。
 イギリスやフランスは、それらギリシャの美術品を如何して手に入れたのか、不思議であった。しかし良く考えると不思議でも何でもないのだ。この世の中(世界)は力のある国が武力によって、或は戦利品として他国の絵画、骨董品、彫刻等の美術品を掻き集めて来たのだ。極端かも知れないが、この様に掻き集められた美術品はある意味に於いて、『博物館は美術品の墓場、美術品はただの陳列品』になってしまったのだ。私はこの頃になって、この様に感じて来てしまった。私は思うのだ。それらの美術品類は、元々あるべき所にあってこそ、その存在意義があり、真の美が奏でるのだ】と。
                                                     (美術品の話は終り)

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ギリシャ、アテネの印象の話~アテネで思った事、感じた事の話(古代文明の栄光と現実)

2017-11-15 07:24:49 | 私の旅日記~第7章 ロンドン~アテネ間ヒッチの旅

*ギリシャ、アテネの印象の話
 ユーゴスラビアからアテネへ来る途中の車の中から、或はアテネに滞在してギリシャ人の着ている物、生活実態、道路、交通事情、街の商業・経済の様子等を見て、先ず感じた事は想像していたより人々の暮らしは、貧しそうであった。物価は安く、旅行者にとって大変有り難いが、経済が停滞している証であった。外国に来てから私は分ったのであるが、物価が安い国は、一般的に経済が停滞して、人々の暮らしは貧しい様であった。それから私が見た範囲でギリシャは全体的に森林が無く、山々は石ころだけで禿山であった。自然保護林、森林がなければ、大雨に対する防災は如何なのか、或いは飲料水の確保は如何なのか、等々の疑問があった。

アテネは、私が想像していたよりこじんまりした都市であった。ヨーロッパの一都市にも拘わらず、一部の地域を除いて都会的雰囲気がなく、何処となく田舎の感じであった。だから私にとっては違和感がなく、返って親しみを感じた。私が旧市街や裏通りを歩いていると、子供達が寄って来て、「モンゴル人か日本人か」と時々、尋ねられた。如何して彼等の口からモンゴル人が出てくるのか、不思議で仕方がなかった。彼等にとっては東の最果ての地、日本人が珍しいのか、或はモンゴル帝国がギリシャやイタリアまで征服したモンゴル人に畏敬の念を感じているのか。ともかく私が「日本人だ」と言うと、「やー日本人だ、日本人だ」と子供達ははしゃいだ。彼等は私に対してバカにしている、或は非難している感じではなかった。むしろフレンドリーな気持を持って接して来ているのだと感じた。
 又ある時、通りを歩いていたらタクシーが寄って来て止まり、ドライバーが車から降りて、わざわざ私に「日本人か」と聞いて来た。私が「日本人だ」と言うと、「この車はトヨタの車で、とてもグッドだ」と言って走り去って行った。『だから如何なのだ』と覚めた見方をすればそれまでだが、彼にして見ればその一言が言いたく、わざわざ車を止めたのだ。ギリシャ人は、日本(人)に対して親近感とある種の憧れを感じているのだと私は感じた。又その様に言われて悪い気はせず、寧ろ日本を誇りに感じた。
                                                 (ギリシャ、アテネの印象の話は終り)

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