思い出の記

在職中の泣き笑いの出来事を記しました。 海外視察研修中のコボレ話もあります。ご笑覧下さい。

はじめに

2009-02-24 21:21:22 | 日記
題名  1)はじめに
期限
優先度
状態
内容 (追憶)
    
                 はじめに

 昭和37年足利市に奉職し、昭和62年に定年退職するまで25年、この間の出来事について往時を思いつくまま、好き勝手に書いてみた。
 なにぶん退職後20年を経過した現在、記憶違い或いは思い違いで、ご迷惑をおかけする部分、一人よがりのところが多いと思いますが、この点はご寛容願いたいと存じます。

               転  職

昭和36年夏の事だった。栃木県庁から呼び出しの電話があり、私は早速土木部計画課に赴いた。当時私は栃木県鹿沼市役所の土地開発協会で業務係長として勤務していた。栃木県計画課の話では、昭和37年4月、足利市で機構改革し部制を敷く、建設部4課のうち監理課を除き事業3課(土木課・計画課・建築課)の課長に栃木県庁の係長を充てることになった。

 註 今でこそ県の出先機関の長は、本庁の課長相当職だが当時は、出先機関の長が本庁に戻っても係長になれる保証はなかった、それほど本庁の係長は権威がありエリートであった。

 土木課長に佐野土木出張所(現在は佐野土木事務所)の次長・計画課長に本庁の計画課計画係長・建築課長に本庁の建築課建築指導係長を充てることになった。
係長は足利市の地理に不案内なので係長(課長)の下働きをして欲しい、ついては、鹿沼市を辞めて足利市に転職し、係長として課長を補佐して頂きたいとの事であった。私は突然の話で驚き「一体誰の要望でこの話が」と聞くと?

足利市から係長をと依頼があったが課長〔新任の〕から是非鹿沼の中津君を、とのこと、私は考えた。県計画係長が鹿沼土木事務所の次長の頃、都市計画事業の施工上のことでしばしば意見の相違があり、叱られたり・論争をしたりで、かねてから快く思っていなかった人(むしろ嫌いな人)であったから暫く考えたが、(仲良しなら仲が悪くなる時もあろう、嫌いな人(当然相手も私を嫌っていた筈の人?)から敢えて、私を使いたいという県係長に感激し)足利行きを決意した。
 なお2人の子供が就学前だったことも転職を容易にした。

昭和36年12月退職願を鹿沼市長に提出したが受理されず、ごたごたが続いた、議会筋から市長がクレームを付けられた(技術職員の待遇が悪いから職員が退職する)と、とにかく私の退職願は宙に浮いてしまった。
 
 私は困惑し足利市に赴き秘書課長と面談し、事情を説明して改めて頼んだ「地方公務員の移動に際し割愛申請(貴市の職員を本市の職員に採用したいので譲って欲しい旨の)をして欲しいと。
 秘書課長の返答は「足利市の規模は財政・人口も鹿沼市の倍だ、大きい市が小さい市の職員を引き抜くというようなことはできない、貴方が鹿沼市と話し合い円満に退職して下さい、何時でも結構です、退職の翌日付けで足利市は採用辞令を交付します」と。
 
鹿沼市長から依願免の辞令を交付されたのは昭和37年6月30日だった。(予定より3ヶ月遅れた)
私が入居する予定の滝宮の市営住宅が完成し入居するまでの9ヶ月間は,苦しくも又楽しかった鹿沼からの通勤時代だった。東武鉄道日晃線・国鉄両毛線と,電車・汽車を乗り継いでの通勤は、終電車の時間の関係から時間外勤務も儘ならず心ならずも同僚に負担をかけ申し訳ない思いで一杯だった。
 
 それにしても、事務執行上課長の私にたいする指導は峻烈を極めた。私以外の係長のミスには寛大で笑いながら注意していたのに?私のミスには顔色を変えて叱咤された。それは(自分が見込んだ者にミスは許さない・甘やかさない‥との課長の思い)と、爾後細心の注意と極力ミスのないように努めた。
 
課長は昭和42年定年退職したがその際密かに私に告げた「私は65歳まで10年間勤める約束で足利にきた、10年足利に勤めれば私が退職する際には貴方をしかるべき地位に就けられると思い足利に呼んだが残念だ」と、更に言葉をついて「10年勤務の話も口約束で書類にしていない、言った・言わないと水掛け論になり未練ととられるので退職する」と、今思うに、曲がったことの嫌いな正義感が余りにも強すぎる(融通の利かない)ため上司及び市議会議員から敬遠されての退職だったかも?
 
退職後の課長は、足利市防災建築街区造成事業に事務局長として取り組み、借地権・借家権・抵当権等難しい権利関係の調整及び組合員にたいする説明説得にあたり事業を完成させた功績は立派であった。
 防災建築街区の理事長から後で聞いた話だが局長(元課長)は、堅い人で約束は必ず守る人だ、建築業者に対する請負代金の支払日を延期しょうとしたら、猛烈に反対され、組合に金がないのなら、「私が立替払いをする」こうまで言われては払わないわけに行かないでしょう。と、今は亡き理事長が苦笑しながら私に話したことを今でも鮮明に覚えている。

人口想定

2009-02-24 21:12:52 | 日記
題名  2)人口想定
期限
優先度
状態
内容

足利市の人口20万人
 
新都市計画法により、都市計画区域を市街化区域と市街化調整区域に区分する作業(いわゆる線引き)を実施することになった。
 言うまでもなく市街化区域は、市街化を促進する区域であり市街化調整区域は、市街化を抑制する区域である。
 
 市街化調整区域は、農林系の土地といおうか一般市民の住宅等建築が規制される。したがって土地の売買もままならず(農地法)地価の上昇も期待できない、現に、線引きの区域界で地価の価格差が大きく、土地所有者の誰しも市街化区域への指定を望むのは当然のことであった。しかし、市街化区域が都市人口を収容するイレモノとすれば、その面積は容易に広げられない。
 
 足利市が県から内示された市街化区域の面積は2.600ヘクタールであった。
その面積を増やす方法を模索した。
①内示された区域内の非可住面積(人が住めない場所の面積)
内示された面積に非可住面積を加算してもらう)学校用地・官公庁の敷地・公園の敷地・神社仏閣の敷地・墓地の敷地・道水路用地・等々まだ足らない。
②10年後(都市計画は概ね10年後を想定し 計画)の人口。自然増・社会増まだ不足、工業団地造成による外部からの移入人口の増、……
このようにして{人口20万人}が推計され、市街化区域の面積が500ヘクタール増の 3.100ヘクタール と決定された。
 
 足利市の人口20万人は、市民の要望が強い市街化区域の面積拡大確保の手段として、栃木県に納得していただく、私.にとっては、合理的計算(無理な計算?だったかも)により算出した人口である。
 

 このような事情を理解できないのも無理もないが、当時市街化区域と市街化調整区域の線引きの責任者だった私は、人口計画が杜撰だ、などと聞くと情けなく、悔しく、腹立たしい思いでいっぱいである。

「親の心、子知らず」と言う諺が思い浮かび苦笑した。

 〇近時、振興計画で人口が下方修正されたと仄聞している。


御厨工業団地

2009-02-24 21:02:15 | 日記
題名  3)御厨工業団地
期限
優先度
状態
内容 市役所に勤めてまだ間もないとある日、助役に呼ばれた、何事かと助役室に赴くと、「三栗谷土地改良区で事業を計画中だ、これが実施されると首都圏整備法の市街地開発区域の指定に支障があり,工業団地造成が困難になる。ついては、土地改良の計画を中止するよう説得してこい。」との事であった。

私は、土地改良区の事務所の所在地も知らないし,土地改良区の役職員と面識もないので、と断ったが助役は、御厨支所(御厨町は、昭和37年10月坂西町と共に足利市に合併し支所になり支所長は旧町の助役が充った)に助役専用車を使って行きなさい、支所長に案内するよう電話しておく、との事。気の重い仕事だが、助役の命令では従うことにした。
 助役専用車に乗り御厨支所に行くと既に助役から連絡があったらしく支所長が待機しており早速案内して頂いた。三栗谷土地改良区を訪れ驚いた。
 
なんと十数人の関係者が狭い会議室を埋め尽くしていた。(私は理事長と単独での話し合いを予想していた)若いと言うことは無謀と言うか臆面もなく、土地改良と工業団地との関係を説明し足利市の発展のため土地改良を断念するよう強く求めた。その際つい余計な事を話した、土地区画整理法と土地改良法の相違点を説明し、これからは良好な住環境を創る区画整理を施行すべきだ?と力説した。(後年、河南地区の区画整理の遠因になる)幸いに土地改良は中止され、御厨工業団地が造成出来ることになったが、今思えば、土地改良の神様と言われた理事長(土地改良功労により勲4等を叙勲された)はじめ関係者を前に区画整理を説くとは、誠に赤面の至りであり、今にして思うと、身の細る思いがする。
 
それにしても、若輩の説得が功を奏したとは考えにくく、側面から大いなる政治力が働いていたに相違ないと、想って居る。
 このようにして、昭和39年首都圏整備法に基づく市街地開発区域の指定をうけ、同年御厨工業団地の造成に着手することができた。

 〇河南地区整備として、土地区画整理の前提とし原形測量が行われ、地元説明会等、区画整理課職員が大変苦労したが、地元の協力体制が整はず、関係職員に多大なご心労とご迷惑をお掛けした遠因は、当時の私の言動にあり、自責の念にかられる。

 〇当時はまだ区画整理課はなく、土地区画整理事業は、計画課が所管していた。

 〇工業団地造成は足利市市街地開発組合(栃木県と足利市の一部事務組合)が所掌したが、計画係長だった私は、市街地開発組合の併任職員として工業団地造成のお手伝をした。

御厨都市下水路

2009-02-24 20:48:01 | 日記
題名  4)御厨都市下水路
期限
優先度
状態
内容

御厨都市下水路

 御厨工業団地の造成に関連し、工場廃水の処理が問題になる。団地周辺の農家は当然、三栗谷土地改良区からも善処方強い要望があった。
 市単独事業では余りにも事業費の負担が多額なので、国庫補助事業として採択されるみちを模索した。
 法の体系は下水道法で、都市下水路(雨水の排除、浸水の防止)として施工しようと考えた。都市下水路の国庫補助事業としての採択基準は、浸水指数(浸水戸数×浸水時間×浸水頻度≦6.000)である。つまり、1.000戸の家が2時間水に浸かる状態が1年間に3回おきる状態が浸水指数6.000であり補助要件を満たすが、必ずしも採択されるとは限らない。

(農地が浸水して農作物が腐ろうと一向かまはない、それは農水省の所管という建設省の考え?一方都市部(市街化区域)に現存する農地に対する農水省の無関心さ?どうなっているの゛と言いたい)

 そこで政治力(嫌な言葉だけれど)がものをいう、今は亡き足利市の名誉市民(内務官僚で大阪・京都の知事を務めた方)のお力添えを願うべく当時の助役に随行し、東京渋谷に名誉市民の自宅を訪問し尽力をお願いした。
 
 元内務官僚の力は絶大だった、事業は内諾されたが、都市計画決定・都市計画事業認可等一連の事務手続きの際、担当者から嫌がらせをされたコンクリートの構造物でなく土側溝で充分(土側溝だと崩れないよう勾配(法分)が大きく用地買収が伴い事業費が多額になる)など弁明に努めたが、それ以上の追求はなかった。外部?からの圧力に対する担当者のささやかな抵抗だったと思うが、建設省都市局下水道課職員の次の一言は痛烈だった。
    
『 ” 足利 ” !!泥棒猫のような真似をするな 』 と、


都市計画とゴミ焼却場

2009-02-24 20:36:32 | 日記
題名  5)都市計画とゴミ焼却場
期限
優先度
状態
内容

西部ゴミ焼却場と都市計画

 昭和51年西部ゴミ焼却場の新施設が完成し近日中に「火入れ式」を行う時点で栃木県庁計画課から、足利市清掃課に新施設建設の手続き上問題あり出県せよとの連絡があった。清掃課から私に同行するよう依頼があった。

〇 当時私の仕事は、道路の維持・管理で都市計画は所管外だったが、県土木部と懇意だという事から、折につき折衝に当たらせられた。
清掃課の職員と出県、県計画課の担当者に会うと、「都市計画で位置決定しないでゴミ焼却場を造るとは何事だ」と、大変な剣幕だった。

〇 私は出県に先立ち焼却場建設の経緯について調査をした。西部ゴミ焼却場は昭和40年に新設した時は建築基準法  のただし書を適用したもの。
  焼却場の処理技術はまさに日進月歩、焼却の方法・焼却量の増加から県計画 課の言うとおり「都市計画として位置決定」は当然と思った。

しかし、都市計画法に不慣れな足利市清掃課では、建築基準法で申請し許可を受けたものだから、叱られた理由が不明であり呆然とした様子、「建築基準法で特定行政庁(栃木県)の許可を受けた、足利市に手落ちはない」と反論したが、県計画課は「前回のものと規模が違う都市計画の手続きを取るように」

私は、「県建築課が許可する前に計画課に合議しないからこのような状態になった、県内部の問題、県には知事が二人いるのか?(計画課用と建築課用の)足利市が文句を言われるのは筋違い」と突き放した。
 帰庁して経過を復命し火入れ式の延期を進言した。
その後、清掃担当部長と都市計画担当部長が出県、文句を言われたらしいが、日を置かず西部ゴミ焼却場は稼動することが出来た。

 〇 当時の県計画課長は、建設省から栃木県に出向していた。 その課長が私を「県職員にして計画課で使いたい」と周辺の者に相談したらしいが反対されて実現しなかったらしい、私は、県の課長が私を使いたいと言った一言に満足を覚えた。