国境での出来事(ハシシュ、リキシャ、席の奪い合い等)~ニューデリーの旅

2017年04月20日 | Yoshiの果てしない旅 第10章 インドの旅

ニューデリーの旅

・昭和44年(1969年)1月30日(木)晴れ(国境での出来事)

*参考=公式レート~1ドルは360円、1ドルは7.3ルピー、1ルピーは約49円、1パイサは49銭 ・日記を書くに当って“ルピー”は公式レートで表記した。*闇両替レート~1ドルは9.25ルピー、1ルピーは約39円、私は闇両替屋を利用していた。

デモも終り、ラホールはいつもの様な喧騒な街に戻った。ラホールの街は汚く、通りには男達であふれ、その反面、女性は人っ子1人見当たらず、道路には自動車、自転車、馬車、そしてリキシャであふれていた。 

 私、ロン、竹谷の3人は、朝食も食べずに“ボーダー”(国境)行きバスに乗り込んだ。ラホールから国境まで約25km、運賃は1.75ルピー(119円)であった。バス車内で“それらしき日本人の旅人・関さん”(長い間の貧乏旅行の為、それらしき格好に一段と磨きがかかった若者。大阪市出身。以後、敬称省略)と出逢った。当然、私もそれらしき格好に日を増す毎に磨きがかかって来ていた。直ぐに気が合い、我々と行動を共にする事になった。
 パキスタンのボーダーの街は、思っていたより店屋が多かった。又、インド映画のポスターや映画女優のブロマイドを初め、かなりのインド商品を扱っているのが以外であった。パキスタンのお金は、インドへ持ち込めないので小額であったが、ここで全部使い果たした。それにしても、平日にもかかわらず学校へ行かない子供達が目に付いた。中には、働いている子供達も大勢いた。そんな子供達5・6人がいつの間にか私の周りに纏わり付いて来た。
内1人が、「オジサンはジャパニ?」と子供。
「ジャパニだよ」と私。
「ジャパン、ナンバー・ワン」と子供。
パキスタンの子供も日本の良さを知っているのか、少し嬉しかった。しかしだからそれが如何なの、と言う感じであった。
「“ボクシス”(お恵みをorお金頂戴)、ボクシス」とその子供。
「お金は無いよ。あっちへ行きな」と私。
彼等を相手にすると切りがなく纏わり付くので、手でハエを追い払う仕草で拒否した。これからもそうであるが、この様な時のお互いの言葉は、英語、日本語、ウルドウ語、インドではヒンディー語、或はその地方の言葉で話し、若しくはジェスチャであった。
 パキスタンの出国は、何ら問題も無く済んで、国境を越えインド側へ入った。それから直ぐにインドの出入国管理事務所があった。旅券、査証の入国審査が無事終り、これでOKかと思ったら、手荷物検査があった。何十ヶ国も回って来て、ソ連以外は手荷物検査が無かったのだ。だからここに来て突然言われて、少しビックリした。しかし、私は別に怪しい物を持っていなかったので、何ら心配は無かった。私、ロン、竹谷の検査は異状なく済んだ。
「ミスター関、次は貴方の番だ。リックの中の物を全部出して」と係官。
彼は、少しうろたえている様であったが、中の物を出し始めた。
「これで全部です」と関。
「ノー、アナタまだ残っているようだ」と言って、係官自ら彼のリックを調べ、中から黒の布で包んであった物を取り出した。

「ミスター関、これは何だ」と言ってその布を開け始めた。
「オー、時計ではないか。しかも6個も。ウムー、これはスイス製の時計だな。これは没収だ」と言って彼は、上司の所へそれを持って行った。
その上司は、「ミスター関、腕時計は自分で使う物以外、持ち込み禁止になっているので没収する」と髭を生やしガッチリ・タイプのその上司は、少し偉ぶった態度で言った。それは横柄な感じでもあった。
「ノー、これは日本のお土産用にスイスで買ったのです。インドで売るつもりはありませ。だから返して下さい」と関は、オドオドしながらも懸命に弁明した。私とロンも関を弁護し、許し願った。上司の役人は、「罰金として“1万ルピー”(49万円)を出せば返還する」と言った。しかし、それは余りにも法外な額であった。彼は40ドルしか持っていなかった。結局、彼は諦めた。関や我々は、役人の『没収』と言う言葉を覆す事は出来なかった。
 我々は入管手続きを済ませ、事務所を後にした。そして、インドの国境の町“Amrituar”(アムリッツァル)に入った。
  1947年、東西パキスタンとインドがそれぞれ別々の国として独立した時に、“民族の大移動”(パキスタン側に住んでいたインド人のヒンドゥ教徒達はインドへ、インド側に住んでいたムスリム達はパキスタンへ)があり、このアムリッツァル付近一帯で、異教徒同士が連日の様に殺し合いをし、100万人が命を落としたそうであった。そして、あれから20年以上経ち、今はそんな事件があったのが嘘の様に思えるほど、平和になって来た様に感じられた。   
国境付近から“リキシャ”(2人用の座席がある客車を自転車で牽引する乗り物。人力車の自転車番)に私とロン、関と竹谷がそれぞれ2人ずつ乗って、バス発着所まで行った。リキシャのおじさんは、最初5ルピーを要求して来たのであるが、“1ルピー”(49円)までまけさせた。これは、インドが初めてでない関が、リキシャの乗り方・事情を知っていた為、不当な要求を覆したのだ。そして、バスで駅まで来た。駅でアムリッツァル~ニュー・デリー間3等切符12.35ルピーを 6.25ルピー(306円)で学生割引乗車券を買った。
 夕方、我々は夜行列車に乗る為、子供を含む大勢の人々と共にプラット・ホームで待った。列車がホームに進入し停車した途端、否、停車直前既に大勢の乗客が一斉に座席目掛けて突進した。怒号と罵声が飛び交い、座席の奪い合いが始まった。その光景は、まさしく合戦(いくさ)であった。我々も負けまいと席を目掛けて突進したが、席は誰一人取れなかった。勢いに圧倒された我々は、完全にインド人に負けたのであった。ニューデリーまで一晩中、立って行かねばならないのか、『参ったなぁ』と言う思いであった。他にまだ多くの人達も席に座れず立っていた。座っている人と原因は分らないが、激しくやりあっていた。すると、「オジサン、席が空いているよ。こちらにどうぞ」と子供が言って来た。その子供に案内され、そこの席へ行くと他の子供達が席を取っていてくれて、我々の為に4人分の席をサット譲ってくれた。

彼等は、親切な子供達と思いきや、「1人1ルピー」と言うのであった。これにはビックリ仰天、インド人の子供の狡賢い知恵に感心した。でも、感心していられなかった。
「君達は切符持っているのか」と関。
「持っていないけど、オジサン達の為に席を取ってやったので、1人1ルピー下さい」と、子供達は請求してきた。
「席は切符を持っている人の物だ。お金はやらんぞ。君達は列車から降りろ」と我々も断固拒否した。

「お金、1ルピーを」、「否、駄目だ」の応酬であった。「50パイサ」、「ノー」「ババ、1人に付き50パイサ」「ノーマネー、ノー」子供達も生活が掛かっているのか、懸命に要求した。『たかが1ルピー40円か50円』と思うが、ここで払ったらインド人の子供にも負ける事になるのだ。頑として払う事はしなかった。そして、発車時刻になったら諦めたのか、彼等は列車から降りて行った。大勢立っていた人達も居たが、列車が動き出したら立っている人は、大分少なくなっていた。成る程、座席を取ってその席を売る為に大勢並んでいたのだ。それにしても凄い席の奪い合いであった。これがインドなのだ。
 車内は、薄暗く汚い感じがした。又、何処となく変な匂いもするのであった。回りのインド人達は、皆貧しそうな、そして薄汚れた服装で変な匂いは、当然であった。何人かの人が席の上にある網棚で横になっていた。私も網棚に上り、荷物を盗られない様に注意し、体を横にした。列車は、闇の中をニューデリーへ疾走した。
 所で、車中で関から聞いた話だが、彼はまだ他に時計4個持っていたのだ。その他に彼は、縦横5㎝×12㎝程の“ハシシ”(『ハシシュ』とも言う。チョコレートに似ていて、人によっては「チョコ」と言っている。覚せい剤の一種)を持っていたとは、ビックリであった。ハシシの原産地は、インドの北方らしいけど、ヒッピー達がこれを求めてインドへ流れて来ると言う噂は、私の耳に早い内から入っていた。私はヨーロッパで1回、インドで1回、後学の為に“回し飲み”(何人かが車座に座り、ハシシを詰めた1本のパイプを皆で回しながら吸う事)して吸った事があった。良い香りがして、タバコより甘ったるい味であった。本当に1・2服であったので、『良い気持とか幻覚とか』その様にはならなかったし、癖にもならなかった。

 ハシシは、ヨーロッパでは高く売れるが、インドへ持ち込んでも何にもならないのだ。彼が何処で手に入れ(多分、アフガニスタンかパキスタンと思う)、如何しようと、私には関心なかった。彼はハシシが発見されずホットしていた。しかし、彼の旅券に時計6個を密輸した旨の記載がなされたのであった。

『海外旅行』 ジャンルのランキング
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« パキスタンのトラックの話~... | トップ | 闇売買の話~ニューデリーの旅 »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL