エキストラの仕事とカメラを売る~ボンベイの旅

2017年05月14日 | Yoshiの果てしない旅 第10章 インドの旅

・昭和44年2月14日(金)晴れ(エキストラの仕事とカメラを売る)

 私と荻は、欧米人と共にサルベイション・アーミー前に9時集合し、映画会社が手配したバスに乗り込んだ。間もなくバスは出発した。相変わらず歩道は、多くの寝ている乞食達や歩いている人々、そして道路は、車とリキシャで溢れていた。間もなくしてボンベイ島を出たら、バラックの貧しい家々が延々と続いた。ボンベイは、もう何から何まで凄く、そして、あらゆる面で雑多な都市であった。

 40分位で撮影所に到着した。そこは、市内から“25キロ程”(タクシーで10ルピーの区間)郊外へ出た所であった。(*1ルピーは約40円。)

 午前中、我々は何もする事はなかった。昼過ぎから1時間30分程エキストラの練習をした。練習は、難しいものでなかった。エキストラの撮影現場は、日本のキャバレーの雰囲気の様な酒場であった。我々外人は、ただ席に座って“酒”(コーラを薄めたドリンク)を飲みながらお互い雑談し、インド人スタッフが、「舞台に踊り子達が登場するから、拍手してくれ」と言うと、踊り子が登場したと仮定して、皆一斉に手を叩き、そして、「踊りが終ったら、皆は席を立って手を叩き、踊り子達に向かって『ブラボーとか、ワンダフルとか、ヴェリーナイス』と言って大袈裟に彼女達を称賛してくれ」と言うので、踊りが終ったと仮定して、手を叩き、大袈裟に称賛の言葉を投げ掛ける、そう言った練習を何回か繰り返した。

 本番は、午後3時頃からであった。我々は酒場で酒を飲み、或はお互いに雑談をして酒場の雰囲気を作った。間もなくサリーを纏ったインド美人の踊り子4人が舞台に登場、そこで一斉に拍手した。そして、インドの音楽に合わせて踊りだした。直ぐに踊りは終了した。そこで我々は、拍手喝采し、そして席を立ち彼女等に、「ブラボー、ヴェリーナイス、ワンダフル」と言って大袈裟に称賛した。この様な部分的な撮影を繰り返し、エキストラの仕事は1時間半位で終了した。

 しかし、こんなエキストラの撮影で良い映画が出来るのか、疑問であった。私は映画撮影の事を分らないが、そんな感じがした。所で、インド映画の特徴は、勧善懲悪の単純なストーリーで、歌と踊りがいっぱいの娯楽に徹した映画、と言われている。ストーリーの中で裸のセックス場面やキッスの場面も無い、純情その物と言う。女優の水着姿の場面があれば、観客は口笛を吹いたり拍手をしたりして、大騒ぎをするそうだ。それは、我々のエキストラの仕事と重なり合う場面でもあった。  

 話は逸れたが、それにしてもただ座っているだけで、しかも、トータルにして3時間、それで35ルピーとは、良い仕事であった。インドの下層階級の人が1日重労働して2~3ルピーなのに、少ない時間でその10倍以上貰ったのだ。私は満足であった。因みに、インド中流クラスの1ヶ月の収入は、180~230ルピー位であるらしい。それでもアメリカ人の中には、不満を漏らしていた人も居た。「1日拘束され4ドルとチョットでは少なすぎる。アメリカで1日働くと軽く“12~15ドル”(87~109ルピー)は稼げるのだ」と。

 撮影終了後、“(助)監督らしき人”(スタッフではなかった)に、「貴方は随分良いカメラ持っていますね」と声を掛けられてしまった。実はこの時、私は肩からカメラをぶら下げ、撮影所内を歩いていたので、彼の目に留まったのだ。

「イエス、キャノンのカメラで高かったよ」と私。

「見せてくれる」と彼。 

彼はカメラを良く見て、「売ってくれないか」と言って来た。それは私にとって渡りに船であった。しかし、私は売る気のない素振りをして、わざと考え込んだ振りをした。

「良い値で買わせてもらうよ」と彼。街では最も高い値で『100ルピー』と言っていたので、「200ルピーなら売りましょう」と私は言った。

「200ルピーは高い。150ルピーで買います」と彼。

「150ルピーは安すぎる。170ルピー、これで如何でしょうか」と私。

「それでは170ルピーで買いましょう」と言って“商談は成立”した。彼は、その場でズボンのポケットから札束を出し、その内から170ルピーをポンと支払ってくれた。

 バスで帰って来た。先日、カメラを売り歩いている時、街で中華レストランを見付けたのだ。今日は懐が暖かいし、夕食はそこへ行って“炒飯”(5ルピー)を食べた。最近、ろくな物しか食べていないので、頬っぺたが落ちるほど旨かった。

『海外旅行』 ジャンルのランキング
コメント (3)   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« エレファンタ島の石窟寺院見... | トップ | バイト代値上げ交渉と宿泊所... »
最近の画像もっと見る

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
当時の金銭感覚・国内 (izukun)
2017-05-14 15:13:26
カメラ、これでも安売りし過ぎのような感じですが…。

昭和44年ごろ、高田馬場の戸山公園横の山手線際の
人足場から日雇いのかたずけ仕事に行くと、6000円の出面(でずら=日当)だった記憶です。
貧乏学生だった私、これで1週間ぐらい凌いだように思います。
izukunさん、コメント有難うございます。 (nakasheilanancy)
2017-05-15 09:18:31
【物 価】(昭和43)
国鉄普通運賃~上野 → 青森 2060円、東京 →大 阪 1730円、朝日新聞 朝夕刊セット月決め~660円、米(10kg)~1520円、封切映画館入場券~450円、大学卒 初任給~3万200円、ビール一本~127円、かけそば~70円、公衆電話(1通話3分間)~10円、牛肉(並100g)~130円、私が退職する前の“給与”(基本給)は23,000円(高卒でしたが就職5年目の私の給与は、大卒初任給と比較して低かった)。S43年の物価ですが、いくら日雇い人足の一日の賃金が6,000円は考えにくいです。勘違いだと思われます。
 インドでの取引・売買は日本の常識・感覚・価格と比較しない方が良いでしょう。尚、この件について後で○○の話、でお話しします。
うーん、記憶違いでしょうね!すいません。 (izukun)
2017-05-15 15:58:08
昭和44、45年ごろの記憶ですが、43年のデータから見るとおかしいですね。記憶違いのようです。失礼いたしました。

余談ですが、その後、46年以降は人足仕事からビルの窓ガラス拭きに転じまして(笑)、これは20歳代前半の若造の仕事としてはとても高給でした。
ただし、渋谷西武などゴンドラが落ちる事故が結構ありました。
こちらは、日給月給で、額は覚えていないのですが、49年に就職した地方の新聞社の初任給が総額6万円ぽっきりで、生活を変えざるを得なかったことを鮮明に覚えています。
要らぬおしゃべりで、失礼いたしました。

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL