旅人のロンとの別れ~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

2017年05月15日 | Yoshiの果てしない旅 第10章 インドの旅

アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

▲ボンベイのサルベイション・アーミーにて-別れる時に撮った、旅人のロン。

・昭和44年(1969年)2月20日(木)晴れ(ロンとの別れ)

 今日、仕事があると思ってサルベイション・アーミーの前に行ったら、誰もいなかった。ロンに聞いたら、「今日も休み」との事であった。今日の休みについては、私の耳に入ってなかった。荻が今日、「アジャンタ、エローラを見てからマドラスへ行く」と言うので、いつまでもボンベイに滞在していても意味が無いと思い、私も荻と共にそこを見物して、それからカルカッタへ行く事にした。本当に急遽な話で、決断も行動も早かった。

 午前中、私は早速“Student Concession”(学生割引許可証)を取りに駅へ行き、午後、カルカッタまでの学生割引3等切符を買った(私は偽の学生証を持っていた)。午後6時30分、私と荻はシーサイド・ホテルを後にした。旅仲間のロンに別れの挨拶をする為、サルベイション・アーミーに立ち寄った。

 思えば、ロンと随分長い間、旅を続けて来た。彼と初めて会ったのが1月18日、テヘランのアミル・カビル・ホテルであった。以後、我々はバスでシルク・ロードの旅へ、そしてパキスタンのクエッタ、ラホールを経てインドに入り、ニューデリー、アグラ、ボンベイへと1ヶ月間以上、共に旅をして来たのだ。何人かの旅人と道中共に過ごした事があったが、彼ほどこんなに長い旅は無かった。因みに鈴木との旅は、昨年の7月17日モスクワで知り合い、バルセロナで別れたのは8月6日で、21日間の旅であった。アメリカ人のロンと如何してこんなに“長く付き合って”(旅をして)来られたのか。気が合った理由は、私の推測だが、お互いに強い主張・意見等出さず、又互いに干渉しなかった事が、長く旅をして来られた第一の理由かもしれなかった。

 私がサルベイション・アーミーへ行ったら運良くロンは、談話室でくつろいで居た。

「ロン、元気?実は・・・、私はこれから旅発ちます。別れの挨拶に来ました」

「ヨシ、本当?随分、急な旅発ちですね。何処へ行くの」

「アジャンタ、エローラを見学して、それからカルカッタへ行きます。ロンとは長い間、旅をして来たので別れが辛いです。でも、行かねばならないのだ」

「ヨシと別れるのは、私も寂しいよ。オーストラリアへ行ってからアメリカへ行く予定でしょう。アメリカへ着いたら連絡して、住所を教えるから」

お互いに住所交換をして、「ロンはインドの後、日本へ行くのでしょう。私はロンに日本を案内する事が出来なくて、本当に残念です」と私。

「Do not mind. 私はもう少しボンベイに滞在します。元気で旅を続けて、ヨシ。グッド・ラック」と言ってロンは手を差し出した。私も握手を求めた。

「“グッド・ラック”(ごきげんよう)、ロン」と私。 

私とロンは硬い握手をし、そして別れた。寂しい様な、悲しい様な感じで、ロンとは何となく別れ難かった。大事な忘れ物をした感じでもあった。でも、これが旅なのだ。彼も元気で旅を続けられれば、と願うだけであった。荻はこの建物に入り辛かったのか、入口で私を待っていてくれた。我々は、ボンベイ最後の夕食を、例の中国レストランへ食べに行った。

 午後9時10分の列車(行き先不明)に乗る為、私と荻は1時間前にボンベイ・ヴィクトリア駅に着いた。それから間もなく列車に乗車する事になったが、又、突撃態勢で“陣地取り合戦”(座席の奪い合い)が始まった。我々は“敵”(インド人の3等車の乗客)より奮闘したお陰で、陣地2つ確保する事が出来た。陣地確保後も敵から攻撃を仕掛けられるので、油断が出来なかった。案の定、我々が分捕った陣地をインド人特有の主張で奪い返そうと、攻撃して来たのだ。だが、私と荻は力を合わせ、敵を撃退した。そして列車が動き出すと、いつもの事だが合戦は終結した。

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