東・西パキスタンの話~シルクロードの旅その3(パキスタンの列車の旅)

2017年04月19日 | Yoshiの果てしない旅 第9章 イラン・パキスタンの旅

東・西パキスタンの話

 『パキスタン』と言っても、私が居るラホールは西パキスタンです。インドを挟んだ東側にも東パキスタンがあります。如何して東西に分かれているのであろうか。
 そもそもイギリスの植民地であった“インド”(パキスタンを含む)は、1946年に独立した。独立の父・ガンジーは、全ての宗教・民族を統合した『統一インド』を主張していた。それに反し、イスラム教徒連盟のリーダーだったジンナーは、ヒンドゥ教徒とイスラム教徒はまったく異なる「二つの民族」であると言う、宗教の違いに基づいた『二民族論』を主張した。ジンナーのイスラムの指導者達は、もしガンジー達が主張する統一インドが実現されれば、国民の大多数を占めるヒンドゥ教徒がイスラム教徒を支配する事になる、と恐れていたのだ。   
 宗教、主張の違いから対立は激化し、終に“武力衝突”(『独立戦争』又は『第1次印パ戦争』と呼ばれる)が起こった。結局、ジンナー達の主張はイギリスに受け入れられ、インドの東西にイスラム教徒が数多く住んでいる、と言う事で東西に分け、1947年に東西パキスタンとインドがそれぞれ別々の国として独立した。
 独立した“東パキスタン”(以後『東』と言う)は、経済的にもジュートの原料以外、主な産業も無く、常に“西パキスタン”(以後『西』と言う)が優位に立ち、隷属化に置かれていた。西に対する東の不満は、独立当初からくすぶっている状態であった。
“昨年”(1968年、昭和43年)の秋頃から西は、学生市民等の反アユブの政治デモで、情勢は混沌としていた。そして東の人達は、“今年”(1969年)に入り、西との政治的・経済的格差にますます不満を爆発させる様になり、内戦の一歩手前まで来ていた。そんな時期に我々は、西へ入ったのであった。

 東・西パキスタンの話(その1)の続きです。なお、『東』は東パキスタン、『西』は西パキスタンの事です。

  その後、パキスタンの東西関係悪化→1970年、ベンガル・モンスーンが東を来襲し死者18万人→→西の援助の不備から不満頂点から爆発→→統一選挙ラーマン率いるアワミ連盟過半数以上獲得し第1党→→東は西に諸要求を突きつける→→西中央政府は拒否→→西は武力を持って東を弾圧、多くの人が殺され、1千万人の難民がインドのカルカッタ(現在は「コルカタ」)へ→→アワミ連盟の党首ラーマン逮捕され、東は最悪の危機→→インドは困り、ガンジー首相解決の為に欧米歴訪、しかし解決の具体策無し→→1971年12月3日、東で“印パ戦争勃発”(第3次印パ戦争)→→東解放軍ゲリラを組織、インド軍と協力し各地で西政府軍を破る→→ダッカの西総司令部落ちる→→1972年3月17日インド側勝利で停戦→→ヤヒア・カーン辞任、ブット就任→→処刑寸前のラーマン釈放され東の大歓迎を受けて帰国→→東はバングラデシュとしてラーマン独立を宣言、初代首相に就任。

 因みに第2次印パ戦争は、1965年カシミール帰属問題に端を発した『カシミール戦争』である。印パは、大戦後20年で3回戦っている。
                     (東・西パキスタンの話は終り)

 



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