只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

落ち着きの在る心は痛みがありません。

2017-05-18 09:05:49 | 日記
山畑の雑草で覆われたネギです。笑
2回収穫してから放ったらかしでしたから、
そろそろ雑草抜きをしていきます。



只、ひとつ実存するのは、“純粋意識”という“真の自分”です。

その他は、すべて実体というものがありません。
只、それだけですね。

“真の自分”の中で、実体のないものがいろいろ模様されているのを
“只、観ている”だけです。

“真の自分”の中で、模様される大自然を
“只、眺めている” だけです。

それは雲のように、現れてきてはまた消えていきます。

縁が重なり合って、“今この瞬間・無思考”の中で
起こっていることだけです。

そしてすべて実体というものが無いのです。
ですから仏教では“無”とも“空”とも呼んでいるのです。

すべて実体というものが“無い”のなら、何と言っても
本当でも嘘でもありません。

生きることも無ければ、死ぬことも無いのですね。

この事実に疑ったり、文句並べたり、恐れたりして
苦悩に陥ったりするのが、これも実体というものが無い
「思考であり自我」です。

厳密に言えば「思考自我」は『心』とも言えるのですね。

この「思考自我」をしっかり“只、観ている”のが、
ひとつ”しか無い“真の自分”です。

とにかく自分と思っている、強固な「思考自我」を
溶かしていくのが“只なる実践”の持続です。



只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
私(思考)の戯言は信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

とにかく人間は、人間であるために理想に連なる目的は
 絶対に持たなくてはいけないのです。
 同時に私達は社会的な存在でもあるのですから、与えられた任務や
 責任や約束事は、手際よくスマートに結果を出すべく、
 最優先で取り組まなければならないのです。この事に低俗な批判や
 理屈を持たず、公的な自己を大切にする人間に成ることです
。』

いかがでしょう。
実践で腑に落とされたでしょうか?
人間であるためには、低俗な批判や理屈を持たず、
公的な自己を大切にする人に成ることと仰っています。

低俗な批判や理屈を持っている「思考自我」中心では、
幸せな人生を送ることは無理ということですね。

繰り返し述べていますが、低俗な批判や理屈が
在るのではなく「思考自我」が創作しているのです。

ですから、創作意欲を完全弱めて“”に成りきって
いくのです。

只、それだけですので“実践”で「思考自我」を
忘じていくのですね。