俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

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平等

2016-10-11 09:52:56 | Weblog
 フランス革命の理念である「自由・平等・博愛(友愛)」が余りにも当たり前のように教えられているせいか日本人の大半が誤解しているようだが、平等は決して無条件に肯定されるべき理念ではなかろう。かなり疑問を挟む余地のある際どい理念であり、これをまるで公理のように思い込んで武器として振り回して作られた理屈は少なからず狂気を孕んだものになる。
 ドストエフスキーの「罪と罰」の主人公ラスコーリニコフによる犯罪肯定論(作品中では「非凡人論」)が実は暴力革命のパロディと解釈できることに今年の4月になって初めて気が付いた。暴力革命の経済的裏付け、つまりブルジョワジーが所有する財産をプロレタリアートに解放せよという理屈は、高利貸しの老婆が抱え込んでいる資産を奪い取って貧者に分け与えることを正当化するのと同様かなり歪んで独り善がりな論理だ。
 もっと極端なこんな比喩ならどうだろうか。全盲の人と両眼共に健常な人がいることは著しい不平等だ。無理やり平等にしようとするなら全員を等しく隻眼にすべきだろうがそんなことをすれば折角の健常な眼が大量に廃棄されることになってしまう。何らかの基準に基づいて全盲者の人数分の眼を健常者の一部から1個ずつ摘出して移植をすれば、社会には全盲者がおらず両眼と隻眼しかいないという現状よりずっと平等な社会が実現する。尚、誰の片目を奪うべきかについては、刑罰やくじ引きなどの様々な手法から選べば良かろう。
 幾ら平等好きな人でもこんな制度に賛成する人は殆んどいないだろう。ではこの制度はなぜ不合理なのか?一部の人に不幸を強制することによって平等化を図ろうとしているからだろう。平等を、個人が既に持っている権利よりも優先しようとするから無理が生じる。所有、中でも肉体の所有は平等などの如何なる理念以上に生得的であるから最優先されるべきだと誰もが考えるのではないだろうか。
 かつて社会主義国で行われていたように全員を貧乏にすることによって平等化を図ることは根本的に間違っている。もし目標にすべき平等があり得るならそれは全員が豊かになる中で額ではなく率として貧富の格差を縮小することだけではないかと思える。所有の総量が変わらないなら平等化は理想たり得ない。それは貧者による富者からの収奪以外にはあり得ないからだ。それは貧者に対する優遇であり平等化ではなく逆差別と見なすべきだろう。平等が理想たり得ないのはその素性が健全な群居欲求ではなく妬みの正当化というかなり歪んだ心理に基づいているからだろう。
 勿論私のようなリバタリアンは資本主義に対しても大いに不満を持っている。資本主義は大資本が小資本よりも必ず有利になる仕組みだからだ。大資本を前にすれば庶民の権利など蟷螂の斧のようなものであり全く太刀打ちできない。せめて資本の大小による不平等だけでも少しは解消できないものかとあれこれ考えてはいるが一向に妙案は見つからない。それだけ巧妙に作られた仕組みということだろう。
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