俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

晩年

2016-10-14 09:40:45 | Weblog
 楽しい老後は自ら捏造した幻想だったのではないかと発癌後はしばしば考えるようになった。歳を取ると本人にも周囲にも嫌なことが増える。時の経過と共に楽しみは減り苦痛や苦しみは増え続ける。生きる苦痛や苦しみがその楽しみを上回った時が死に時なのかも知れない。
 勿論その時点だけを見て幸不幸を判定すべきではなかろう。それまでの経緯を含めて総合的に判定せねばならない。例えば何かを目標にした努力であればそれが成就した時点でそれまでの経緯まで含めて総てが肯定される。合格であれ優勝であれ、あるいは初勝利であれ、目標が達成されればそれまでの経緯が丸ごと浄化される。
 但し過去が浄化されるのは希望を持って邁進できる若い世代に限定されるのではないだろうか。少しの希望と多くの持病しか持たない老人にとって不確かな未来は不確実な分だけ価値が低くなる。現在の確実な報酬のほうがずっと魅力に富む。歳を取るほど希望は空手形になり易くなる。
 向上心こそ意欲の源泉ではないだろうか。良くなる、あるいは現状を維持できるという期待があればこそ頑張れる。ジリ貧になると分かっていれば捨て鉢にもなりかねない。それはペナントレースの消化試合のようなものだ。癌の発病以降、私が最も前向きになれたのは放射線治療によって快癒の可能性が見えた時期であり、その逆になったのは治療を諦めてステント装着による延命策を選んでからの時期だ。
 向上への意欲が失われた時、歩くことによって得られる喜びよりも苦痛のほうが大きければ歩きたくなくなるし、食べることによって得られる喜びよりもそれが招く苦痛のほうが大きくなれば楽しい筈の食事でさえ排泄と同レベルの生存のための義務に格下げされてしまう。
 人は加齢に伴って喜びを失い苦痛を増やす。そうなるに従ってこの世に対する未練はどんどん薄らぎ生存に執着しなくなる。彼をこの世に引き止めるものは最早死に対する恐怖と盲目的な生への意思だけになってしまう。
 そもそも苦痛に耐えてまで生きる義務などあるまい。総ての行動が苦痛であるなら何も無いほうがマシだ。マイナス点を幾ら積み重ねてもプラス点に化けることは無い。マイナス掛けるマイナスがプラスに転じるのは若い世代だけに許される特権だろう。
 生きることが苦痛であれば逆に死ぬことが苦痛ではなくなる。穏やかな死を迎えるためには苦しい老後が必要なのかも知れない。幸福の絶頂で死ぬことが不幸であるなら不幸の最中に死ぬことは決して厭うべきことではなくむしろ歓迎すべきことなのではないだろうか?
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