なかちゃんの断腸亭日常

作家永井荷風の日記文学「断腸亭日乗」を模してこのタイトルに。歴史、文学を中心に史跡、城跡、古戦場などを訪ねています。

出雲散歩(5)~古墳・遺跡を訪ねて(2017 6 10)

2017年06月19日 | 歴史
〈その1 西谷墳墓群〉

 「よすみ」と略される「四隅突出型墳丘墓」は、出雲独特の墳墓だ。弥生時代終末の2世紀頃から500年間も作られ続け、代々の出雲王の眠る墓だと考えられている。
 到着したのは朝10時。隣接する出雲商業高校の野球グランドでは、ちょうど練習試合が行われていて、墳墓の小高い丘の上まで観衆の声援が響きわたっている。丘はグランドの外野席のような位置にあって、応援する数人の父兄の姿もある。


 墳丘墓は大小6つの墓が南北に繫なっていて、山から派生した小さな尾根上にある。大きなもので一辺40mあり、土俵を高く大きく盛ったような形をしている。
 そして最もユニークなのが、名称にもなっている四隅の突出だ。ヒトデの上半分を切り取ったような形をしていて、突出した四隅は墓上に上がる道らしい。登り道であれば辺からの道も考えられそうだが、墳丘の強度や雨対策もかねているのではないだろうか?

 墳上の平らな部分のほぼ中央には、ふたつの墓穴の場所が赤く印されている。

 長辺6m、短辺1mで、深さは1mあまりの墓穴だったらしい。そこに埋葬された棺は二重構造になった木棺で、中からは大量の鉄剣やアクセサリーが発見されている。
 その墓穴を取り囲むように4本の太い柱跡がある。それは単に4本の柱だけが建てられたのか、それとも小さな社殿のようなものが載っていたのかは分からない。いづれにしても、出雲を支配した王たちの葬送の儀式に使われたのは間違いない。


 古墳と云うと、まず仁徳天皇陵に代表される巨大な前方後円墳が浮かぶ。しかし出雲の古墳はこの西谷に限らず四角形に執着する。弥生から古墳時代になり、この「よすみ」が消滅した時代になっても、出雲では「前方後方墳」が造られ続けたという。そのこだわりは、四角く配置された4本の柱が亡き王への敬慕の証しとなって、継承されていったのかもしれない。

 墳丘上からはスサノヲの大蛇伝説となった斐伊川がよく見える。現在宍道湖に東流するこの川は、古代の出雲平野では日本海へと西流していた。おそらくこの流域には肥沃な田畑が広がり、平和な出雲王朝が繁栄していたに違いない。


 隣接する「出雲弥生の森博物館」に入ってみた。入場無料がありがたい。平成22年にオープンしたこの館は、2階中央には「よすみ」の大きなジオラマがあり、数々の土器やアクセサリーが展示されている。中国や朝鮮半島から伝わった大陸文化が北九州を経由し、この出雲王国を繁栄させ、さらに日本海側や瀬戸内海側へと伝播していったことがよく分かる。いや、伝播していったと云うよりは、出雲王朝がその勢力範囲を広めていったと云う方が正確なのかもしれない。



〈その2 荒神谷遺跡〉

 今回一番楽しみにしていたのが、この荒神谷(こうじんだに)遺跡。昨年「古代出雲歴史博物館」で見た光り輝く358本もの銅剣、それらが発掘された場所がこの荒神谷だ。

出雲大社に隣接する古代出雲歴史博物館に展示されている銅剣群

 1984年7月、農道建設のための予備調査で偶然発見されたこの遺跡。358本もの銅剣は、当時の考古学会に嵐をまき起こし、日本史の常識をもくつがえしたようだ。それまで全国で発見された銅剣の総数は300本あまりだったが、一カ所でそれを超える大量の発見は、出雲市民だけでなく全国の古代史ファンを驚かせたに違いない。

 遺跡の場所は神庭西谷(かんばさいだに)という丘陵地帯にある。周囲は史跡公園として整備され、中央の谷筋は5万本の二千年ハスの池が広がっている。梅雨時の7月上旬には、谷はピンクの色に染まる。


 発掘場所は、ハス池横の小さな尾根の南斜面にある。棚田のようになった水平面に堀跡が2か所ある。ひとつは大量の銅剣が4列になって発見された場所。もうひとつは全国初となった銅鐸と銅矛の同一埋蔵の場所。


 銅剣は紀元前2・3世紀の弥生中期に、朝鮮半島から北九州を経由して伝わった。当初は武器としての用途だったが、その後時代の変遷とともに祭器としての使われるようになり、同時に形状も変化していった。
 銅剣は銅に少量の錫(すず)と鉛(なまり)を混ぜた合金。作られたときは褐色の光沢を帯び、まさに歴史博物館で見た光輝く芸術品だ。

 では、いつ、誰によって、何のために埋められたのか?
それは全く謎のなかのようだ。埋納理由としては諸説ある。

①祭祀説・・・雨乞いや収穫など、五穀豊穣を祈って大地に捧げた祭祀。
②保管説・・・祭祀の儀式のときだけ使用するため、普段は土中に保管。
③隠匿説・・・宝である青銅器を部外者から奪われないための隠匿。
④廃棄説・・・時代の変化により、不要になったため破棄。

 この他にも理由は考えられるだろうが、私は③の隠匿説を採用したい。
 まず祭祀のための銅剣は、年間を通じて何度も使用するわけだから、②はない。そして①の祈りを捧げるための埋納であれば、数量が多すぎる。④の廃棄説は、時代が変化しいくら鉄器中心の生活になっても、大事な青銅器を破棄するのは考えにくい。
 当時の発掘場所周辺の状況は分からないが、人里離れた見晴らしの良くない山の斜面だ。集落に住む人の共通の宝なのだから、対立抗争から守るために、まとめて隠したのではないだろうか?


〈その3 加茂岩倉遺跡〉

 荒神谷から直線距離で東南に3.3km、大黒山(315m)という低山を大きく東から回り込み、車で約20分ほどの山あいにある。駐車場から小さな谷筋の遊歩道を徒歩5分、急斜面の上に加茂岩倉遺跡はある。谷底からは18mの高所にあり、見上げるような階段の上にあった。


 1996年10月、この遺跡も荒神谷同様、農道工事中に偶然発見された。こちらの大発見は大小合わせ39個の銅鐸で、一カ所から出土した数の多さは驚異的だった。
 銅鐸文化は本来、滋賀、奈良、大阪といった畿内が中心だった。それまでは滋賀県大岩山遺跡の24個が最高で、銅鐸文化の中心の奈良県でさえ総数が20個だった。加茂岩倉の出土数は大量ということに加えて、銅鐸文化の分布図をも書き換えるほどの事件となった。
 発掘後の調査では、これらの銅鐸は畿内で製造されていることが分かった。荒神谷の銅剣群が主に北九州から搬入されていることを考え合わすと、出雲は畿内と北九州の両文化圏から集められ、一カ所に大量に埋納されたことになる。

古代出雲歴史博物館に展示されている銅鐸群

そして荒神谷の358本の銅剣のうち344本、加茂岩倉の39個の銅鐸のうち14個は、✖印の刻印がなされている。それらは製造段階になされたものではなく埋納時につけられていて、他に例はない。両遺跡は3.3キロ離れているとはいえ、同時代の人が同時期に埋めたのは間違いないと思われる。
 日本の場合、青銅器と鉄器は弥生時代中期に、大陸から同時に伝わってきた。青銅器は主に祭祀用具として、鉄器は工具や農具ときには武器として使われた。
 そんな青銅器のなかでも銅鐸は研究者の頭を悩ませているらしい。伝わった当初の銅鐸は、吊り下げて鳴らす小型の道具で、イメージとしてはカウベルのようなものだった。時代がすすむにつれ、鑑賞用と思われる絵図柄が施され大型化していった。
 しかしそんな銅鐸も次の古墳時代に入ると、突如として姿を消すことになる。青銅器は銅85%に錫(すず)10%と鉛5%を加えた合金。鋳造に手間ひまをかける割には、鉄器のように溶かしてリサイクルする汎用性がない。また強度や材料コストに致命的な原因があったのかもしれない。

 遺跡公園内には「加茂岩倉遺跡ガイダンス」という総合案内所がある。管理人さんと遺跡のことやら、出雲の神社のことやら談笑するうちに教えられることが多々あった。やはり地元の方は土地勘もあって造詣が深い。
 館内にあった銅鐸のレプリカを鳴らしてみた。音量は思いのほか大きい。でも音色はやさしく、それでいて田園の隅々まで響きわたるような余韻をもっている。
 晴れた秋空のもと、たわわに実った稲穂の上を、弥生の鐘の音が通り過ぎたような気がした。


〈その4 妻木晩田遺跡〉

 むきばんだ遺跡は、名峰・伯耆大山の足許の北西にある。大山の枝尾根が日本海へと流れ込む寸前の小高い丘にある。とりわけ弓ヶ浜を見下ろす夕暮れの美保湾は絶景らしい。

<ネット画像から>

 到着したのは午後4時。日中晴れていた空はどんよりと曇り、厚さを増した雲が今にも泣きそうだ。噂の絶景は望めそうにない。
 妻木晩田はとにかく広く、国内最大の弥生遺跡だ。ゴルフ場建設の事前調査で見つかり、東西約2キロ、南北約1.7キロもある。中は洞の原地区などの4エリアに分かれ、竪穴住居などの復元建物が点在している。「よすみ」を含む墳墓群もあり、弥生人の生活と繁栄が偲ばれる。
 ここに人が住み始めたのは紀元前1世紀のころで、徐々に人口は増え続け、紀元3世紀前半に最盛期を迎えたという。400年以上の営みは、徳川幕府よりはるかに長い。

 パンフレットのヘッドコピーには『甦る弥生の国邑』と書かれている。
 『国邑(こくゆう)』とは、何ぞや?
 調べてみると、魏志倭人伝の冒頭の1行にある単語で『小都市』の意。漢語では「洛陽」を「洛邑」とも書くそうだ。洛陽は周知の通り、後漢や隋の都。
 弥生時代の集落は小さな農村社会をイメージしてしまうが、大規模な集落が核となって、その周辺に小さな農村や漁村が点在していたと考えるべきなのだろう。
 その証拠にここで発見された建物跡は900以上、墳丘墓も30基を超えている。また発掘された石器や土器、副葬品などは、400年の営みだけに多種多様だ。
 なかでも注目すべきは大量の鉄器の出土だ。その数は400点以上にのぼり、当時の北部九州以外での出土は稀らしい。
 そして鉄器の多くは武器としてではなく、木を切断したり表面を削る道具であったりで、建築部材の加工に使われた工具類が多いことだ。鉄器の加工技術は、稲作の生産性を上げた農具だけでなく、巨大集落の建設にも貢献したのだ。

 しかし、3世紀初頭に繁栄をきわめたこの妻木晩田は、次の古墳時代になると急速に衰退している。前述の「よすみ」の西谷墳墓群同様、ヤマトに新政権が誕生し始めると、出雲は突然歴史の闇に葬られてしまう。(ただし、妻木晩田は出雲ではなく隣りの伯耆の国)
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 今回で5度めの出雲は、古事記に書かれた神話を墳墓や遺跡から眺めようと試みたが、知れば知るほど迷路に入ってしまった。
 哲学者・梅原猛氏は著書のなかで、イザナギ・イザナミは縄文の神、アマテラス・スサノヲは弥生の神として年代設定をする。そして地域的にはイザナミ・スサノヲ・オオクニヌシは出雲王朝系、イザナギ・アマテラス・ニニギはヤマト王朝系に分類する。
 出雲とヤマトの関係は複雑と混迷を極めている。それを読み解くのは、記紀や漢書などの中国の史書、そして今も残る墳墓や遺跡だ。言いかえれば、神話VS歴史学VS考古学の対決だ。
 古事記神代編では全体の3分の1を費やし、出雲系のスサノヲやオオクニヌシの活躍を生き生きと伝えている。スサノヲのヲロチ退治以外は、バッサリ切り捨てた日本書紀とは大違いだ。天皇家の血統と支配の正統性を目的としているのなら、出雲の国譲り神話は省略して、いきなり天孫降臨から始めてもいいのではないだろうか?
 オオクニヌシの無血開城とも云うべき国譲りは、読者としてどうしても同情的心情に駆られてしまう。稗田阿礼が出雲の神々を語れば語るほど、ヤマトの神々の印象は薄らいでいく。それでもプロデューサーの太安万侶は、出雲系神々に必要以上に気を遣っている。
 いや、気を遣っているというよりも、出雲を語らなければ神代の王統が説明できないと考えたからではないだろうか?巨大な西谷墳墓群が証明するように、出雲王朝は繁栄を極め、その勢力範囲は日本海側沿岸を中心に、北九州から北陸の高志、あるいは吉備までにも及んでいた。そんな栄華を誇った出雲王朝には、当然連綿と続く王朝系譜がある。それがスサノヲであり、オオクニヌシではないだろうか?
 ヤマト系の神々には、天孫降臨後九州から東征するものの、正統な系譜の根拠を欠いていた。その根拠を明らかにするために、というよりはこじつけるために、伝統ある出雲の王統を簒奪し、自らの系譜に付け加えることによって、自らの王権が正統であることを証明しようとしたのではないだろうか?奪ったのは領土だけではなく、王統の系譜そのものも奪ったのではないだろうか?

 記紀が編纂されたのはともに8世紀初頭。天武・持統の夫婦天皇の尽力で、日本で初めて律令国家体制の奈良王朝が産声をあげたときだ。それまで「帝紀」や「旧辞」など天皇の系譜、神話や伝説は断片的なものしかなかった。そのため王朝の正統性を国内外に知らしめるためにも、記紀の編纂は欠くことのできない事業だった。奈良王朝成立の背景が記紀の目的に影響したのは言うまでもない。語り部の稗田阿礼は、奈良王朝の影の実力者・藤原不比等(鎌足の次男)だという説もある。
 幕末を理解するには関ケ原の結果を知らなければならないように、記紀を理解するには奈良王朝の成立の背景を知る必要がある。

 もう一つの疑問が卑弥呼の存在だ。記紀が正史を目的としているならば、当然卑弥呼は書かれていなければならない。記紀には「卑弥呼」や「邪馬台国」の文字はいっさい登場しない。登場するのは「漢書」や「三国志」の魏志倭人伝だけだ。

 弥生時代後期の年表はざっとこうだ。
・紀元前50~ 倭国は100余国に分立(『漢書』地理誌)
・紀元後57年 倭奴国王、後漢の光武帝から印綬を授かる
・   107年 倭の国王、後漢の安帝に生口(奴隷)160人を献上
・   147年 倭国大乱(~189年)
・   188年 各王共立して、卑弥呼を女王とする
・   239年 卑弥呼、魏に朝貢。魏の明帝より金印や銅鏡100枚などを授かる
・   248年 卑弥呼、「以て」没する
・   250頃 前方後円墳が出現し、古墳時代始まる

 古事記を編纂した太安万侶は漢語に通じた優秀な文官だった。中国の正史に書かれた卑弥呼の記述は当然知っていたはずだ。しかし卑弥呼の存在は天皇家としては不都合な存在だったのだろう。
 卑弥呼の活躍した時代は、日本海沿岸には国邑という小都市が栄え、大陸との交易も盛んなときだった。倭国大乱があったものの、首長たちが共立して卑弥呼を女王にすることによって、倭国の治安は回復したはずだ。では、なぜ記紀は卑弥呼の存在を抹殺しなければならなかったのだろうか?
 研究者によっては、「卑弥呼」なる女王自体存在してなく、単なる「日をあやつる巫女」としての神職名だと云う。「ヒミコ」という和名を漢人は特定した人物だと勘違いし、「卑弥呼」と漢語を当てたとする説だ。
 しかし巫女であろうと、なんであろうと女王はいたはずだ。その影響力は無視できない。それに卑弥呼の宗女である台与(とよ)という女性の存在も気になる。
 
 世間では卑弥呼の邪馬台国はどこにあったのか?という話題がよく持ち出されるが、私にとってそれが佐賀の吉野ケ里であろうと、奈良の纏向であろうと一向にかまわない。一番疑問に思うのは、天皇家が正史として記紀を編纂するにあたり、なぜ出雲の神々を神話のなかに封じ込め、女王・卑弥呼の存在を抹殺しなければならなかったのか?ということだ。
 謎は深まるばかりだ。

 とうとう雨が降ってきた。絶景の夕暮れを撮ろうと思ったが、天は味方してくれなかった。遺跡の北端にある高床倉庫まで足を運んだが、視界不良で美保湾も弓ヶ浜も判然としない。
 絶景も真実も霧のなかに隠れてしまった。

 

 

 


    
   
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4 コメント

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出雲へ (Nabe)
2017-06-21 07:42:24
ふむふむ。。俺も出雲へ行こうっと。
記事よんでこんな気持ちになった。
9月のシルバーあたりに
うちのかみさんと
出雲の神さんに合いに行こう!っと。
出雲オタク (なかちゃん)
2017-06-21 19:29:24
なべちゃん、ありがとう。
たまにはここに書いてくれぇぇぇ~。FBの方は数人書いてくれるけど、こっちはほんの一人二人。
出雲はホンマにええなあ~。終の棲家にしてもええぐらいや。歴史好きにはたまらん。
山も大山以外にも船通山などの小山も面白そうや。
お勧めの神社は、人の多い出雲大社は外して、熊野大社と佐太神社の壮麗な姿が出雲らしい風情を出している。
そして一番のお勧めは、加賀の潜戸(かかのくけど)。日本海の荒波で浸食された海食洞穴で、大きな洞穴内を遊覧船で巡るというもの。(詳しくは当ブログ出雲散歩①)
カミさんとシルバー旅行なんて、ホンマに羨ましい。うちの奥なんか歴史のレの字も関心がないらしい。
それから、天孫降臨の高千穂と霧島神社は行きたかったなあ~。


スマヌ (TAKAMI)
2017-07-09 16:19:41
わかるわかる、
たまにはコメント書いてくれ~~…ね。
されど、難しすぎて、何をどぉ書いてよいのやら…と怯むのよね~~ん。
怯みまくりながら書くので許されよ。

卑弥呼に関しましては、私も非常に興味のあるところであります。
そうそう、中国の歴史書には記されていると、堂々と教科書に載ってるのに、ナゼ記紀には一切出てこないの?ということは学生時代からもんやりとは感じていたのよね。
私は縄文、弥生時代については、庶民の暮らしに興味があり、その中から権力者が現れてきたんだろうけど、その中から今の皇室の先祖の方がたが現れたことには、あまり興味がございません。
記紀は事実と神話をごっちゃにして、皇室が日本の起源から今日(編纂されたとき)まで絶えることなく存続してきたことを語りたかったのであろう。
…と思ってしまうのですが、どぉよ?

…とかいいながら、矛盾してるかもしれないけど、皇室を敬う気持あります。
記紀の真実 (なかちゃん)
2017-07-11 20:12:14
コメントをいただきかたじけない。怯むことなく、なんでも書いていただければ今生の幸せでござる。

さて、ひと口に記紀と云っても古事記は神話であり、日本書紀は皇統を記した正史でござる。どちらも8世紀初頭に行われた国の編纂事業でござる。それ以前は断片的な記録や伝承しかなかったのでござる。
7世紀から8世紀というと、わが国で初めて律令国家体制ができあがり、国内外に国体となる正式な歴史の必要性にせまられたのでござる。

そしてそこには当然、できたばかりの奈良王朝の意向が反映され、言いかえれば、天皇家が日本を統治する正統性が示されているのでござる。
うまり、天皇家にとって都合のよい史実は採用され、そうでないものは抹殺されたのでござる。

でも、書かれたことが史実上どうであれ、どこかに記紀の真実が隠されているのでござる。
かねてより、余は古事記を旧約、日本書紀を旧約と思うてござる。モーゼが海を割り、ノアが箱舟を作り、そしてスサノヲが大蛇を退治し、アマテラスが岩に隠れたのはファンタジーでござるが、なにかしらの真実が隠されてると推測するのでござる。
それを解き明かしてくれるのが、最近の目覚ましい考古学上の発見と、科学的な裏付けでござる。
これが実に面白いのでござる。事実と真実、裏表のある一枚のコインのようでござる。

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