アヴァンギャルド精神世界
冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。
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ダ・ヴィンチ・コード
時代のおわり
/
2006-05-21 05:49:29
◎イエスの恋人
昨日のテレビ番組の、ダ・ヴィンチ・コードスペシャルを半分くらい見ていました。
特に興味を持ったのは、マグダラのマリアがイエスの伴侶であったことと、その娘のサラがテンプル騎士団へとつながっていくところ。
1.マグダラのマリア
例のナグ・ハマディ文書のピリポ福音書に、「イエスがしばしばマグダラのマリアとキスを交わしたこと」、またトマス福音書に「そのことにペトロをはじめとする十二使徒が不快感を感じたり、嫉妬を抱いていたこと」などが書いてあるそうだから、今度調べてみよう。でもナグ・ハマディ文書のことだから、文章の断片がぱらぱらと残っているだけかもしれないので、過大な期待はできない。
またマグダラのマリアの生涯のことは、ヴァラギオンの『黄金伝説』に詳しいそうだから、今度また読んでみよう。黄金伝説は、多数の歴代聖人のエピソード集だったと思うので、マグダラのマリアのところだけなら分量は少なかろう。
※ピリポ福音書などのグノーシス系文書は、キリスト教からは異端とされているが、グノーシスは、ヘルメス文書を頂点とする一種の「神の側から打ち出された世界観」があるので、それなりの冥想法体系とそれなりの指導者群を持つ宗教体系だったのだろうと思う。
ホンチャンの修行者にとっては、禁欲は義務であるが、一度至聖なる秘蹟である
聖三位一体
を確認した者にとっては、もはや禁欲は必要なくなるというメカニズムがあっても不思議はないと思う。それは、
一休禅師
が、愛欲を尽くしたのと同じ理由である。もっとも現今のキリスト教の組織内では、それはあってはならないことなのだろうけれど。
2.イエスの娘
マグダラのマリアとイエスの娘サラは、フランスに移り住み、なぜか
テンプル騎士団
のところに、マリアの髑髏があり、その子孫は、メロヴィング朝からテンプル騎士団へとつながって行き、イエスの血脈は、受け継がれて行ったということだそうだ。聖者との血縁は、ないよりあった方がいいですから。
中国なんかでも、よく孔子の何十代目子孫という触れ込みの中国人の方がいらっしゃるがそれはそれで、結構なことだと思う。
ある宗教教団が、何千年も連綿として続くメカニズムというのは、その教団のトップが、歴代必ず神との合一を果たした覚者であったということではなく、その教団全体のどこかに、いつの時代にもそうした覚者が居続けたということだと思う。
つまり、ある時代は、法王そのものが、覚者であったし、ある時代においては、末端の一信者にすぎない門前のコンビニのおばちゃんが覚者であったが、教団全体としては、覚者を輩出し続けたから何千年も続いたのだろうと思う。
従って、仮にイエスに娘がいてもキリスト教の権威は微動だにしないと思う。いまだ見神していない信者にとっては毒のある話ではあるけれど。
聖なる者は、自分の外にはいない。だから今貴方の立っている場所こそが聖なる場所であって、靴を脱いで敬意を示すべきであるとイエスは言った。イエス・キリストの娘サラだけが、聖なる者ではないのだ。あなたが聖なる者だから。
目次
1日1善。1日1クリ。
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コメント
騒動という宣伝
(
captain-jack
)
2006-05-21 10:47:38
映画のほうは教会側が一生懸命非難しているので、いい宣伝になっているようですね。
自分と違う意見や見方をしているものがいるからといって冒涜と決め付けて、非難・脅迫するなんて、『慈悲深い』人や教団のすることとは思えませんね。宗教団という組織のエゴと偏狭さを見る思いです。
>その教団全体のどこかに、いつの時代にもそうした覚者が居続けたということだ
これはまったくおっしゃるとおりだと思います。
captain-jack殿へ
(
湖南
)
2006-05-21 16:54:01
キリスト教にはキリスト教なりの教義体系があり、冥想手法があり、その中にイエスの一生の姿というのもあり、どれもも密接不可分なのだと思います。だからダヴィンチ・コードのように異端そのものが登場すれば、教会が叩くのは当然でしょう。
既成の宗教組織は、批判される点もあろうかとは思いますが、それなりに歴史と伝統を踏まえた美点も長所もあるものだと思います。私は、そうした美点も見ていきたいと思っています。
今の時代は、いわば自分で自分の宗教を発見する時代なのだと思っていますが、だからこそ、既成の教団がいろいろな意味で参考になることが多いと思います。
Unknown
(
あんとに庵
)
2006-05-24 15:43:32
はじめまして、佐藤先生のところ繋がりで参りました。
ダ・ヴィンチコードで語られているイエスやマグダラに関するミステリーはかなり使い古されたネタで、新しいものではありません。フランスの伝承にも古くからある伝承をベースにしていますね。
ですのでそれに対しバチカンがクレームをつけているわけではなく「あの本のネタをマジだと信じ、尚且つバチカンがそれを隠そうとしていることをマジだと信じる馬鹿」が大量に、特にカトリック以外の知識を持たない人に続出しはじめたからでしょう。もっともそういう声明は出さない方が却ってよかったかとは思いますが、信徒一部が暴走してアホなこと(アホな不買運動とか)をしているので公式見解を出さざるを得なかったというのが実情です。
上記のコメントの方のように「冒涜と決めつけて非難している」などという偏見と誤解が多過ぎるのには困ったものです。
そもそも。元ネタが「冒涜だ」ということが問題なら本がでた時点で批判するでしょうがあのレベルの話ならカトリックのキリスト教史の中で幾らでもでてくる程度のネタです。カトリック以外の方が、ダ・ヴィンチコードネタを「異端」とか「冒涜」などと決めつけているのが不可思議です。
カトリックの伝統的な教義としてはイエスに子供がいても結婚していても神学的にはなんら問題はありません。
尚、教皇は「覚者(という意味は判らないのですが)」ではありません。単なる組織を束ねる社長みたいなものです。相当するとするなら「覚者」は「聖人」に近いのでしょうか?覚者という概念そのものがたぶんキリスト教の文脈にはないでしょうね。そこは仏教等との違いでもあり、互いの個性的な要素になると思います。
あんとに庵殿へ
(
湖南
)
2006-05-24 20:51:02
初めまして
コメントありがとうございました。
カトリックでは、もともとダ・ヴィンチ・コードのことは問題にしていなかったのですね。改めてその懐の広さを確認致しました。
ユダの福音書の宣伝でもそうですが、ダ・ヴィンチ・コードもダブーに触れる奇異なネタを扱っていると宣伝して衆目を引こうという意図が見え見えです。
でもカトリックの異端の話やフランスの古伝承に疎い人にとっては、不謹慎ながら、よくできた面白そうな話であることは事実です。
このことで、人間イエスをもう一度考えてみたいと思う人が増えることこそ、予期せざる成果かもしれません。
Unknown
(
あんとに庵
)
2006-05-24 21:58:21
湖南様>
お返事有り難うございます。
今回の騒ぎはとてつもないベストセラーになったことも要因でしょうね。ネタ的には既に荒俣宏さんがダン・ブラウンよりも遙かに昔に同じネタを小説にしていたので、同朋としては「荒俣さんの方が先なのに〜〜:という歯痒さもありますね。笑)
センセーショナルなものを望む世の中はバチカンが陰謀めいた場所であると面白いのでそう思いたいのでしょう。ですが意外につまらんトコです。(500年も前なら異端審問とか魔女狩りとか面白ネタもあるんでしょうが、いまやそんなトコでもない)
叩かれやすいのは組織がしっかりしていて、或る程度はオープン故に判りやすい。また歴史推移が判りやすいのと、怖い反撃があまりないから安心してネタにしやすいんでしょう。(今んトコ、バチカンを真剣に怖がっているのは中国ではあるまいか?)
どの伝統宗教も長い歴史の中でさまざまなことに出くわして来ていますが、仏教もヒンドゥーも神道もイスラムも、歴史の荒波で生き残ったものは軸がしっかりしているので、どこかに揺るがないものがあると思います。
あんとに庵殿へ
(
湖南
)
2006-05-25 20:28:24
書き込み入れようとしたら、gooのメンテンナス時間になり、書き込めませんでした。
カトリックの身内の方としては、怖い反撃がないばかりに、商業主義の餌食になっていることの歯がゆさを感じていらっしゃることがよく分かります。
先日仏教の本を読んでいたら、日本の聖人覚者でも、日蓮と親鸞については批判的に研究したものが、他の聖人覚者に比べて少ないと慨嘆している文を見ました。仏教でも事情は、同様です。
中国では宗教は禁止でした。でも仏跡、道観は観光資源として復興させているので、とてもアンバランスを感じます。
中国ではかなりのインテリでも、日本で言えば迷信的だったことように記憶しています。日本人も宗教の自由はあるといえども、ここまで無神論的になると中国人と五十歩百歩でしょうか。
ダビンチ・コード
(
condition
)
2006-06-18 02:03:14
こんにちは。
ダビンチ・コード、ダビンチ・コードって書店に行っても関連本が沢山出ていますが、実はあんまり興味がなく、素通りしていた私ですが、いろいろなところで宣伝等等されているので関連本を2冊ほどパラパラと目を通しました。
それにしてもよく考え付きますねこういうの(笑)。こうしたネタは昔から、ある周期ごとに出回る傾向にあるようですね…。あらすじを(いろいろなところでやるのでなんか読まなくともだいたいわかってしまうみたいな感じで(笑))ちらっとみかけましたが、個人的には手にして読むようなないようなのかどうなのかといった感じです正直…内容も長いですし(汗)。すきなひとがいましたらゴメンナサイ…。
全然キリスト教のこと知らない人が見たらけっこう勘違いをさせてしまう部分もあるかなあ、それはあんましよくないことだなあ…と印象がのこるのですが…。
基本的には、世界史、宗教史、キリスト教史、神学(勿論、聖書学や組織神学や実践神学などを指す)付け加えて神秘学などのある程度のきちんとした知識があれば、とくに惑わされるものもないでしょう。というかきちんとした知識や情報があればそんなにおもしろくかんじない方もいるかもしれませんね…。センセーショナルに取り上げられているみたいですが。
ピリポの福音書などから、マグダラのマリアとの婚姻説がだされているみたいですが、なぜすぐに性的なものに結びつけるのか…とおもってしまいます。確か悪霊などで散々つらい状況を背負っていた場面がでてきますが、そうした場面を粒さにみていたのでその痛みが大変よく伝わったのではないでしょうか…。内容中に「伴侶」ということばが出てくるみたいですがどういう意味で伴侶なのか…。ぐちっぽくなってすみません…。聖書本文内容はときどき同じ表記でもどの様に受けとっていいのかわからない箇所も多く出てくる感があります。
さて、話は変わりますが、個人的には山上の変貌(ヤコブ、ペテロ、ヨハネの前でイエス・キリストの姿が白く変わるところ)などが神秘的な印象を強く受けます。こういったものというのは秘教学的にはどうとらえられるのか、と思ったりします。
condition殿へ
(
湖南
)
2006-06-18 06:21:34
ダビンチ・コードは、2000年にわたるイエスの血脈伝承が大前提なので、イエスに妻や子供がいなければ、最初からこけてしまう話です。
イエスの修行時代の逸話がないことが、こうした憶測を産む原因になっているわけです。どんな聖人でも修行時代は、失敗や懊悩を繰り返すはずなのですが、聖人になったとたんに美化されるので、そうしたエピソードは、表には出なくなるものなのでしょう。キリスト教では、そこは排除されてきたということなのだろうと思います。
山上の変貌については、どんなものか後で調べてみたいと思います。
返信です
(
condition
)
2006-06-20 01:13:48
こんばんは。
返信かきこみを有り難うございます。
>聖人になったとたんに美化されるので、そ
>うしたエピソードは、表には出なくなるも>のなのでしょう。キリスト教では、そこは>排除されてきたということなのだろうと思>います。
たしかに、頷けます。聖書は現在の書物のかたちにされるのに厳密に編纂をされています。アポクリファとよばれるものも沢山ありますね。旧約聖書の創世記ですらいくつかの文書を編纂されてかかれたものという説もありますし、編纂の際に使われた資料自体が他の宗教や神話などと酷似している部分があるという見解も有ります。世界の歴史的にみれば四大文明とりわけメソポタミア乃至シュメール関連が最も古いとされているようですがそうしたものの影響も多分にうけている旧約聖書であるわけですし、この時点で既にいうなればあやふやな部分が出てきているといえるのかもしれません。そこから産み出された、新約聖書も編纂をくわえられているわけで、さらにあやふやになっているともいえるのでしょう。他者の意思が介入した時点で純粋な意味で歴史的には誤りがあるわけですが、そうしたものが神学的に意味のあるものとして我々が日常的に知っている歴史に関しては絶大な力を与えてきたというのは、やはり組織側の巧みな編纂技術ということというべきなの
でしょうか。宗教組織としては、そうした巧みな技術をつかって信者拡大という成功を収めてきたとおもいますが、ここまで肥大化したキリスト教を切るとなると問題はその後切り離された組織内外信者の多くがどのような軌跡をたどるのか心配でもあります。巨大なダムを切ったはいいがさてそのあとどんなことがおこるのか…。
それはさておきつまるところ「キリストの言っていることは正しいがキリスト教の言っていることには誤りがある」ということになるのでしょうか…。こうなってくると他の宗教や密教、秘教でもすべて似たようなことがいわれる結果となってしまい思考がストップしてしまいます。ただ、外典、偽典といわれるもののなかには、キリスト教に深くかかわる文章であるように一見みえるが、実際には全く関係性のない当時の別の宗教がキリスト教を取り込んだものといった見解のある資料もあるようです。こうした細かい点には常に気を配る必要があります。
これが正しいかどうか判りませんが、個人的には、いうなればキリスト教的哲学が時代に受けいれられてきて、それは多くの人々が直面している生きる困難さにそれなりの回答を与えてきたからであるといえばまあいいのかなあと思います。現実に労働に従事し家庭を持ち生きていく、考えてもみればこうした普通の人生を送ることにすら辛さを感じるのは古えの時代の人々の多くがそうであったように、現代の人々にもそう大きく変わることでもないと思います。自分で背負える強さあるいは、痛みを感じない強さを持つという意味ではクンダリーニの思想が関わってくるのかもしれませんが、この辺はまだ思考を深める余地があるのかと自分自身思います。よく言われることですが将来的には宗教を超えた一種哲学のようなものが主流になるのかもしれませんが、そうなったらなったらで特に支障がなければ、個人的にはまあいいのかなあと思います。理想なのは所謂、解脱状態で個々人のネットワークが張られるようになればいいのかとも思いますが、この辺も考える余地がありそうです。
condition殿へ
(
湖南
)
2006-06-20 07:03:29
信者以外の人にとっては、キリスト教は哲学で、クンダリーニ・ヨーガは思想だと見ている人が世間の大方だと思います。(学者さんの見方ですね)
私は、キリスト教は思想哲学に留まらず、生命そのものだと思っています。またクンダリーニは思想ではなく、実体験する自分というものを超えた、いわば体験を超えた体験だと見ています。
このブログでは、そうした知的思惟を超えた冥想をお勧めしていますのでよろしく。
またキリスト教に限らず、組織宗教の中にも本物の境涯の方はいらっしゃると思っています。ただ本物は、トップの人とは限らないのではないかと思っています。
神性
(
condition
)
2006-06-21 02:39:40
こんばんわ。
返信のかきこみありがとうございます。
>信者以外の人にとっては、キリスト教は哲学で、クンダリーニ・ヨーガは思想だと見ている人が世間の大方だと思います。(学者さんの見方ですね)
かもしれませんね。(ちなみに私は学者ではないですが(汗)そう感じますか…。(汗))
>私は、キリスト教は思想哲学に留まらず、生命そのものだと思っています。
なるほど。わかる気がします。ここで質問ですがではなぜ生命そのものであるものが…
>イエスの修行時代の逸話がないことが、こうした憶測を産む原因になっているわけです。どんな聖人でも修行時代は、失敗や懊悩を繰り返すはずなのですが、聖人になったとたんに美化されるので、そうしたエピソードは、表には出なくなるものなのでしょう。キリスト教では、そこは排除されてきたということなのだろうと思います。
ということになるのでしょうか…。生命の解釈にもよると思いますが、排除そのものも含めて神の御業が繁栄されているということなのでしょうか…。
(意地悪な質問になってしまいましたら御免なさい。)
>またクンダリーニは思想ではなく、実体験する自分というものを超えた、いわば体験を超えた体験だと見ています。
なるほど。わかるような気がします。
以前、禅を体験された方の記事内で、はじめの内は中々感覚が変わらず、眠ってしまうこともあったが、あるとき、また禅をし、暫くするとすばらしい感覚に襲われたそうです。どのようにしてそう至ったのかわからなかったみたいですが、それはことばには表現できないもので、仮に何百億というお金を積まれても手放せないぐらいのものらしかったです。そういう表現しか出来ないほど凄い体験だったらしいというのを見かけた事があります…。
禅とクンダリーニを同列に扱ってよいものなのかどうかわかりませんが、チャクラの七番目(派によってはもっと上があるようですが…)が開花すると自己を超越した精神に至るようですが…。
>またキリスト教に限らず、組織宗教の中にも本物の境涯の方はいらっしゃると思っています。ただ本物は、トップの人とは限らないのではないかと思っています。
なるほど、これも解るような気がします。私もキリスト教会に通っていた(これからも?)経験がありますので…。あれですがよいひとはたくさんいますよ。これがトップな考えとは限らないのではないかと思っていますが、私は個人的には思いやりをもって接することが神性への目覚めの第1歩のような気がします…。
condition殿へ
(
湖南
)
2006-06-21 06:08:10
生命そのものの教えも、組織宗教になった途端、哲学・思想に変質しますが、本当のところをうけついでいる人は出るものだと思います。
宗教の成功についての評価は、人間精神の熟成に対してどの程度寄与したかによってはかられるべきで、熟成の最終目的は、地上天国実現でしょうから、組織宗教としての寄与も相当あったと考えるべきでしょう。
禅とクンダリーニの違いは、このブログの他の記事を読んで下さいね。
condition殿へ
(
湖南
)
2006-06-21 06:08:12
生命そのものの教えも、組織宗教になった途端、哲学・思想に変質しますが、本当のところをうけついでいる人は出るものだと思います。
宗教の成功についての評価は、人間精神の熟成に対してどの程度寄与したかによってはかられるべきで、熟成の最終目的は、地上天国実現でしょうから、組織宗教としての寄与も相当あったと考えるべきでしょう。
禅とクンダリーニの違いは、このブログの他の記事を読んで下さいね。
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自分と違う意見や見方をしているものがいるからといって冒涜と決め付けて、非難・脅迫するなんて、『慈悲深い』人や教団のすることとは思えませんね。宗教団という組織のエゴと偏狭さを見る思いです。
>その教団全体のどこかに、いつの時代にもそうした覚者が居続けたということだ
これはまったくおっしゃるとおりだと思います。
既成の宗教組織は、批判される点もあろうかとは思いますが、それなりに歴史と伝統を踏まえた美点も長所もあるものだと思います。私は、そうした美点も見ていきたいと思っています。
今の時代は、いわば自分で自分の宗教を発見する時代なのだと思っていますが、だからこそ、既成の教団がいろいろな意味で参考になることが多いと思います。
ダ・ヴィンチコードで語られているイエスやマグダラに関するミステリーはかなり使い古されたネタで、新しいものではありません。フランスの伝承にも古くからある伝承をベースにしていますね。
ですのでそれに対しバチカンがクレームをつけているわけではなく「あの本のネタをマジだと信じ、尚且つバチカンがそれを隠そうとしていることをマジだと信じる馬鹿」が大量に、特にカトリック以外の知識を持たない人に続出しはじめたからでしょう。もっともそういう声明は出さない方が却ってよかったかとは思いますが、信徒一部が暴走してアホなこと(アホな不買運動とか)をしているので公式見解を出さざるを得なかったというのが実情です。
上記のコメントの方のように「冒涜と決めつけて非難している」などという偏見と誤解が多過ぎるのには困ったものです。
そもそも。元ネタが「冒涜だ」ということが問題なら本がでた時点で批判するでしょうがあのレベルの話ならカトリックのキリスト教史の中で幾らでもでてくる程度のネタです。カトリック以外の方が、ダ・ヴィンチコードネタを「異端」とか「冒涜」などと決めつけているのが不可思議です。
カトリックの伝統的な教義としてはイエスに子供がいても結婚していても神学的にはなんら問題はありません。
尚、教皇は「覚者(という意味は判らないのですが)」ではありません。単なる組織を束ねる社長みたいなものです。相当するとするなら「覚者」は「聖人」に近いのでしょうか?覚者という概念そのものがたぶんキリスト教の文脈にはないでしょうね。そこは仏教等との違いでもあり、互いの個性的な要素になると思います。
コメントありがとうございました。
カトリックでは、もともとダ・ヴィンチ・コードのことは問題にしていなかったのですね。改めてその懐の広さを確認致しました。
ユダの福音書の宣伝でもそうですが、ダ・ヴィンチ・コードもダブーに触れる奇異なネタを扱っていると宣伝して衆目を引こうという意図が見え見えです。
でもカトリックの異端の話やフランスの古伝承に疎い人にとっては、不謹慎ながら、よくできた面白そうな話であることは事実です。
このことで、人間イエスをもう一度考えてみたいと思う人が増えることこそ、予期せざる成果かもしれません。
お返事有り難うございます。
今回の騒ぎはとてつもないベストセラーになったことも要因でしょうね。ネタ的には既に荒俣宏さんがダン・ブラウンよりも遙かに昔に同じネタを小説にしていたので、同朋としては「荒俣さんの方が先なのに〜〜:という歯痒さもありますね。笑)
センセーショナルなものを望む世の中はバチカンが陰謀めいた場所であると面白いのでそう思いたいのでしょう。ですが意外につまらんトコです。(500年も前なら異端審問とか魔女狩りとか面白ネタもあるんでしょうが、いまやそんなトコでもない)
叩かれやすいのは組織がしっかりしていて、或る程度はオープン故に判りやすい。また歴史推移が判りやすいのと、怖い反撃があまりないから安心してネタにしやすいんでしょう。(今んトコ、バチカンを真剣に怖がっているのは中国ではあるまいか?)
どの伝統宗教も長い歴史の中でさまざまなことに出くわして来ていますが、仏教もヒンドゥーも神道もイスラムも、歴史の荒波で生き残ったものは軸がしっかりしているので、どこかに揺るがないものがあると思います。
カトリックの身内の方としては、怖い反撃がないばかりに、商業主義の餌食になっていることの歯がゆさを感じていらっしゃることがよく分かります。
先日仏教の本を読んでいたら、日本の聖人覚者でも、日蓮と親鸞については批判的に研究したものが、他の聖人覚者に比べて少ないと慨嘆している文を見ました。仏教でも事情は、同様です。
中国では宗教は禁止でした。でも仏跡、道観は観光資源として復興させているので、とてもアンバランスを感じます。
中国ではかなりのインテリでも、日本で言えば迷信的だったことように記憶しています。日本人も宗教の自由はあるといえども、ここまで無神論的になると中国人と五十歩百歩でしょうか。
ダビンチ・コード、ダビンチ・コードって書店に行っても関連本が沢山出ていますが、実はあんまり興味がなく、素通りしていた私ですが、いろいろなところで宣伝等等されているので関連本を2冊ほどパラパラと目を通しました。
それにしてもよく考え付きますねこういうの(笑)。こうしたネタは昔から、ある周期ごとに出回る傾向にあるようですね…。あらすじを(いろいろなところでやるのでなんか読まなくともだいたいわかってしまうみたいな感じで(笑))ちらっとみかけましたが、個人的には手にして読むようなないようなのかどうなのかといった感じです正直…内容も長いですし(汗)。すきなひとがいましたらゴメンナサイ…。
全然キリスト教のこと知らない人が見たらけっこう勘違いをさせてしまう部分もあるかなあ、それはあんましよくないことだなあ…と印象がのこるのですが…。
基本的には、世界史、宗教史、キリスト教史、神学(勿論、聖書学や組織神学や実践神学などを指す)付け加えて神秘学などのある程度のきちんとした知識があれば、とくに惑わされるものもないでしょう。というかきちんとした知識や情報があればそんなにおもしろくかんじない方もいるかもしれませんね…。センセーショナルに取り上げられているみたいですが。
ピリポの福音書などから、マグダラのマリアとの婚姻説がだされているみたいですが、なぜすぐに性的なものに結びつけるのか…とおもってしまいます。確か悪霊などで散々つらい状況を背負っていた場面がでてきますが、そうした場面を粒さにみていたのでその痛みが大変よく伝わったのではないでしょうか…。内容中に「伴侶」ということばが出てくるみたいですがどういう意味で伴侶なのか…。ぐちっぽくなってすみません…。聖書本文内容はときどき同じ表記でもどの様に受けとっていいのかわからない箇所も多く出てくる感があります。
さて、話は変わりますが、個人的には山上の変貌(ヤコブ、ペテロ、ヨハネの前でイエス・キリストの姿が白く変わるところ)などが神秘的な印象を強く受けます。こういったものというのは秘教学的にはどうとらえられるのか、と思ったりします。
イエスの修行時代の逸話がないことが、こうした憶測を産む原因になっているわけです。どんな聖人でも修行時代は、失敗や懊悩を繰り返すはずなのですが、聖人になったとたんに美化されるので、そうしたエピソードは、表には出なくなるものなのでしょう。キリスト教では、そこは排除されてきたということなのだろうと思います。
山上の変貌については、どんなものか後で調べてみたいと思います。
返信かきこみを有り難うございます。
>聖人になったとたんに美化されるので、そ
>うしたエピソードは、表には出なくなるも>のなのでしょう。キリスト教では、そこは>排除されてきたということなのだろうと思>います。
たしかに、頷けます。聖書は現在の書物のかたちにされるのに厳密に編纂をされています。アポクリファとよばれるものも沢山ありますね。旧約聖書の創世記ですらいくつかの文書を編纂されてかかれたものという説もありますし、編纂の際に使われた資料自体が他の宗教や神話などと酷似している部分があるという見解も有ります。世界の歴史的にみれば四大文明とりわけメソポタミア乃至シュメール関連が最も古いとされているようですがそうしたものの影響も多分にうけている旧約聖書であるわけですし、この時点で既にいうなればあやふやな部分が出てきているといえるのかもしれません。そこから産み出された、新約聖書も編纂をくわえられているわけで、さらにあやふやになっているともいえるのでしょう。他者の意思が介入した時点で純粋な意味で歴史的には誤りがあるわけですが、そうしたものが神学的に意味のあるものとして我々が日常的に知っている歴史に関しては絶大な力を与えてきたというのは、やはり組織側の巧みな編纂技術ということというべきなの
でしょうか。宗教組織としては、そうした巧みな技術をつかって信者拡大という成功を収めてきたとおもいますが、ここまで肥大化したキリスト教を切るとなると問題はその後切り離された組織内外信者の多くがどのような軌跡をたどるのか心配でもあります。巨大なダムを切ったはいいがさてそのあとどんなことがおこるのか…。
それはさておきつまるところ「キリストの言っていることは正しいがキリスト教の言っていることには誤りがある」ということになるのでしょうか…。こうなってくると他の宗教や密教、秘教でもすべて似たようなことがいわれる結果となってしまい思考がストップしてしまいます。ただ、外典、偽典といわれるもののなかには、キリスト教に深くかかわる文章であるように一見みえるが、実際には全く関係性のない当時の別の宗教がキリスト教を取り込んだものといった見解のある資料もあるようです。こうした細かい点には常に気を配る必要があります。
これが正しいかどうか判りませんが、個人的には、いうなればキリスト教的哲学が時代に受けいれられてきて、それは多くの人々が直面している生きる困難さにそれなりの回答を与えてきたからであるといえばまあいいのかなあと思います。現実に労働に従事し家庭を持ち生きていく、考えてもみればこうした普通の人生を送ることにすら辛さを感じるのは古えの時代の人々の多くがそうであったように、現代の人々にもそう大きく変わることでもないと思います。自分で背負える強さあるいは、痛みを感じない強さを持つという意味ではクンダリーニの思想が関わってくるのかもしれませんが、この辺はまだ思考を深める余地があるのかと自分自身思います。よく言われることですが将来的には宗教を超えた一種哲学のようなものが主流になるのかもしれませんが、そうなったらなったらで特に支障がなければ、個人的にはまあいいのかなあと思います。理想なのは所謂、解脱状態で個々人のネットワークが張られるようになればいいのかとも思いますが、この辺も考える余地がありそうです。
私は、キリスト教は思想哲学に留まらず、生命そのものだと思っています。またクンダリーニは思想ではなく、実体験する自分というものを超えた、いわば体験を超えた体験だと見ています。
このブログでは、そうした知的思惟を超えた冥想をお勧めしていますのでよろしく。
またキリスト教に限らず、組織宗教の中にも本物の境涯の方はいらっしゃると思っています。ただ本物は、トップの人とは限らないのではないかと思っています。
返信のかきこみありがとうございます。
>信者以外の人にとっては、キリスト教は哲学で、クンダリーニ・ヨーガは思想だと見ている人が世間の大方だと思います。(学者さんの見方ですね)
かもしれませんね。(ちなみに私は学者ではないですが(汗)そう感じますか…。(汗))
>私は、キリスト教は思想哲学に留まらず、生命そのものだと思っています。
なるほど。わかる気がします。ここで質問ですがではなぜ生命そのものであるものが…
>イエスの修行時代の逸話がないことが、こうした憶測を産む原因になっているわけです。どんな聖人でも修行時代は、失敗や懊悩を繰り返すはずなのですが、聖人になったとたんに美化されるので、そうしたエピソードは、表には出なくなるものなのでしょう。キリスト教では、そこは排除されてきたということなのだろうと思います。
ということになるのでしょうか…。生命の解釈にもよると思いますが、排除そのものも含めて神の御業が繁栄されているということなのでしょうか…。
(意地悪な質問になってしまいましたら御免なさい。)
>またクンダリーニは思想ではなく、実体験する自分というものを超えた、いわば体験を超えた体験だと見ています。
なるほど。わかるような気がします。
以前、禅を体験された方の記事内で、はじめの内は中々感覚が変わらず、眠ってしまうこともあったが、あるとき、また禅をし、暫くするとすばらしい感覚に襲われたそうです。どのようにしてそう至ったのかわからなかったみたいですが、それはことばには表現できないもので、仮に何百億というお金を積まれても手放せないぐらいのものらしかったです。そういう表現しか出来ないほど凄い体験だったらしいというのを見かけた事があります…。
禅とクンダリーニを同列に扱ってよいものなのかどうかわかりませんが、チャクラの七番目(派によってはもっと上があるようですが…)が開花すると自己を超越した精神に至るようですが…。
>またキリスト教に限らず、組織宗教の中にも本物の境涯の方はいらっしゃると思っています。ただ本物は、トップの人とは限らないのではないかと思っています。
なるほど、これも解るような気がします。私もキリスト教会に通っていた(これからも?)経験がありますので…。あれですがよいひとはたくさんいますよ。これがトップな考えとは限らないのではないかと思っていますが、私は個人的には思いやりをもって接することが神性への目覚めの第1歩のような気がします…。
宗教の成功についての評価は、人間精神の熟成に対してどの程度寄与したかによってはかられるべきで、熟成の最終目的は、地上天国実現でしょうから、組織宗教としての寄与も相当あったと考えるべきでしょう。
禅とクンダリーニの違いは、このブログの他の記事を読んで下さいね。
宗教の成功についての評価は、人間精神の熟成に対してどの程度寄与したかによってはかられるべきで、熟成の最終目的は、地上天国実現でしょうから、組織宗教としての寄与も相当あったと考えるべきでしょう。
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