◎神の属性をイメージ
マイモニデスは、12世紀スペインのユダヤ教のリーダー。4巻1000章の大部ミシュネー・トーラー(ユダヤ教法典集成)を完成させた碩学。
彼の神の見方は、学究肌らしく、他人に伝えるのにふさわしい言葉をさがしているが、次のような冷静な表現にとどまっている。例の体験とは言えない体験があったかどうかはこれだけでは断定できない。
同じ碩学のトマス・アクイナスのような、あるいは禅僧徳山のような、それまでに一生を捧げてきた学問をすべて捨てるシーンが出てくれば間違いないと思うのだが、そのようないう場面はなかったようだ。
『次のような彼の発言は自己告白のように響く。
「そういうわけで、人は形而上学を理解するために何十年も骨折って学問しながら、しかもその結果、神概念が否定されることになるのだ・・・・・」。
神認識を達成しえた静かな喜びと感謝の思いとが、讃歌のような次の言葉に表現されている。
「神は称むべきかな、神の本質は余りにも崇高ゆえ、それについて考察するとき、われらの思惟は理解に達せず、われらの知恵は、神の業が必然的に神自身の意思に由来する消息を考察するとき、愚かとなり、われらの過剰な言葉は、すべての舌が神の属性を称えようとすると、思うように話せず、口ごもり、気を失う」』
(マイモニデス伝/A.J.ヘッシェル/教文館P189-190から引用)
神が、単に知的なイメージに止まっている可能性がなきにしも非ずと思う。


悟りとは何か
マイモニデスは、12世紀スペインのユダヤ教のリーダー。4巻1000章の大部ミシュネー・トーラー(ユダヤ教法典集成)を完成させた碩学。
彼の神の見方は、学究肌らしく、他人に伝えるのにふさわしい言葉をさがしているが、次のような冷静な表現にとどまっている。例の体験とは言えない体験があったかどうかはこれだけでは断定できない。
同じ碩学のトマス・アクイナスのような、あるいは禅僧徳山のような、それまでに一生を捧げてきた学問をすべて捨てるシーンが出てくれば間違いないと思うのだが、そのようないう場面はなかったようだ。
『次のような彼の発言は自己告白のように響く。
「そういうわけで、人は形而上学を理解するために何十年も骨折って学問しながら、しかもその結果、神概念が否定されることになるのだ・・・・・」。
神認識を達成しえた静かな喜びと感謝の思いとが、讃歌のような次の言葉に表現されている。
「神は称むべきかな、神の本質は余りにも崇高ゆえ、それについて考察するとき、われらの思惟は理解に達せず、われらの知恵は、神の業が必然的に神自身の意思に由来する消息を考察するとき、愚かとなり、われらの過剰な言葉は、すべての舌が神の属性を称えようとすると、思うように話せず、口ごもり、気を失う」』
(マイモニデス伝/A.J.ヘッシェル/教文館P189-190から引用)
神が、単に知的なイメージに止まっている可能性がなきにしも非ずと思う。


悟りとは何か











