◎その「悟り」がくせもの
金剛般若経と聞けば、漢文のちんぷんかんぷんの文章をイメージしてそれだけでやる気が失せるものかもしれない。しかし金剛般若経は、意外に短い。
金剛般若経でも、これが悟りだなんて言うことを戒める。
これは金剛般若経の一節。
『【漢訳書下し文】
もし、人ありて、如来は、阿耨多羅三藐三菩提を得たもうと言わんも、須菩提よ、実には、法として、仏の阿耨多羅三藐三菩提を得るという〔ごとき〕もの有ること無し。
須菩提よ。如来の得るところの阿耨多羅三藐三菩提は、この中において、実も無く、虚もなし。
この故に、如来は、『一切の法は、皆これ仏法なり』と説けるなり。
須菩提よ。言うところの一切の法は、すなわち、一切の法に非ず。この故に、一切の法と名(なず)くるなり
【サンスクリット原文和訳】
「スブーティよ、もしだれかが、『如来・尊敬されるべき人・正しく目ざめた人が、この上ない正しいさとりを現にさとられた』と、このように言ったとすると、その人は誤りを言ったことになる。
スブーティよ。かれは、真実でないことに執着して、私を謗っていることになるだろう。それはなぜかというと、スブーティよ。如来がこの上もない正しいさとりを現にさとったというようなことがらは何もないからだ。
また、スブーティよ。如来が現にさとり示された法には、真実もなければ虚妄もないのだ。それだから、如来は、『あらゆる法は、目ざめた人の法である』と説くのだ。
それはなぜかというと、スブーティよ。『あらゆる法というものは実は法ではない』と、如来によって説かれているからだ。それだからこそ《あらゆる法》と言われるのだ。』
(般若経典/中村元訳/東京書籍P263-264から引用)
今も昔も、如来が悟りを悟ったなどということはない。だから、現代日本語として「悟り」という言葉を会話で使う場合には、しばしば、会話がかみ合わなかったり、会話が成立しなかったりするわけだ。


悟りとは何か
金剛般若経と聞けば、漢文のちんぷんかんぷんの文章をイメージしてそれだけでやる気が失せるものかもしれない。しかし金剛般若経は、意外に短い。
金剛般若経でも、これが悟りだなんて言うことを戒める。
これは金剛般若経の一節。
『【漢訳書下し文】
もし、人ありて、如来は、阿耨多羅三藐三菩提を得たもうと言わんも、須菩提よ、実には、法として、仏の阿耨多羅三藐三菩提を得るという〔ごとき〕もの有ること無し。
須菩提よ。如来の得るところの阿耨多羅三藐三菩提は、この中において、実も無く、虚もなし。
この故に、如来は、『一切の法は、皆これ仏法なり』と説けるなり。
須菩提よ。言うところの一切の法は、すなわち、一切の法に非ず。この故に、一切の法と名(なず)くるなり
【サンスクリット原文和訳】
「スブーティよ、もしだれかが、『如来・尊敬されるべき人・正しく目ざめた人が、この上ない正しいさとりを現にさとられた』と、このように言ったとすると、その人は誤りを言ったことになる。
スブーティよ。かれは、真実でないことに執着して、私を謗っていることになるだろう。それはなぜかというと、スブーティよ。如来がこの上もない正しいさとりを現にさとったというようなことがらは何もないからだ。
また、スブーティよ。如来が現にさとり示された法には、真実もなければ虚妄もないのだ。それだから、如来は、『あらゆる法は、目ざめた人の法である』と説くのだ。
それはなぜかというと、スブーティよ。『あらゆる法というものは実は法ではない』と、如来によって説かれているからだ。それだからこそ《あらゆる法》と言われるのだ。』
(般若経典/中村元訳/東京書籍P263-264から引用)
今も昔も、如来が悟りを悟ったなどということはない。だから、現代日本語として「悟り」という言葉を会話で使う場合には、しばしば、会話がかみ合わなかったり、会話が成立しなかったりするわけだ。


悟りとは何か











