◎何も保証がない
変性意識を鬱病などの精神病の治癒のきっかけに使おうと考えている人もいるけれど、結果からみれば、とんでもないことである。PTSDでは変性意識が発現する場合がしばしばみられるけれども、うまく治癒できる人がいる一方でなかなか治癒できない人がいるのも現実なのである。
いわんや向精神薬(サイケデリクス)を服用することにより、変性意識という意識の広がりを体験させることにより、人間精神の無限の可能性を認知せしめ、力と希望に満ちた人間精神を再構築しましょうという意気込みは、スローガンとしてはとてもステキなものだ。
だがそれをなし得る力量のある心理家がそこここにいるとは思えない。というのは、その心理家の条件は、変性意識の性質や範囲や限界を知り尽くしていることなのだから。クンダリーニ・ヨーガ系の達人だけがそれが可能ではないか。
幼い頃に原爆の記録映画を小学校で見せられて、美意識を喚起しないナマ死体が累々と並ぶシーンによって、何年も悪夢にうなされた吉福伸逸のように、PTSDになるのは簡単だが、治癒には時間がかかるものなのである。
精神医療における治癒とは、現実社会に患者を復帰させることだが、正統的冥想修行の中では、魔境などの変性意識状態が出現することは知られていても、全員が悟る状態に到達することは約束されているわけではない。たとえば輪廻説を採る宗教では、今生では悟れないかもしれないけれど、発心したら将来の人生で悟ることがあるみたいな言い方をする。
大体、向精神薬サイケデリックスの体験を読むと、自分はほとんど見る人・演じる人に徹していて、行動の自由やイベントを能動的に発生させているわけではない。ことほど左様に自分の精神の動向ですら自分の思うままにならないのが人間なのである。
サーフィンで、時には珊瑚礁の下の海にもぐり込まされて脱出に苦労したり、大波が何個も連続してやってくるケースで、最初の大波の終りに海面に近づいたと思ったら、また大波で海の中に引きずり込まれ、また海面に近づいたと思ったら、また大波で海の中に引きずり込まれ、挙げ句の果てに、人生の始めから最後までをパノラマ的に見せられて、海水をしたたかに飲むような、ちょっと危ない体験も変性意識のきっかけである。
きっかけがあるからといって、それが簡単に有効利用できるならば、誰も苦労していない。





1日1善。1日1クリ。 
変性意識を鬱病などの精神病の治癒のきっかけに使おうと考えている人もいるけれど、結果からみれば、とんでもないことである。PTSDでは変性意識が発現する場合がしばしばみられるけれども、うまく治癒できる人がいる一方でなかなか治癒できない人がいるのも現実なのである。
いわんや向精神薬(サイケデリクス)を服用することにより、変性意識という意識の広がりを体験させることにより、人間精神の無限の可能性を認知せしめ、力と希望に満ちた人間精神を再構築しましょうという意気込みは、スローガンとしてはとてもステキなものだ。
だがそれをなし得る力量のある心理家がそこここにいるとは思えない。というのは、その心理家の条件は、変性意識の性質や範囲や限界を知り尽くしていることなのだから。クンダリーニ・ヨーガ系の達人だけがそれが可能ではないか。
幼い頃に原爆の記録映画を小学校で見せられて、美意識を喚起しないナマ死体が累々と並ぶシーンによって、何年も悪夢にうなされた吉福伸逸のように、PTSDになるのは簡単だが、治癒には時間がかかるものなのである。
精神医療における治癒とは、現実社会に患者を復帰させることだが、正統的冥想修行の中では、魔境などの変性意識状態が出現することは知られていても、全員が悟る状態に到達することは約束されているわけではない。たとえば輪廻説を採る宗教では、今生では悟れないかもしれないけれど、発心したら将来の人生で悟ることがあるみたいな言い方をする。
大体、向精神薬サイケデリックスの体験を読むと、自分はほとんど見る人・演じる人に徹していて、行動の自由やイベントを能動的に発生させているわけではない。ことほど左様に自分の精神の動向ですら自分の思うままにならないのが人間なのである。
サーフィンで、時には珊瑚礁の下の海にもぐり込まされて脱出に苦労したり、大波が何個も連続してやってくるケースで、最初の大波の終りに海面に近づいたと思ったら、また大波で海の中に引きずり込まれ、また海面に近づいたと思ったら、また大波で海の中に引きずり込まれ、挙げ句の果てに、人生の始めから最後までをパノラマ的に見せられて、海水をしたたかに飲むような、ちょっと危ない体験も変性意識のきっかけである。
きっかけがあるからといって、それが簡単に有効利用できるならば、誰も苦労していない。





1日1善。1日1クリ。 












そこから脱出できるものもいる、できないものもいる。おそらくその違いを分けるのは、「自我意識」の強弱だけだと思うのですが…
チベットでは僧となるものは幼いうちから鳥葬の様子を見せられます。鳥が食べやすいように肉体を切り刻み、頭蓋骨を砕く様を、です。
一方で現代という時代、とりわけ今の日本ほど「死」が人々の前から隠蔽されている時代も珍しい。
おそらく「大波に飲み込まれ」て助かろうとするものは「自我意識」がそのようにさせています。しかし最後の最後の瞬間に、全ての死にゆく命はその「自我意識」を手放さざるを得ないのです。
その手放した向こう側に「何」があるのかを多少なりとも「知って」いれば、このように繰り返し繰り返し「手放す寸前の恐怖」に囚われることもなくなるでしょう。
とすると、
>きっかけがあるからといって、それが簡単に有効利用できるならば、誰も苦労していない。
これは「手放す寸前の恐怖」に囚われて自ら苦労を背負い込んでいるにすぎない、という風に見えてくるんですね。
「自我」は幻影に過ぎないという「ありのまま」を見れば、怖れることなど何もない。兵士は大勢の死に「自我」という幻影を見ているから苦しむのです。
そこからきっかけをつかんで抜け出せるか、抜け出せないかは本人の問題であって、他に責任を転嫁できるものではありません。
コメントありがとうございました。
「菩薩は人の姿を借りて現れる」殿は、手離すことができましたか。
手離せたとしたら、どのようにそれは起きましたか。手離そうとして手離せるものでしたか。
ぜひ教えて下さい。
あなたも、私も、全ての命がいずれ「手離す」瞬間はやってきます。そのための準備を、その人の段階に応じて徐々に行っていくのが「瞑想」だと思います。
いずれ「手離す」し、いずれ「至高へと到達する」んですから、あせらずに、つまり「先取り」を急がずに、そして信じがたいものを「信じて」瞑想を続けられたらそれでいいんだと思います。
博学な知識で、いつも大変参考にさせていただいているこのサイトですが、最近の一連のPTSD絡みの記事は、「あれれ??、何あせっておられるのかな?」「魔境にでも迷い込まれたのかな?」と感じられる部分がありましたので、僭越ながらコメントさせていただいた次第です。
私だけでなく、いろいろなことが、急を告げているように感じます。
その人の魂の成熟度により、急ぐべきと感じる人と、急がなくて良いと感じる人の二通りいます。
準備ができている人にも、準備ができていない人にも、同時に天変地異などの大量死はやってくるのではないでしょうか。
その時に、準備ができていないことに何の後悔もしない自信のある人はゆっくりでいいと思いますが、私はそうではありませんので。
いずれ全ての人が、「すべて」を手放すんです。
準備ができていてもいなくても「行き先」は同じですが、準備のできていないヒトは少々手間取るだけのことでしょうね。
ところでその大量死の時代に、はたして「冥想」で間に合うと思われますか?
もし「冥想」で間に合わなければ、では「その時」どうすればいいんでしょうか?
それよりも、実はみんな「間に合う」ことになっているんだとしたら?
「手放す」ということについて、たとえ話をしてみましょう。
子どもが楽しいおもちゃを与えられます。子どもはその楽しいおもちゃで夢中になって遊びます。
子どもはそのおもちゃが「自分のもの」あるいは「自分そのもの」だと思っていますが、それは時限を区切って貸し与えられたもので、いずれ時がくれば返さなければなりません。
返すのが「嫌だ」といって駄々をこねる子。
返す頃にはもうそのおもちゃに飽きてしまって、すんなり返す子。
そのおもちゃを乱暴に扱って返す前に壊してしまう子。
等々、いろんな子がいますね。
>手離せたとしたら、どのようにそれは起きましたか。手離そうとして手離せるものでしたか。
そのおもちゃの名前は、「自我」といいます。
ですから、「手離そうとして手離せるもの」だとは思えなくて足掻いていらっしゃる姿は、「返すのが嫌だといって駄々をこねる子」とダブります。
それでも説明されたいのなら、ご自分のブログからTBして下さいね。