◎穢(けが)れなきもの
『沐浴と禊祓(みそぎはらい)と洗礼』では、人間をやっている以上は、穢れるので、沐浴と禊祓(みそぎはらい)と洗礼を行う必要があるという考え方を述べた。
しかしながら、禅家では、六祖慧能が、次のように自分の境地を歌い、沐浴の必要のあるものなどないと喝破している。本当に沐浴の必要のある穢れはあるのだろうか。
六祖慧能は、7世紀の中国の広東省出身の禅の坊さんである。彼の境地を自ら歌った歌が次のとおりである。
菩提本樹無し 明鏡も亦台に非ず本来無一物 何れの処にか塵埃を惹かん
(悟りという樹も、鏡のような心もありはしない。もともと何もないのだから、どこに塵やほこりがたまるのか、たまらない)
道家の呂洞賓も禅の六祖慧能もタオ(神、仏)を知っているわけだが、呂洞賓は「沐浴が必要である」と言い、六祖慧能は、「沐浴の必要などどこにもない。もとより穢れも何もないのだから」と言う。この違いは何なのだろうか。
到達した境地は、呂洞賓の大周天(クンダリーニ・ヨーガ)では、タオ(中心太陽)であり、禅家では空(中心太陽)なので同じである。 決定的な違いは、道家の大周天(クンダリーニ・ヨーガ)では、降臨受肉があるのに対し、禅家では、それがないことである。
降臨受肉とは、タオ(中心太陽)からの帰還に際し、神の愛し子であるかけがえのない個性を持った人間であることを知ることである。クンダリーニ・ヨーガとしての漸進的な一歩一歩の段階を追った発達の果てに中心太陽から降臨し、人間として受肉する。「人間がある」という立場をとる以上は沐浴があるのである。
一方禅では、「世界も、宇宙も、自分という人間も、もともとありはしなかった」ことになりきってしまうことが悟りである。これは、タオと同じ状態であるが、禅では、クンダリーニ・ヨーガと違って順を追ったステップなどはないから、「今でない今、ここでないここ」から、何もないことを前提とした人間ドラマが始まるだけてある。
詮じ詰めれば、禅のステップとしては、「なにもかもない」という、たった一つのステップしかないので、殊更(ことさら)に神と人間という区別を言う必要もないのである。 従って禅家では、穢れも人間すらも「なにもかもない」だけの一部分なので、沐浴の必要はないのである。
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『沐浴と禊祓(みそぎはらい)と洗礼』では、人間をやっている以上は、穢れるので、沐浴と禊祓(みそぎはらい)と洗礼を行う必要があるという考え方を述べた。
しかしながら、禅家では、六祖慧能が、次のように自分の境地を歌い、沐浴の必要のあるものなどないと喝破している。本当に沐浴の必要のある穢れはあるのだろうか。
六祖慧能は、7世紀の中国の広東省出身の禅の坊さんである。彼の境地を自ら歌った歌が次のとおりである。
菩提本樹無し 明鏡も亦台に非ず本来無一物 何れの処にか塵埃を惹かん
(悟りという樹も、鏡のような心もありはしない。もともと何もないのだから、どこに塵やほこりがたまるのか、たまらない)
道家の呂洞賓も禅の六祖慧能もタオ(神、仏)を知っているわけだが、呂洞賓は「沐浴が必要である」と言い、六祖慧能は、「沐浴の必要などどこにもない。もとより穢れも何もないのだから」と言う。この違いは何なのだろうか。
到達した境地は、呂洞賓の大周天(クンダリーニ・ヨーガ)では、タオ(中心太陽)であり、禅家では空(中心太陽)なので同じである。 決定的な違いは、道家の大周天(クンダリーニ・ヨーガ)では、降臨受肉があるのに対し、禅家では、それがないことである。
降臨受肉とは、タオ(中心太陽)からの帰還に際し、神の愛し子であるかけがえのない個性を持った人間であることを知ることである。クンダリーニ・ヨーガとしての漸進的な一歩一歩の段階を追った発達の果てに中心太陽から降臨し、人間として受肉する。「人間がある」という立場をとる以上は沐浴があるのである。
一方禅では、「世界も、宇宙も、自分という人間も、もともとありはしなかった」ことになりきってしまうことが悟りである。これは、タオと同じ状態であるが、禅では、クンダリーニ・ヨーガと違って順を追ったステップなどはないから、「今でない今、ここでないここ」から、何もないことを前提とした人間ドラマが始まるだけてある。
詮じ詰めれば、禅のステップとしては、「なにもかもない」という、たった一つのステップしかないので、殊更(ことさら)に神と人間という区別を言う必要もないのである。 従って禅家では、穢れも人間すらも「なにもかもない」だけの一部分なので、沐浴の必要はないのである。
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