◎一瞥では戻っちまう
一瞥とは、またの名を見性、見神ともいう。昔、わけもわからないでOSHOバグワンの本を読んでいた頃は、一瞥って、エンライトゥンメントって、とても大切なことなんだろうと思っていた。今もわけもわからないと言う点では変わりはないが、ちょっとはあの冗長かつ頻繁に焦点がずれる彼の語り口は理解できるような気がするようになってきた。
OSHOバグワンは、老練なクンダリーニ・ヨーギであり、前生は、チベットに自分のミイラを残すほどの手練れな密教僧だった。しかし彼の気まぐれ、移り気は、むしろ荘子の気質にそっくりである。よって彼のもう一つの前世が荘子であるという説にはなるほどどうなずけるところがある。
『あなたはある一定量のLSDを摂った
そしてあなたは至福でとんでしまう
すべてが至福ですべてが喜びだ
生は途方もない美しさと輝きを放ち
樹々はますます緑になり、バラはますます赤くなる
あらゆる顔がきらめいてみえる
生は光輝き、サイケデリックになる
だがそのLSDは徐々にきれる
翌朝あなたが見ると樹々は再び無味乾燥だ
あの青々しさはそこにはない
あの輝きはそこにはない
それらは内側から輝き出たものではない
あなたはふたたび人々の顔を、あの鈍くて退屈な顔を見る
すべてが無味乾燥だ
すべてがふつうだ
同じことがヨーガを通して起こりうる
同じことが断食を通して起こりうる
同じことがその他、どんな技法を通しても起こりうる
技法はあなたに〈一瞥〉を与えるのには良い
だが、技法はあなたに〈一瞥〉しか与えられない
それはあなたの実態にはなりえない
それはあなたの意識にはなりえない』
(ダイヤモンド・スートラ/バグワン・シュリ・ラジニーシ/めるくまーる社P367-369から引用)
あなたの実態・意識になるには、あなたが死なねばならないと言っているわけだ。チベット密教ならポワ、禅なら大死一番。それでもって即身成仏と空海なら言うに違いない。


悟りとは何か
一瞥とは、またの名を見性、見神ともいう。昔、わけもわからないでOSHOバグワンの本を読んでいた頃は、一瞥って、エンライトゥンメントって、とても大切なことなんだろうと思っていた。今もわけもわからないと言う点では変わりはないが、ちょっとはあの冗長かつ頻繁に焦点がずれる彼の語り口は理解できるような気がするようになってきた。
OSHOバグワンは、老練なクンダリーニ・ヨーギであり、前生は、チベットに自分のミイラを残すほどの手練れな密教僧だった。しかし彼の気まぐれ、移り気は、むしろ荘子の気質にそっくりである。よって彼のもう一つの前世が荘子であるという説にはなるほどどうなずけるところがある。
『あなたはある一定量のLSDを摂った
そしてあなたは至福でとんでしまう
すべてが至福ですべてが喜びだ
生は途方もない美しさと輝きを放ち
樹々はますます緑になり、バラはますます赤くなる
あらゆる顔がきらめいてみえる
生は光輝き、サイケデリックになる
だがそのLSDは徐々にきれる
翌朝あなたが見ると樹々は再び無味乾燥だ
あの青々しさはそこにはない
あの輝きはそこにはない
それらは内側から輝き出たものではない
あなたはふたたび人々の顔を、あの鈍くて退屈な顔を見る
すべてが無味乾燥だ
すべてがふつうだ
同じことがヨーガを通して起こりうる
同じことが断食を通して起こりうる
同じことがその他、どんな技法を通しても起こりうる
技法はあなたに〈一瞥〉を与えるのには良い
だが、技法はあなたに〈一瞥〉しか与えられない
それはあなたの実態にはなりえない
それはあなたの意識にはなりえない』
(ダイヤモンド・スートラ/バグワン・シュリ・ラジニーシ/めるくまーる社P367-369から引用)
あなたの実態・意識になるには、あなたが死なねばならないと言っているわけだ。チベット密教ならポワ、禅なら大死一番。それでもって即身成仏と空海なら言うに違いない。


悟りとは何か











