アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

常不軽菩薩

2006-06-02 06:24:17 | イメージ・トレーニング(冥想法1)
◎走り逃げて礼拝

法華経は、摩訶止観などで説かれている諸仏の観想を段階的に行うためのテキストの一種として編纂されたのだろうと思うが、その中に常不軽菩薩の話がある。

常不軽菩薩とは、
『相手が出家であれ,在家であれ、男であれ、女であれ、誰にでも礼拝して、このように讃えました。

「私はあなた方を深く敬います。あなた方を決して軽んじず、あなどることを致しません。あなた方は皆、菩薩道を行じて仏になることができるのですから。」

この比丘(坊さんのこと)は、経典の読誦には専心せず、ただ礼拝の行だけを行いました。たとえ遠くに人々を見ても近づいて、「わたくしは、あなたがたを軽んじません。あなた方は皆仏になるのですから。」と礼拝しました。

ところが人々の中には、心が濁っていて、かえって瞋恚(しんに:怒りのこと)を起こす者がいました。かれらは比丘に悪口を浴びせてののしりました。

「この無知な比丘はどこから来たのだ。勝手に<軽んじず>といい、我等が<仏になれる>とまるで自分が仏であるかのように記を授けるとは・・・。そんな予言は信じるものか」

そうして多くの年月を経て、この比丘は常に罵られました。けれども決して怒らず、「あなた方は仏になるのです。」と礼拝を続けました。

それを聞いて、比丘を杖で打ち、石を投げつける人がいました。そんな時この比丘は、走り逃げて遠くから大声で言いました。
「わたくしはあなた方を軽んじません。あなた方は皆仏になるのですから。」と。

この比丘は、常にこのように言い続けたので、人々は比丘をあざけって「常不軽」と名づけたのです。』
(図説法華経大全/学研から引用)

ここは、あなたと私の区別のある世界を舞台としている話である。この世で有限の寿命を持っているあなたが、何かあなたではない?仏に、いつかはなるという主張である。

仏の側からみれば、礼拝している常不軽菩薩と礼拝されているあなたは、同じ仏の現れである。ところが、ここでは、仏ではないあなたという段階があることを認めて、仏になるために段階を経てなっていくのだという、どちらかというとクンダリーニ・ヨーガの系列の考え方が基底にあるように思う。

そして杖で打たれ、石を投げつけられて常不軽菩薩は、遠くへ逃げるが、釈迦前生譚において釈迦は同じ穴に落ちた虎に、進んで自分の肉体を与えたり、イエスが十字架にかかる運命を予期しながら逃げ出さなかったことと比較すると、いかにも修行中の菩薩であるという印象を受ける。これを捨て身のバクティ・ヨーガとして見るとやや不徹底なところがあるように思う。

常不軽菩薩は、最後には仏になるが、常不軽仏になったならば、杖で打たれ石を投げられても逃げることはないと思う。そんなことは、意に介するはずもないからである。

また、聞く耳持たぬ衆生に、仏になるという暗示を与えては礼拝するという、一つの行に打ち込み、それを完遂するために、逃げ出したと見る見方もあるけれど。

目次
    1日1善。1日1クリ。



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2 コメント

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勉強になりました (すけさん)
2006-06-02 19:26:51
はじめまして。トラックバックしていただいた“おでっせいあ”のすけさんと申します。柴又帝釈天で法華経の木彫り彫刻を見てきたのですが、知識乏しく、真に楽しむことができませんでした。こちらの記事、とても勉強になりました。
すけさんへ (湖南)
2006-06-03 07:37:32
はじめまして



コメントありがとうございました。

そちらのブログで、柴又の木彫りを拝見しましたが、常不軽菩薩がひょいと石から身をかわしている感じが出ていてよくできていますね。

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