◎お寺生まれの僧侶はバラモン階級
昔は、在家の者が寺に出家したが、今は寺を出て出家する。
『ある会合で、在家から入った若い僧侶がみんなの前でこう明言した。「僕は、お寺に生まれたもんが正直言って、うらやましいよ。僕らは、修行が終わっても、継ぐお寺がないし、お寺でサラリーマンするしかないんだから」と。そんな気持ちはきっとお寺生まれのエリートお坊さんたちにはビンとこないであろう。
例えば、叡山で、千日回峰行とか、一二年籠山行とか烈しい修行をするのは、ほとんど在家出身である。在家から発心して入ったからそれだけ道心堅固なのだという見方もできるが、それだけではないと私はみている。結局、在家から入った者はそのぐらいのことをやらないと、自分のポジションを得られない。何かで抜きん出なくては自分の存在価値を示せない。活躍の場がないのである。
そんな事情をよく知らないある女性が、お寺生まれの若い僧侶に、「あなたも将来、回峰行とかするの」と聞いたらしい。すると「僕らお寺に生まれたから、あんなことする必要ない」と答えたそうだ。やっぱり、である。もう世襲化の進んだお寺生まれの僧侶はバラモンさまなのである。
こんなバラモンお坊さんたちのなかにも、社会でやっていける人、別に仕事をもっているお坊さん〈たいてい、父親が健在なうちは若い僧侶は他に仕事をもっているが〉は、お寺を継ぎたくないと思っている人もけっこう多い。しかしお寺を捨てることはしない。いや家族のしがらみがあるからできない。お寺から出家したいお坊さんはいっぱいいるのであるが。
家長制度が崩壊し、檀家制度がないにも関わらず、なんとなく「家の宗派」というものは存在しているが、これからはおそらく個人の信仰になっていくであろう。経済不況で倒産する企業が続出するなか、お寺だけ安泰というわけにはいくまい。お寺の世界にもM&A(合併と買収)が進めば面内いのだが。
お寺を継ぎたくない人は出て行く、在家から入った意欲のある人がやる、という風にならないものだろうか。たぶんみんなにとってそのほうが幸せであろう。』
(座標軸としての仏教学/勝本華蓮/佼成出版社P286-287から引用)
出家とは、本来、家は捨てる、仕事は捨てる、財産は捨てる、家族のしがらみは捨てる、世俗の欲望は捨てる、異性への関心も捨てる、過去の思い出も捨てる、あらゆるものを捨てて初めて成るものだ。カルロス・カスタネダがすべてを捨てさせられたように。
捨てた先に僧苑・サンガがあるはずだったが、いまやそこは特権階級の僧侶様たちが跋扈している場所であって、すべてを捨て去った人たちばかりが修行に邁進するからりと晴れ渡ったすがすがしい修行場ではないらしい。生活・稼ぎの場であって、修行場ではないわけだ。
この状態を以って、明治初めの僧の妻帯許可、廃仏毀釈政策は、充分に仏教を内から破壊するという成果を上げたと言えるだろう。(プロテスタントも妻帯するらしいから、プロテスタントの状況はどうなんだろうか)
仏教寺院が修行場として適当でないとすれば、真剣に取り組もうとする人であればあるほど個人で修行せざるをえないという見方はそのとおりだと思う。
今日もそんなことは気にせず坐る。


悟りとは何か
昔は、在家の者が寺に出家したが、今は寺を出て出家する。
『ある会合で、在家から入った若い僧侶がみんなの前でこう明言した。「僕は、お寺に生まれたもんが正直言って、うらやましいよ。僕らは、修行が終わっても、継ぐお寺がないし、お寺でサラリーマンするしかないんだから」と。そんな気持ちはきっとお寺生まれのエリートお坊さんたちにはビンとこないであろう。
例えば、叡山で、千日回峰行とか、一二年籠山行とか烈しい修行をするのは、ほとんど在家出身である。在家から発心して入ったからそれだけ道心堅固なのだという見方もできるが、それだけではないと私はみている。結局、在家から入った者はそのぐらいのことをやらないと、自分のポジションを得られない。何かで抜きん出なくては自分の存在価値を示せない。活躍の場がないのである。
そんな事情をよく知らないある女性が、お寺生まれの若い僧侶に、「あなたも将来、回峰行とかするの」と聞いたらしい。すると「僕らお寺に生まれたから、あんなことする必要ない」と答えたそうだ。やっぱり、である。もう世襲化の進んだお寺生まれの僧侶はバラモンさまなのである。
こんなバラモンお坊さんたちのなかにも、社会でやっていける人、別に仕事をもっているお坊さん〈たいてい、父親が健在なうちは若い僧侶は他に仕事をもっているが〉は、お寺を継ぎたくないと思っている人もけっこう多い。しかしお寺を捨てることはしない。いや家族のしがらみがあるからできない。お寺から出家したいお坊さんはいっぱいいるのであるが。
家長制度が崩壊し、檀家制度がないにも関わらず、なんとなく「家の宗派」というものは存在しているが、これからはおそらく個人の信仰になっていくであろう。経済不況で倒産する企業が続出するなか、お寺だけ安泰というわけにはいくまい。お寺の世界にもM&A(合併と買収)が進めば面内いのだが。
お寺を継ぎたくない人は出て行く、在家から入った意欲のある人がやる、という風にならないものだろうか。たぶんみんなにとってそのほうが幸せであろう。』
(座標軸としての仏教学/勝本華蓮/佼成出版社P286-287から引用)
出家とは、本来、家は捨てる、仕事は捨てる、財産は捨てる、家族のしがらみは捨てる、世俗の欲望は捨てる、異性への関心も捨てる、過去の思い出も捨てる、あらゆるものを捨てて初めて成るものだ。カルロス・カスタネダがすべてを捨てさせられたように。
捨てた先に僧苑・サンガがあるはずだったが、いまやそこは特権階級の僧侶様たちが跋扈している場所であって、すべてを捨て去った人たちばかりが修行に邁進するからりと晴れ渡ったすがすがしい修行場ではないらしい。生活・稼ぎの場であって、修行場ではないわけだ。
この状態を以って、明治初めの僧の妻帯許可、廃仏毀釈政策は、充分に仏教を内から破壊するという成果を上げたと言えるだろう。(プロテスタントも妻帯するらしいから、プロテスタントの状況はどうなんだろうか)
仏教寺院が修行場として適当でないとすれば、真剣に取り組もうとする人であればあるほど個人で修行せざるをえないという見方はそのとおりだと思う。
今日もそんなことは気にせず坐る。


悟りとは何か











