◎ちょっと得しない何か
人は何かちょっと実現しそうもない願望を持って、簡単な努力で手が届きそうもないことがわかると、ショーウィンドウの商品をじっくり覗き込むように、「さて一体どの宗教やメソッドに入れば、自分の気持が美しく崇高なままで願望を成就することができるのか」と、いろいろな宗教書を読みあさったり、グルを捜してみたりするものだ。
でも、そんなこんなで、神様が自分の願いをすべて聞き入れてくれるわけではないことがじわじわと判って来ると、それでも「こんなに純粋な思いの俺の気持を、神様が聞き入れてくれないはずはない」などと、いろんな聞き知ったことや読んだことの中で自分に都合よく解釈できることだけを覚えていて、きっとこの神様・この仏様を一生懸命信心すれば、どんな願いも叶わないはずはないなどと思い込んでは、いや待てよと思い返し、その繰り返しを何回でもやるものだ。
やれ人間には無限の可能性がある、やれ思う一念巌(いわお)も通す、どんな欲望でも必ず実現する方法がある、などと耳に快いコピーフレーズはいくらでも有るものだ。
でもそんな自分に都合がよい方に考える癖も、何年か経つうちに、自分でも徐々に嘘っぽく感じられていくにつれて、次第次第に底が割れて正体が見えてくるものだ。要するに神・仏とは、自分のすべての願いを叶えてくれるわけではなく、本当の願望しか聞いてくれないちょっとケチな野郎じゃないかとわかり、むっとしたりすることになるのだ。
自分の本当の願望が何かってことすらわかっていない自分にとっては、これは結構ショックだから、このことを受け入れるには何年も、いや人によっては何百年もかかるんだと思う。
だから人によっては、狼狽して「神・仏とあろうものが、人の願いを選別して少しだけ叶えるなんてことはない。うちの神はすべて叶えます。」などと安直な宣伝に走ったり、「当教団の信者の願望は、信心が足りていれば、すべて叶う」などと安うけ合いをしたりすることもあるのではないだろうか。
現代人が本当に期待するところは、無条件に我が欲望をすべて実現してくれることではあるが、その手段が見あたらない。このように現代人の欲望は極大にまで来ているが、それをすべて実現する手段はないという慢性的欲求不満の状態に常にある。
このようなロジックは、知性が発達して、ともすれば神仏を自分にとって「ケチな野郎」の一人とまで見がちな現代人の大方の見方というべきものに相違ないのだと思う。実体験がなければ誰も神・仏のことなど信じないほど知性が発達してしまい、もはや神仏の絶対性も希薄なものに感じるのが当たり前の精神状態にいる。神仏ですら、自分のすべての願望を叶えてくれるわけではないことを皆知っているのだ。
本来人間にとって、見返りを期待した信仰は、見返りを期待した瞬間にその真実味はなくなってしまうものだと思う。本当の信仰の最後には自分を捨てるステージが出てくるものだから、その時に堪えられなくなってしまう。
ところが、現代人にとって見返りを期待しない行動は論理的でないから、世間からはちょっとお馬鹿な行動であるとくさされる。「ちょっと得する何か」がない限り、他人を納得させることができないし、只働きする人は愚かなだけだと思われてしまうのだ。
冥想とは、「ちょっと得しない何か」そのものなのである。でも冥想の無限の可能性はそこにあるが、誰もそこに可能性のあることすら証明することができないのだ。
神や仏の体験と呼べない体験をした人は、必ず「いまここで、あなたに対してすべてが与えられている」などと語る。でも了見の狭い我々は、その言葉が文字通りのものであることは、少しは想像することはできても、『本当にそうであることを確認する手段が、「ちょっと得しない何か」である冥想だ』なんて、非合理的なことは、他人に口にすることもはばかられることだと感じている。
ここに唯一の解決手段である冥想が、現代人には全く省みられない合理的ロジックがある。





1日1善。1日1クリ。 
人は何かちょっと実現しそうもない願望を持って、簡単な努力で手が届きそうもないことがわかると、ショーウィンドウの商品をじっくり覗き込むように、「さて一体どの宗教やメソッドに入れば、自分の気持が美しく崇高なままで願望を成就することができるのか」と、いろいろな宗教書を読みあさったり、グルを捜してみたりするものだ。
でも、そんなこんなで、神様が自分の願いをすべて聞き入れてくれるわけではないことがじわじわと判って来ると、それでも「こんなに純粋な思いの俺の気持を、神様が聞き入れてくれないはずはない」などと、いろんな聞き知ったことや読んだことの中で自分に都合よく解釈できることだけを覚えていて、きっとこの神様・この仏様を一生懸命信心すれば、どんな願いも叶わないはずはないなどと思い込んでは、いや待てよと思い返し、その繰り返しを何回でもやるものだ。
やれ人間には無限の可能性がある、やれ思う一念巌(いわお)も通す、どんな欲望でも必ず実現する方法がある、などと耳に快いコピーフレーズはいくらでも有るものだ。
でもそんな自分に都合がよい方に考える癖も、何年か経つうちに、自分でも徐々に嘘っぽく感じられていくにつれて、次第次第に底が割れて正体が見えてくるものだ。要するに神・仏とは、自分のすべての願いを叶えてくれるわけではなく、本当の願望しか聞いてくれないちょっとケチな野郎じゃないかとわかり、むっとしたりすることになるのだ。
自分の本当の願望が何かってことすらわかっていない自分にとっては、これは結構ショックだから、このことを受け入れるには何年も、いや人によっては何百年もかかるんだと思う。
だから人によっては、狼狽して「神・仏とあろうものが、人の願いを選別して少しだけ叶えるなんてことはない。うちの神はすべて叶えます。」などと安直な宣伝に走ったり、「当教団の信者の願望は、信心が足りていれば、すべて叶う」などと安うけ合いをしたりすることもあるのではないだろうか。
現代人が本当に期待するところは、無条件に我が欲望をすべて実現してくれることではあるが、その手段が見あたらない。このように現代人の欲望は極大にまで来ているが、それをすべて実現する手段はないという慢性的欲求不満の状態に常にある。
このようなロジックは、知性が発達して、ともすれば神仏を自分にとって「ケチな野郎」の一人とまで見がちな現代人の大方の見方というべきものに相違ないのだと思う。実体験がなければ誰も神・仏のことなど信じないほど知性が発達してしまい、もはや神仏の絶対性も希薄なものに感じるのが当たり前の精神状態にいる。神仏ですら、自分のすべての願望を叶えてくれるわけではないことを皆知っているのだ。
本来人間にとって、見返りを期待した信仰は、見返りを期待した瞬間にその真実味はなくなってしまうものだと思う。本当の信仰の最後には自分を捨てるステージが出てくるものだから、その時に堪えられなくなってしまう。
ところが、現代人にとって見返りを期待しない行動は論理的でないから、世間からはちょっとお馬鹿な行動であるとくさされる。「ちょっと得する何か」がない限り、他人を納得させることができないし、只働きする人は愚かなだけだと思われてしまうのだ。
冥想とは、「ちょっと得しない何か」そのものなのである。でも冥想の無限の可能性はそこにあるが、誰もそこに可能性のあることすら証明することができないのだ。
神や仏の体験と呼べない体験をした人は、必ず「いまここで、あなたに対してすべてが与えられている」などと語る。でも了見の狭い我々は、その言葉が文字通りのものであることは、少しは想像することはできても、『本当にそうであることを確認する手段が、「ちょっと得しない何か」である冥想だ』なんて、非合理的なことは、他人に口にすることもはばかられることだと感じている。
ここに唯一の解決手段である冥想が、現代人には全く省みられない合理的ロジックがある。





1日1善。1日1クリ。 












トラックバックどうもありがとうございます。(オート?)
こちらのブログには今まで精神世界系のサイトをサーフしている時に何度か来たことがあります。
精神世界の分野を多岐にわたって思索されていますね。
今後ゆっくりと読ませていただきますね。
自分のブログはしょぼくてあまり一目にはさらしたくないので今回はURLを載せません。オートだったら何のことかわからないかも…。
”オート”ではなくて、”願望実現”だと思いますよ。時間のない時は、TBオンリーで失礼させていただいてます。これからもどうぞよろしくお願い致します。
見返りを期待しない信仰とか瞑想についてですが、
確かに魂の成長というか悟りなどは誰も証明できないことであっても、やはりその"見返り"を求めて最初は
瞑想をはじめるのではないでしょうか?それはいわゆる現世利益の類ではないのいでしょうけど。
しかしその現世利益でない"見返り"でさえ、それを求めていてはひょっとするとそれは得られないのかもしれませんが・・・
コメントありがとうございました。
見返りが明確に了解できないとなかなか人は行動には移りません。それは理知的な現代人にとっては当たり前すぎることです。
ここは言葉で議論すると厳しい(ほら快適さという感覚の幸福を求めているのではないかと逆襲されがち)のですが、現世利益でない"見返り"には、なんらかの快適さ、心地よさみたいなものは絶対あります。それは求めてくるものでなくて、求めなくても向こうから来るものだけが本物であるというように考えています。
ご返事ありがとうございました。
"求めなくても向こうから来るもの"ですか・・・
最初は求め、次に求めていては得られないと気づき
それから既に与えられている(既に向こうから来ていた)ということに気づいて感謝するということ
でしょうか。
瞬間そんなふうに感じることがあるのに、現実を
目の前にするとすぐ消えてしまうばかりです。
やはり娑婆にいては決して到達できない世界なんでしょうかね。ごめんなさいなんだか愚痴っぽくなってしまいました。
感謝の気分は冥想の様々なレベルで起こってきます。
かなり冥想が深まった人でも娑婆の厳しい現実は手に余るようですので、懲りずに冥想を続けることでしょう。