アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

泉鏡花の戯曲『山吹』

2017-11-13 05:21:52 | 究極というものの可能性
◎不条理と暗黒

澁澤龍彦と三島由紀夫が、泉鏡花の戯曲『山吹』を激賞していたので読んでみた。

修善寺が舞台。60台後半の酔ってしわくちゃの薄汚れた老人形遣いが若い頃にさる女性に対して犯した罪を苦にしている。25歳の婚家でさんざんにいじめられている婦人が東京から家出してきているのに修善寺で偶然出会い、彼女に請うて、山のくぼ地で、したたかに流血されながらも傘や棒で打たれ続けるという話。

不如意、不条理は人間世界の常。老人形遣いも彼女も不如意、不条理のシンボル。

それを苦にして二人とも倒錯的行動に堕ちる。闇に入った人間は、非社会的行動をとることがあるのだが、不如意、不条理を本当に苦しいいやなものとして、そこから出ていくにはある種の生きるエネルギーが要る。

そこに留まったままになっている人には、一つには苦しいことも実はまんざらでもないという心理が働いている。

世の中の人生相談で、苦しい〇〇から抜け出したいと思っていますというのが多いが、その心理の深層では、苦しむこともまんざらでもないという意識が働いているケースも少なくないのではないか。

こうした倒錯は、苦を一度措いて、別の異常心理、異常行動を楽しむという動機で起こるのだろう。

不如意、不条理に正面から向き合い、本当にそれがいやだということになれば、あれが突然開けるということは、理屈ではそうだが、苦を楽しめる性向が残っているということは、まだ準備ができていないということなのではないか。

澁澤龍彦と三島由紀夫もこういうわけのわからないものが大好きだったのだろうが、いわゆる人間の隙間には闇があるといっても、それは必ずしも暗黒方面ではあるまい。

暗黒に落ちた人間でも何とかできるのは、クンダリーニ・ヨーガを抜けた英雄なのだろうと思う。素人でも、乾いた道でも手を付けるのは難しいのではないか。
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