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( by 後藤 純一/めるがっぱ )

須田ノート:ある「須田国太郎論」

2008年10月24日 01時03分55秒 | Weblog
 門田秀雄の「須田国太郎論」は貴重な書である。
(正しくは雑誌に掲載されただけで書籍化されていないが、
いずれ出版されることを期待したい。)

 須田国太郎論は少ない。
須田は全体像を掴みにくい画家だから、実証性や緻密な論理を
重視する大学や美術館の専門家からは敬遠されるのだろう。
実証性を重視すれば経歴や著作からのアプローチに絞られがちで、
緻密な論理を期待すれば須田の画法の一面に終始しがちだ。
いずれもそこから零れ落ちるものが多すぎる。
須田と親交のあった同時代人が書いた文章はあってもその
内容は断片的で、普段の須田の人物像がかえって理解の幅を
狭めていると言っていい。
そんな中で、門田秀雄の「須田国太郎論」は数少ない本格的な
須田論の試みである。

 門田の須田論は読む度に刺激を受ける優れた文章だが、
その描かれた須田像はどこか希薄で、いびつな感じが
つきまとう。
もっと個人的な印象を書けば、読み進む内にいつのまにか
すれ違ってしまい、同じ画家の絵を論じているとは
おもえなくなってしまうのだ。
簡単に言ってしまえば、門田の須田論は須田を知識人と
捉え過ぎている。
戦争期を須田の生涯の分岐点と見る点には共感を
覚えるが、その課題を当時の知識人一般の問題とする点に
無理が生じている気がする。
その「誤解」は須田が1937年に描いた「村」の評価に
象徴されている。
「須田国太郎論(ニ)」に門田はこう書いている。

「明らかにここでのモチーフは、群集する家屋の
造形性にではなく、人々が寄って生活することに
みられる人間のある本源的な形態にあるように見える。
須田はそこに人間と社会の本質を見、その
本源性に絵画的表現を与えようとしたのだと
思えなくもない。その格調の高さとともに、
画面にみられるなにか形而上的な雰囲気は、
『村』が須田の大衆像であり、須田の到達
すべく刻苦してきた共同的世界の像である
ことを告げているようにもみえる。」

「村」という須田の絵を前にして、
「『村』が須田の大衆像であり、須田の到達
すべく刻苦してきた共同的世界の像である 」
という感想は、わたしには浮んでこない。
「村」はなにを書いた絵か?
わたしには須田が自分の内面の様々な在り様を家屋の形に
現して検証した絵だと見える。
須田は建築物にしばしば自分の内面を象徴させている。
滞欧期の教会の尖塔、「法観寺塔婆」や「唐招提寺礼殿」
や「校倉(甲)」「校倉(乙)」の古建築など皆そうだ。
「村」や翌年の「筆石村」の民家に伺える、切々とした
圧迫感は須田の孤立感である。
恐らくその検証を強いたものは、戦争の足跡だ。
須田は日本が急激に変化していく気配を感じ、「冬の時代」を
前に、自分の中の複雑な襞を手探りで再確認していったのだ。
一言で言えば、「村」は須田の内面像である。

 同じ絵を見ながら、門田とわたしとではまるで違う
感想を持っている。
門田の論考が須田国太郎という作家論を越えたモチーフに
基づいていると言うことは可能であろうし、門田の「村」の
感想もそのモチーフの視点から捉えすぎていると指摘
することは出来るが、須田の絵を見て門田が感じている
ものはそのままに受け取っていいと思える。
門田は須田の「村」に戦争期の庶民の生活を描いた
と見ているのだ。
わたしに見えるものがなぜ門田に見えないのか。
当然、わたしは自分の見方が須田の本質を捉えていると
信じて疑わないが、門田も同じことをつぶやくのだろう。
誰も自分の個性を通してしか、絵を見ることは出来ない。
門田の須田論を読むといつもこの避けることの出来ない
すれ違いの思いにかられる。
 



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