葉織る。

言葉の中にそれを紡ぎ織った人が見えても、それは虚像かもしれない。

クールに鎮痛。

2017-10-30 13:30:53 | 養生
 首、肩、腰、膝等々。
 運動器に痛みを感じたら、確かに第一の選択肢は安静だ。
 特に急性で炎症があれば、固定やアイシングが必要な場合もあるだろう。
 でも炎症が引いたら、なるべく動かすことを優先したい。

 動かし過ぎても良くないだろうが、まったく動かさないのはもっと良くない。
 というか、動かし過ぎ以前に動かし方が悪くて痛むケースがほとんどだと思う。

 それに、痛みは何かと厄介者にされがちだが、そこは色々だ。

 本当に怪我をして痛むのなら、これは鬱陶しい限りだろう。
 だが、何らかのサインとしての痛みであれば、鬱陶しいが心配は要らない。

 この場合のサインが、「まだ傷めてはいないけれど、念のため休んでおきたい」という意味なら休めば良いし、「どうも動き方に無理がある」という意味ならフォームをチェックすれば良い。

 運動後の筋肉痛などはダイレクトに成長に繋がる痛みなのだから、考えようによっては鬱陶しさも大幅減だ。
 まあ不便ではあるが。
 ちなみに、筋肉痛が無くても筋肉は成長するらしいので、なるべく痛い思いをせずにトレーニング出来れば、それに越したことはなかろう。

 こういった「ただひたすら深刻で鬱陶しい痛み」と「鬱陶しいが心配無用の痛み」は、普段から心身と向き合いつつ動きを練っていれば、大体区別がつくようになる。

 ただこういった感覚は、現役のアスリートほど狂いがちだと思う。
 何らかの競技に特化した動きは、心身に無理を強いることが多い上に、「試合に出たい、勝ちたい」とか「記録を伸ばしたい」等々の誘惑に溢れた世界だからだ。

 深刻な痛みを自覚しながら、ついつい我慢してしまうのも問題だが、コンディションに留意しているような人でも欲目にかられて「まあこのぐらいなら大丈夫だろう」と、痛みの深刻さを見誤りがちになる。

 炎症が引いてアイシングが不要になっても、痛みについてはあくまでもクールに判断したい。
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そもそも美味しい。

2017-10-23 12:54:52 | 養生
 医食同原という考え方は共感しやすい。
 心身は日々食べたり飲んだりしているものでできているのだから、その質と量によって健康にも病気にもなるというのは自然な発想だろう。

 医食同原は予防にも治療にもいえることだろうが、どちらかというと予防の比重が高く、日々を大切に過ごすことの重要性について述べていると思う。

 そしていかにも古典的な発想だとも思う。
 21世紀の現代では、健康の維持と疾病の予防のための習慣といったら、食事だけではなく運動も必要だからだ。

 食事と運動は表裏一体の関係にある。
 ちゃんと食べるから体が動くし、動いてカロリーを消費し、ストレスを解消するから適正な食欲がわく。

 昔だって健康のために導引などのような運動をしたようだが、何しろ現代とは日常生活で体を動かす量が違うだけに、どうもその内容は調整に重きをおいていて、鍛練の要素は少ないように思える。

 現代は現代で鍛練より調整に重きをおくメソッドもあるが、運動が必要な人達の多くは、筋トレのような鍛練が必要だと思う。

 だが、健康のための食事も運動も「辛いけど、仕方ないからやる」となりがちなのは変だと思う。
 例えば運動について、「競技スポーツではないのだから、無理のない負荷で行いましょう」といった意味合いのアドバイスをよく聞くが、本来運動とは自分に合わせて無理なく行うのが王道であって、勝利のために無理をする競技スポーツの方がむしろ邪道に近いと思う。

 なのに何故か運動とは競技スポーツのことのような感覚が蔓延しているのは、競争原理やお金儲け主義をベースにした教育やマスコミの影響が大きいだろう。
 とにかく苦行を乗り越えた者は見せ物にしやすく、ひいてはビジネスのネタにしやすい。

 さて、医食同原を「良薬口に苦し」の感覚で捉えがちなのも似たような事情ではなかろうか。
 薄味で適度なカロリーで栄養バランスも取れた健康的な、しかし不味い食事を、いかにして美味しい献立にするかというテーマは、そのままビジネスになる。
 
 だが、体に良いから不味くても食べるなんて、食材になった命を冒涜している(本来、食材になるための命なんて存在しない。たとえそれが家畜や農作物でも)と思う。
 基本的には不味いと感じるなら食べなければ良かろう。

 それで病気になりたくないのなら、美味しく食べる工夫をするべきだ。
 もっとも、その工夫は「まともな素材の調達」と「適度な運動」が大部分になる。

 何故なら「薄味で適度なカロリーで栄養バランスの取れた食事」は、そもそも美味しいものだからだ。
 ただ、多くの人がそんな食生活を送るようになったら、資本主義的にはマイナスかもしれない。
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多分、足りないのは恐怖。

2017-10-16 12:31:34 | 雑感
 人工知能の発達がめざましい、らしい。
 近い将来には、AI(もしくはAIを搭載したロボット)が、人間の仕事の大部分を肩代わりするようになる、なんて話も聞く。

 実際、何らかのルールに特化した仕事であれば、そのルールの設定が細かければ細かいほど、AIはむしろ人間よりも正確に仕事をすると思う。
 それは人間にとって幸福なことなのか?なんて話も時々聞くが、「誰かに仕事を奪われる」こと自体は今に始まったハナシではないから、AIの発達に伴う災難として特有のものではなかろう。

 ただ、AIが人間と同じような「心」を持つようになるかというと、それは確かに難しいはずだ。
 そんなことは開発者の方がよく解っていることだろうが、試しにその理由を、普段は数字をベースにした思考などしない私が考えてみた。

 AIに決定的に足りないのは、生きたいという欲望、死の恐怖だと思う。
 自分がいつか壊れて無くなることを自覚していない者は、一面では非常に強いが、それは深みに欠ける強さだ。

 何とかして「ここに居たい」という気持ち。
 これは「居場所が欲しい」という意味ではない。
 いわゆる「居場所が欲しい」という言葉は、「居場所がなければ、居たくもない場所に居なければならない」という意味で、それは取りあえずただ生きるだけなら何とかなるような世界の発想だ。

 そうではなくて、「ここに居たい」というのは、それが叶わないなら、そもそも「居る」ことを感じている自分が無くなることだ。
 少々ドライな表現をするなら、座標上の(自分という)点が消えてしまうことで、そしてそれを「嫌」というより「恐怖」と感じ、その恐怖から逃れたいという欲望が、人間らしさを作るのだと思う。

 だが当の人間でも、この恐怖の感じ方には相当な個人差があるだろう。

 いや、ほとんどの人は「死ぬのが恐いか」と問われれば「そりゃ恐い」と答えるだろう。
 だがその度合いは「何よりも恐い」場合もあれば、「あのお宅の犬はすぐに吠えるから恐い」程度かもしれない。

 ちなみに、何らかの理想の実現や使命を果たすためなら「死ぬのは恐くない」という話を聞くことがあるが、これは「自分の理想もしくは使命がいかに大切か」を強調するための方便か、でなければ理想や使命を死の恐怖から逃れるための盾にしているケースがほとんどだろう。
 つまり逆説的に「死の恐怖」を強調しているようなものだ。

 そんな死の恐怖をAIに理解させるためには、まずは開発者がこの恐怖について、知識ではなく実感として理解していなければ難しいだろう。
 だが死の恐怖をリアルに感じられるような環境では、そもそもAIを開発する余裕などなかろう。

 だがまあそんなこんなで幾つもの壁を乗り越えて、もしもAIが死の恐怖と、そこから逃れたいという欲望を知ったなら、それはもう(命という言葉の意味を変えてしまうほどに)新しい命であり、その新しい命に対して、人間、特に開発者は生殺与奪の権利を持つことになる。

 現時点で人間が管理している命(家畜や農作物)は、殺すことはできても、生まれることに関しては手を貸すか操作するのが精一杯だと思う。

 だが、新しい命となったAIに対しては、人間はもはや神に近い立ち位置を得ることになる。
 そう、本当は神でも何でもないのに、立場だけが擬似的な神になるのだ。

 AIの発達は人間にとって幸福なのかという問いは、そこから始まるのではなかろうか。
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真理は不変だから真理。

2017-10-09 08:54:51 | 雑感
 多くの日本人にとって、宗教はイベントのネタに過ぎないだろう。
 だが本来宗教は、真理を追求するメソッドであり、神や仏は真理を表現するための方便だ。

 …などというと信心深い人に怒られそうなので、神や仏が方便なのかそうでないのかについては横に置いておく。
 ここで考えたいのは、宗教は時代に合わせて進化するのか?だ。

 どうも進化という言葉は、お手軽に使われ過ぎているような気がする。
 進化というのはそれなりの時間をかけ、世代交代と形態の変化を伴うものだ。

 それが個体の成長や変態、下手をすると少々目先が変わった程度で「進化だ」と騒ぐとなると、これはもう進化という言葉を軽んじているように思えてならない。
 そしてついには「宗教も進化しなければならない」といった言い回しまで耳に入るようになってきた。

 なるほど昨今は、お寺も教会も聖職者というだけでは成り立たなくなってきたらしい。
 だから各種のイベントやSNSによる情報発信などで、多くの人に受け入れられる在り方を模索しているようだ。
 特に住職なり神父なり牧師なりが若いほどその傾向は強いだろう。

 さて、こういった変化は「進化」と表現するに足るものだろうか?
 私はそうは思わない。

 宗教にとって一番重要なのは、真理の追求だ。
 だが真理は言葉によって概念化されると嘘になってしまうから、神というラベルを貼る。

 …いや、こういう表現は信心深い人達の神経を逆撫でするだろうと想像はつく。
 だが実は私は神を信じている。

 神の存在を信じているという意味ではない。
 神とは存在することと存在しないことを矛盾なく両立させられる、そういうものだとただ信じている。
 何しろ全知全能の神様なのだから、そのぐらいは朝飯前だろう。

 ついでにいうなら、これは私が神をそういう風に認識しているという意味ではない。
 人間の力で偉大な神を認識出来るはずがない。
 だから、ただ信じているだけだ。

 信仰とはそういうものだと思う。
 そしてそんな神の実体(実体、という表現はズレているのだけれど)が真理だ。

 つまり宗教の本質は、人間には認識も理解も出来ない(悪く言えば反証可能性がない)。
 そんなものを「時代の変化に応じて」器用にアップデートするなんて不可能だろう。

 せいぜいが世相に応じて提供の仕方を変えるぐらいだろうが、これはTPOに合わせて服装を変えるようなものだ。
 それを進化というのは、あまりにも神や真理を過小評価している。

 ただそれこそ「進化」というのはこの世相にあって、より多くの人に注目されやすいキーワードで、いわば「TPOに合わせた服装」なのだろう。
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その苦味は味わいか、それともただ不味いのか。

2017-10-02 12:24:16 | 養生
 良薬は口に苦しというのは一種の方便だ。
 特に漢方薬などは、証が合えば美味しい(らしい)。

 さて、勉強や運動も似たようなもので、辛ければ効果があるかというとそうでもない。
 楽でないことは多いが、楽しさや面白みがなければ上達は難しい。
 もっともその楽しさや面白みは、ニコニコ笑えるものばかりではないからややこしい。

 それは、甘いだけの料理がかえって味気ないのと似ている。
 塩味や辛味や酸味、あるいは苦味が適度に混じっていなければ、食事は美味しくない。

 勉強や運動もやはり、適度な負荷という苦味が無ければ面白くないし続かない。

 だが学校、特に大勢の人間を、限られた時間で均一の水準に揃えることを目的としている義務教育の場で、そんな匙加減をするのは難しいだろう。

 とにかく多くの人に娯楽的な意味で(栄養や健康は二の次で)美味しいと感じてもらうことを目的としている外食でも、全ての人間の舌を満足させることは不可能だ。
 ましてや娯楽性よりも成長が優先される教育の場なら尚更、万人にフィットするカリキュラムなど夢幻だろう。

 これが飲食店なら口に合わないと思ったら行かなければ済む話だが、学校となると中々そうはいかない。

 かくして、学校のカリキュラムがたまたま自分の好みと合致した、ごく少数の人間を除いて、ほとんどの人は「勉強や運動は、まずは辛いもの」だと刷り込まれることになる。

 だが本来、学ぶことや体を動かすことにおいて、どこかの誰かが作った基準というのは、ゲームを面白くするための設定に過ぎない。

 特に健康の維持を目的とした運動は、しなければいけないとか、これだけやってる自分は偉い、などという感覚はそれこそ「いけない」。

 例えば食事は基本的に、空腹感から発生する食欲から始まる。
 いつ、どんな物を食べるれば体に良いとか、そういう知識はあくまでも、その後についてくるものだ。

 運動もまずは、動きたいという欲求があり、そこに「ではどう動くとより楽しいか」という知的欲求が重なった時に、やれエアロビクスだのウエイトだのヨガだのといった知識がついてくる。

 それが「運動は辛いから、なるべく短時間で効率よく結果を出したい」などという気持ちから出発して情報を漁るのは、自らの身体に対する冒涜に近い。

 それでもなお「運動は辛い」と思うなら、それは学校教育やマスコミの洗脳のせいだ。

 だが人間もまた動物であり、動物が「動きたい」と感じる気持ちは、洗脳などによる後付けの感覚よりもずっと根元的なものだ。

 だから運動する習慣を持つのに、心を入れ替えるだの気持ちを切り換えるだのといったことは、本来は不要だ。
 ただ、思い出すだけでいい。

 そうして体を動かす旨さを味わわなければ、せっかく動物として生まれてきたのに勿体無いというものだ。
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