地道に養生。

養生とは、技術ではない。何の変哲もなく、ただ生きていく。そんな生き方そのものだと思う。

無心かもしれないが、無神ではない。

2017-03-06 12:43:54 | 雑感
 マインドフルネスは、知的で健全なエクササイズとして静かに認知度を高めつつある。

 このマインドフルネスは、禅宗の思想をベースにした上で、余計な?宗教色を除き、あくまでも合理的・効率的に「今、現在に集中」するための瞑想の手順を整理したものだ。
 その過程では心身と向き合うことが必須になるわけだが、その向き合い方にどう取り組むかで、色々なスタイルに派生しているようだ。

 まあその気になれば、ランニングやウエイトトレーニングだって瞑想になるのだから、流儀が増えるのも道理か。

 だが特に日本においてマインドフルネスの何がウケているかというと、なんといっても建前としては「宗教的な要素を除いている」からだろう。
 だからこそ、あくまでも「知的で健全なエクササイズ」足りうるし、潜在能力開発といったような神秘的極まりない効果を望む本音の隠れ蓑にもなる。
 まったく人間とは現金なものだ。
 だが本当にマインドフルネスは、宗教とは無縁なのだろうか?

 マインドフルネスを始めた西洋社会には、もともとキリスト教のベースがある。
 まあ正直いって先進国ほど、宗教の持つ非合理的・オカルト的な側面に眉をひそめる傾向があるとは感じる。
 が、唯一の絶対神を通して自らの良心に問いかける習慣は、そう簡単には消えないとも思う。
 ここでは一神教と多神教のどちらが正しいとか、そういったことは問題ではない。
 彼の地の人々は合理主義を標榜しつつも、目に見えない世界があるということを、軽薄な流行り廃りではなく、長い時間をかけて積み上げた文化的な土壌の上に立って受け入れているということだ。
 そうでなければ瞑想という行為に真摯に取り組むことは不可能だろう。
 何故なら瞑想から宗教的な要素を消すこともまた、不可能だからだ。

 よく瞑想は自分の内面を掘り下げていく作業だといわれるが、実際にやってみると、それが一種の方便だとわかる。
 心身と向き合う意識の方向に内も外もない。
 その混沌の中で神を感じずにいるのは困難だ。
 これは別に変性意識やゾーンや三昧の類いではない。
 私はそういうものを望んではいないし、経験したこともない。

 それはまぁ西洋人の中にも、浅薄な東洋趣味で瞑想をかじる面々がいるにはいるだろう。
 だが取っ掛かりはどうあれ、続けている内に瞑想の本質にたどり着く可能性は案外高いのではなかろうか。

 いや、西洋人の瞑想への取り組み方は、どうもビジネススキルの一環であるかのような印象もあるのだが、それは日本のマスコミが解りやすさとウケを優先したためではないかという気がする。

 少なくとも21世紀以降の40代以下の平均的日本人よりは、キリスト教文化に浸かった西洋人の方が、瞑想の才能があるのではなかろうか。
 それぐらい、思考のベースに宗教が根を下ろしていることは、瞑想に関しては大きなアドバンテージになると思う。
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