それでも永山則夫が好きだ

死刑制度なんて廃止するのは当たり前、という前提で、永山則夫についてあれこれ書いたブログ

『不幸な生い立ち』は、減刑の理由にならない?永山の兄姉は立派に成人している?

2019-06-02 16:02:02 | 不幸な生い立ちは理由にならない?永山の兄姉は立派に成人している?

永山則夫の知識がある程度ついた方々から、一審判決文中の、「生育歴に同情すべき点はあるが、同じ条件下に育った兄弟たちは、おおむね普通の市民生活を送っている」…について…ツッコミを入れられることが多いです。ですので、永山の兄姉妹姪たちは、本当にまともに成人し、社会人になったのか?ということが書かれている部分を下に抜粋します。

永山、家族、年齢

 

永山則夫 封印された鑑定記録
堀川 惠子
岩波書店
2013-02-28



 

その後、永山の兄姉たちが、最高裁判決が言うように立派に成人したかどうか簡単にふれておく。立派かどうかという判断は極めて主観的なものであり、ここでは可能な範囲で事実を羅列するに留める。

長男は、すでに述べてきたように、永山が逮捕される前年、詐欺罪で逮捕された。宇都宮刑務所に服役した後、出所してからは板柳町に一度も戻っていない。

次男は、永山が逮捕された後も、稼ぎのある女性を乗り換えながらパチンコ三昧の日々を送った。競馬でも借金を重ね、暴力団関係者の手先として動いたこともあったが、逮捕はされていない。その日暮らしの生活に限界が来て、再びトラックやタクシーの運転手として働く。しかし、どの仕事も長続きしなかったという。白タクで稼いでいるらしいというのが次男に関する最後の証言である。その頃には仲の良かった三男が住民票を探して追いかけても一切、連絡がとれなくなっていた。川崎市内の路上で倒れているのを病院に運ばれた時には、すでに末期がんを患っていて、間もなく誰にも看取られることなく亡くなった。42歳だった。

永山事件の前に離婚した三女は、遊楽賞のバーでホステスとして働いていた。一時は証券マンの愛人として暮らすが、その後、北関東にある雀荘のおかみとなる。「青森」や「永山」という文字が自分の戸籍に掲載されることを嫌い、三男に頼んで住民票を三男の家に入れてもらったりしたが、以後、連絡はとれなくなったという。

出版社勤めを続けていた三男は、事件から五年後に結婚し、子どもを授かった。
「息子が則夫に似ているんだ」と知人に漏らしている。
その後、故郷の友人から、母ヨシが寝たきりになっていることを知らされ、何度か迎えに行こうとした。しかし、どうしても上野駅から先に足を進めることが出来なかったという。この事について三男は、「私の身体がそのぐらい潜在的に母を恨んでいるのでしょう。母のことは、一人のにんげんとして見た場合たまらなく哀れな女の人だったなと思いますね」と語っている。

三男は昭和60年(1985年)、40歳になった時、兄姉の中でただ一人、永山の裁判に情状証人として証言に立った。死刑という結論はすでに見えていた法廷で、三男は次のように語った。

「最初のうちは早く死んでくれ、早く処刑されてくれと、それが本音でした。ですが最近、新聞でたまに、少し太った大人になった弟の写真を見ると、やはりすぐ上の兄ですから、会いたいなというのが今の真実の気持ですね」

この証言を最後に、三男は出版社を退職。永山姓を棄てて妻の姓となり、周囲との連絡を絶った。

名古屋で針子をしていた四女は、永山の事件から五年後、母が倒れたとの報せを受けて青森に呼び戻される。そして、弘前市内で看護師見習いとして働き始めた。23歳の時、望まない妊娠をしてしまい、未婚のまま男児を出産。バーのホステスとして働きながら、借金を重ねて転職を繰り返した。結局、青森には帰ったものの母の世話は一度もしていない。子供を産んだ後、名古屋に住む三男の家を訪ね、「離婚したので子どもを預かってほしい」と頼むも断られている。暫くして心の病を発病し、入院。子どもは乳児院に預けられた。

一緒に育った姪は、埼玉県にある工場に集団就職し、結婚する。その後離婚し、相談をしに行った次男の手によって置屋に売られてしまう。その店から、三男が勤めていた出版社に一度だけ電話をかけてきたというが、それを最後に行方不明のままである。彼らの誰ひとり、年老いた母のいる板柳へは戻ってこなかった。

堀川惠子著《永山則夫 封印された鑑定記録》P.318より抜粋


 【管理人の主観】
というか、永山氏の兄弟姉妹が社長や官僚になっていたとしても、死刑には反対ですけどね。

 



 



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