長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
日々感じること、
昭和から平成ひとケタ時代の街かどでの
想い出話などを紡いでいきます。

宗論

2017年07月17日 17時07分50秒 | お知らせ
 ♪一日に一字学べば 一年で三百六十字の教え…
 菅原伝授手習鑑、若君・菅秀才のセリフ。義太夫をかじったことのある方は、最初の手習いに「一字千金二千金、三千世界の宝ぞと…」から始まる寺入りの段から教わったことが多いのではないでしょうか。

 一年イコール360日なのは、旧暦の時代に誕生したお芝居だからですね。
 子どもたちが寺子屋でお習字している。読み書きソロバン、世の中の即戦力となる、実践に重きを置いた教育法です。地道な日常生活をする大人になることを旨としていた学習の様子を覗いてみるべく、そのまま浄瑠璃を聞き進めていきますと…

 年端のゆかない子は「いろはに…」、昔の五十音、あいうえお…からまず覚えます。当節、物事の基本を表す「いろはのい」という表現も聞かなくなって久しいですね。
 もちょっと歳がゆくと「このじゅうはおんひとくだされ」、口入屋さんに奉公人を世話してくださいというお願いの手紙を書くときの文例のお稽古、
 「いっぴつけいじょう、そろべく」…などなど、現代と全く同じ、商家に奉公した際のビジネスレターの書き方、というものですね。

 さて、実は私が寺子屋教育で一番カルチャーショックを受けたことは何だったかと申しますと、子供たちが最初に覚える書体は《草書体》、これでした。
 実践です。…すごいな、促成栽培教育というやつ。
 物事の基礎は基本から学ぼう、ということで、楷書体から学ぶのが昭和時代のお習字でした。教養と文化を重視した、丁寧な育て方です。
 一方、促成栽培とはいえど、彼らはキチンと、草書体の型から学んでいたのですね。

 基本を学んだことのないものが書くのは出鱈目。
 ヘタウマ、という言葉が平成になって定着し、それまでの基準からするとあり得ない看板字を目にするようになって久しいですが、見苦しいものです。あれがすべてを凌駕するようになって街はますます貧相になりました。
 型がしっかり習得できているうえでそこから新しいことをするのが《型破り》、何も下地がないところで己の感性を信じて…みたいな何の裏付けもない不思議な自信の下、出鱈目をやるのが《形無し》…歌舞伎の芸談をうかがうとよく耳にしたお言葉でした。

 今や世の中、鉄面皮な出鱈目が天下をまかり通っておりますね。

 そいえば達筆の余り判読できない場合、よくその筋に心得のある方々にお知恵を拝借しておりました。崩し字辞典のお世話にならずに、身近にそういう方々がたくさんいらしたのが豊饒な世界というものでしたでしょう。
 寅さんの妹・さくらの婿、ヒロシ氏は活版印刷の時代の印刷工です。活字をひろう文選工という熟練の職業がありました。職能のある人イコール職人がそこら辺中にゴロゴロしていたのが人的資本が豊かだった時代の日本なのでした。
 
 昭和の子供は、古典芸能、伝統芸能を草書体イコール二次創作、パロディ作品から学んで身近なものと感じていました。
 宗論は、もともと狂言ですが、大正期に誕生した落語の宗論は、狂言のパロディです。時代を反映して仏教内部抗争ではなく、仏教と外来種であるキリスト教徒との小競り合いになっています。当代・圓楽師匠が楽太郎時代、よくかけてらっしゃいました。青学出身という素地を生かした高座でした。
 さて、歌舞伎の連獅子。間狂言が宗論です。

 …そんなお話を基本に触れつつしてみようかな、と思っております。
 そして、連獅子の一節をご一緒に唄ったり弾いたり…どの部分かはご参加の皆さまの面子によって…おたのしみに。

 第2回観余会の夕べ テーマ「連獅子」7月23日日曜日 夕方4時より1時間程度 下北沢稽古場にて 
           あらかじめご連絡くださいませ。参加費は2千円です。
 三味線を弾いたことがある方もない方も、長唄を唄ったことがある方もない方も、歌舞伎を見たことがある方もない方も、能・狂言を見たことがある方もない方も、落語を聴いたことがある方もない方も…いずれもさまもご参加なされてお愉しみいただけますよう頑張ります。
 お気軽にお越しくださいませ。
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違った未来

2017年06月28日 23時23分50秒 | 折々の情景
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いかにの茶碗

2017年06月11日 23時55分55秒 | 折々の情景
 あるとき私は、大切にし過ぎないように普段使いできて、でもそれなりに愛着のわく、デコラティブではないけど機能的な、かといってそれほど素っ気ないデザインではなく、そして飲みやすいよう碗口が薄手で取っ手の持ち具合もバランスのよくとれた、かつ今でいうコストパフォーマンスのある程度ある、コーヒー茶碗を探していた。
 たぶん、昭和60年前後のことだったと思う。
 世の中は景気がよかった。平日のまだ浅い午後だったか、そんな微妙な時間帯の郊外型量販店ではあったが、店内はハッピーライフな空気感に満ちていた。客はまばらであったが、品物は豊富にあって、上記のような様々な条件を満たす候補品にあふれかえっていた。日用品の茶碗売り場(大きく食器というのではなく、である)に、常の展示棚とは別に、畳一畳分ほどの平台が六つほども置かれていただろうか、その平台毎に物凄くたくさんの瀬戸物、陶磁器類が置かれていて、私はあれこれ…いま思えばなんという贅沢な時代だったか(と感じるほどに現日本は文化的に没落した)…迷っていた。
 
 そのときである。
 「…やだ! ボクはこれが欲しいの!!」
 白昼の平穏を切り裂く子どもの叫び。二つほど向こうの平台で、親子連れが争う声が聞こえた。
 茶碗売り場には、私と、三間ほども離れたその未就学児童である男の子とそのお母さん、堆く積まれた数知れぬ無言の茶碗の群れしかいなかった。
 自分の茶碗を探しながら、聴くとはなしにわが耳に飛び込んでくる親子の会話。
 「駄目よ、そんなの、全然子どもらしくないじゃない。子どもはこういうのを買うのよ」
 どうやらお母さんの推奨する茶碗が、その男の子の気に入らないらしかった。
 「やだ、そんなの! これがいいの!! このきれいなのが欲しいの!」

 そこまで主張するに値する、いったいどんな茶碗が欲しいというのだろう、遠目でちらと見たところ、極彩色で彩られた、どうやら九谷の茶碗らしかった。
 「ダメです、こっちから選びなさい! ほらこれとかいいじゃないの、キン肉マンがいるよ、○○ちゃん、好きじゃないの」
 北斗の拳だかドラゴンボールだか忘れたけれど、男の子のご贔屓のアニメキャラで釣ろうとするお母さんの懸命の説得をよそに、男の子は頑として、絶対これが欲しい、これでなきゃイヤだ!と泣き叫ぶ身の構えだ。

 あの頃は、たぶん子どもの茶碗が一つ300円ぐらいで買えた。プリント彩色だったとは思うが。
 九谷っぽい彩色や有田の普段使いなら1200円も出せば、結構素敵な茶碗も手に入ったように記憶している。
 たかが子どもの茶碗、されど、日常使う子どもの茶碗である。日に三度、目にし手にする茶碗である。

 際限なく繰り広げられるドメスティック修羅場の顛末を見届けることなく、私は気に入った茶碗が見つかったので、彼らが気になりつつもお勘定場へ去った。
 あの子は、自分が気に入った茶碗を買ってもらえたのだろうか。
 どんな大人に育ったのだろう、元気ならもう三十代半ばにはなっているはずである。

 …子ども向けのものとはいったいどうあるべきなのか、と、思いを廻らすたび、あの茶碗売り場の一情景を想い出す。

 そして、将来商売になるか、ご飯を食べてゆけるのか…とかそんな狭い目先のことじゃなく、深く生涯の心の愉しみ、一つの価値観を培っていく心の糧として、平生、伝統文化に触れてほしいものである。
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観劇の余韻倶楽部、はじめました。

2017年06月06日 16時16分16秒 | お知らせ
 《かわいいコックさん》の絵を描かなくなって幾とせ。
 新暦なれど、本年もまた廻ってまいりました、6月6日。

 今年は気持ちを新たにして、皆さまの好奇心を満たしつつ、愉しんでいただける三味線講座はどのようなものであろう…と捻っておりましたところ、ハタと思いつきました。
 …というのは、常日頃、世の移り変わりを嘆くばかりでなく、何がどう移り変わったのかをのちの世の方々に指し示さなくては、絶滅してゆく種族として怠慢なんじゃなかろかと。

 現在の劇界を鑑みるに…いえ、日常生活社会全般、スタンダードなものが廃れつつあります。
 平和だったは、たった半世紀。あの楽しかった昭和後期から21世紀初頭における文化的スタンダードとは何だったのか。

 まず身近で自分がよく知っている事柄からお伝えしなくては。
 それならば、歌舞伎です。自分が当たり前だと思っていた事柄は、いまや全くマイナーなことになっておりました。
 
 新しく伝統芸能や古典を知りたい皆さま、現在だけでは飽き足らない皆さまに、ついちょっとこの前まで存在していたのに無くなってしまった物事の残像を、お伝えしたく思います。

 【観劇余韻倶楽部:カンゲキの余韻club】略して、観余会。
 お芝居を観てカンゲキした!その余韻に浸りつつ、自分が見たものは何だったのか、改めて確認したい、あっという間に耳を通り過ぎていった劇中の音楽を知りたい、また、初めて歌舞伎や文楽、落語を観に行くのだけれど、気軽に予習がしたい…と思っていらっしゃる方々へ。
 歌舞伎と劇中に使われている音曲を解説し、その曲を弾けるようにお教えする、レクチャー&実技のmix講座です。
 毎月1回開催します。テーマはその月に上演されている歌舞伎の中から1演目を選びます。
 ‐ing形の伝統芸能と親しむ、クラブ活動です。

 詳しくは、杵屋徳桜の長唄三味線教室「三味っちゃおぅ!」http://shami-ciao.com をご覧くださいませ。
  • 杵屋徳桜の長唄三味線教室


  •  初回は、今月上演中の名古屋平成中村座『弁天娘女男白浪(べんてんむすめめをのしらなみ)』をひきまして、白浪五人男を予定しております。
     観劇のオシャレ、着物のことについてもお話しします。
     
     

     
     
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    変容・相撲篇

    2017年05月05日 08時00分15秒 | マイノリティーな、レポート
     これも一種の、振られて帰る果報者というべきか…幸いにしてlive放送は生業に精を出している時間帯なので、ミラクルの応酬に心が千々に乱れ疲労困憊するという憂き目に合わずに済んだのですが、その大相撲が昭和のころと違うなぁ、と、気づいたのは我が心のエストレリータ(むしろ大きい?)稀勢の里が負傷した時の話。
     SNSで恐ろしいほどの様々な意見を目にした私のアンテナについと引っかかったことば、

     「相撲は格闘技だから、ケガしても仕方ない」…これです。
     
     ずいぶん以前に本稿「無意識下のアイドル」で私の角界に対する何気ない情愛について述べましたが、これまた全くもっての私見で申し述べますれば…

     まず、相撲は、格闘技じゃありません。

     相撲が興行として盛んになった江戸時代、横綱の張り手がすごくて目玉が飛び出しちゃった力士もいたという凄惨な場面もあったようですが、歌舞伎や文楽をご覧の皆さんはご存知のように、当時の相撲は女子供は見に入れませんでした。
     しかし、テレビ放送が導入された戦後の相撲は、そうじゃなかった。
     茶の間で女子供が安心して見られた。ぬるいとかそういうことじゃなくて、穏やかであるけれども、手に汗握る取組みの世界でした。四十八手、技を競う闘いです。少なくとも昭和に生まれ昭和に育った者はそう思ってました。

     そして極め付け、ケガをさせちゃうように取ったんでは、相撲じゃないんです。
     相手に怪我をさせちゃいけないんです。それが相撲の精神です。

     むかーし、文化人類学の授業か何かで、先生から伺ったお話。
     日本人というのは、大陸で繰り広げられる、殺伐とした争いばかりの世界が、ああ、もういやだ~~と、舟で漕ぎだして逃げ出して来た人たちが寄り集まったのだ、と、そんな話を聞いたことがあります。 
     そして、この、決して肥沃とはいえない、自然の驚異の厳しい島国で、細々と生活を始めたそうな。

     究極の選択。自分たちのくふうや才覚だけでは除けきれない同じ災害のうち、日本人は人災よりも天災を選んだ。もはや人間ではない獣が本能を剝きだして闘う修羅場よりも、自然界の予測できない営みを甘んじて受ける道に活路を見出した。
     むかし、大映のシリーズ時代劇だった「大魔神」。人民を虐げる暴君イコール人災を、火山や揺れる大地を象徴する荒ぶる神の具象化イコール天災によって解決してもらうという、日本列島に暮らす無力な民草の祈りのようなものの存在。

     ガチで、という言葉は平成になってから出てきたスラングの成長形で、本気でという意味が、手段を選ばず相手をコテンパンにやっつけるという、別な意味に取り違えられているように思います。
     「どうしても勝ちたくて、ついやってしまった」というのは、闘いの本職さんの発想ではない。ルール違反です。
     卑怯、未練…という自分の中の弱い気持ちに打ち勝つ精神性こそが尊い、というのが、日本における勝負の基本なのです。
     
     自分自身の矜持との戦いです。その世界で一番偉い人は…大相撲で言えば横綱は、そんなみっともないことをしてはいけないのだ…という心意気が大切だったのが、昭和の価値観でした。道に外れたものを罵る、没義道(もぎどう)という言葉だってありました。…死語かな。
     そいえば、武士は相身互い、という言葉も死語だったと、つい先日知りました。

     一般社会において自分さえ勝てれば相手がどうなっても構わないという、乱暴な考え方を許容するようになったのは、たぶんストリートファイターとか何とかいう、格闘ゲームが子供たちに流行ったころから…平成に替わったあたりからだったでしょうか。
     なんだか、ローマ帝国が版図を誇った時代、いろんな国から奴隷を連れてきて、生死を賭けて戦わせた、そんなデスゲームとかぶってしまって、格差社会を当たり前のものとして、同じ人間なのに殺し合いをさせて見世物として興じている、そんな、野蛮な人間に自分が成り下がったような気がして、見ているのが嫌な感じになってくるのでした。

     そんなわけで、相撲は格闘技と違う。痩せさせてダメージを少なくするボクシングとは全く異なる発想で、相撲は自分を肥大化させることによって、損傷緩和となる道を編み出した。治療法なのであろうけれども、玉の肌で土俵に上がる力士がテーピングだらけというのは美しくない。
     利潤第一で世の中が押し切られて、形のない精神性を美しいと感じる価値観はもう今の世では廃れたのかもしれないけれども。
     日本の文化はもろいものでできているのですね。
     もっと丁寧に育てないと、変容していくのでしょう。
     それが歴史というものなのでしょうけれども、惜しいことだと思いました。
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    杏壇

    2017年03月31日 13時14分15秒 | 旧地名フェチ


     新年早々、背に腹は代えられぬ仔細があって、20年以上も契約してきた携帯会社を替えることになった。汎用タイプの道具は代えが利くから仕方ない。
     しかし、日本という北半球のガラパゴス生態系の中でも特にガラパゴス化してしまった私には、この新しい道具には痛痒しか感じない。パタパタンと半分に折れてプッシュボタンもあって、一見ガラケーだが、画面を押しても使えるスマフォである、というニューフェイスは、片手で操作できる、という秀逸な特徴を残して魅力であるが、その分、痒いところに手が届かないのだった。
     ことにカメラ。ただ写すだけで何の設定もできない。これではピンホールカメラではないか、原始的な。泣く泣く別れたシャープの愛機を思う。
     嗚呼、シャープ。なんという優れたメーカーであったことか。ワープロ時代、『書院』という素晴らしい日本語変換機能を備えた道具の製造販売元であった。道具は使う者の身に沿って、初めて道具たり得るのだ。今の商売第一主義は何たること。使う者が使う物に合わせなくてはならず不自由することを強要する、不遜な考えなのだ。
     
     そんなわけで気の利いた写真が撮れず、そうだ、文章を書いてる時間がなければ写真を載せればいいじゃない!…という安直な発想を、折々の情景というカテゴリに目論んでもみたのだが、早々に挫折した。
     表題は、ちょっとピンボケ…どころか、かなりピンボケな、彼岸の、昌平黌の情景である。

     しょうへいこう…!! なんと心ときめく名称であろう。幕末に旗本の家に生まれていたら絶対通いたかった、お玉が池の千葉道場と同等…いや、文系の私には、それよりもっと憧れの昌平黌。
     もう梅はこぼれてしまったし、まだ桜には早いし…いったい何の花だろうと近寄ったら、驚くまいことか、アンズの花の花盛りなのだった。梅に鶯、竹に虎、孔子廟には杏、の本寸法。
     
     なんの思うところもなく気の向くまま、うららかな日差しを浴びながら今では湯島の聖堂と呼ばれるこの場所へ、二十数年ぶりに参ったのは、先述の観梅の心を引きずってのこともあったのかもしれない。
     関東大震災であらかたが焼失したという、維新以降の有為転変の世の中を、ことごとく体現してしまったようなこの場所の不遇は、ぼんやりととりとめもなく咲き乱れる、薄紫の花ダイコンがはびこっている廟内の庭からもうかがい知れた。
     花大根を、オオアラセイトウと表記したほうがカッコいいけれども、その花容にそぐわない。…そうだ、別名・諸葛采で呼ぶと、ぐっとこの場所には似合うのかもしれない。

     大成殿に、面白い道具が展示されていた。「宥座の器」。
     銅(あかがね)製の手のひらぐらいの寸法の壺が、ブランコのように、二本の鎖で中空に吊られている。
     孔子の教えを改めて実感できるよう、見物者が水を入れて実験できるようになっている。
     以下、殿内の解説にあった荀子の『宥座篇』から引用の一文を写す。

    「…虚なればすなわち傾き、中なればすなわち正しく、満つればすなわち覆る…」
     中庸の徳、謙虚の徳を説いたものだそうである。

     …そいえば信長くんの行く末を、安国寺恵瓊が「高転びに、仰のけに転ぶ」だろう、とか言ってたっけなぁ、藤原道長も満月が好きすぎたよなぁ…などと、胸に去来した次第。


     
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    トウの立たぬ間に。

    2017年03月08日 11時39分39秒 | 折々の情景
     ふきのとう、をいただいた。
     ご自宅のお庭に生えていた、とおっしゃるのだけれど、毎年時機を逃して、気が付くと育ってしまっているので、今年はまだかまだか、と見張っていたそうなのである。
     有難いことである。
     さっそく、蕗味噌をこしらえた。
     蓋物は、これまた以前頂戴した錦松梅の、空いた陶器である。
     
     蓋を開けるごとに、ほろ苦くも清々とした蕗の薹の香りがして、うれしくて何度も開けたり閉じたりしている。

     いろいろな方々のご厚意に深く感謝しつつ、そろそろご飯の時間にいたします。
     ありがとうございます。
     
     
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    伝統長唄伝承の会

    2017年02月03日 23時02分00秒 | お知らせ
     ひのととり(丁酉:ていゆう)の旧来のお正月も無事1月28日に明けまして、いよいよ立春。
     今年はことのほか、梅をめでたい気持ちがして、まだ四分ほどの梅林へ。
     光圀、佐橋紅、白滝枝垂れ、未開紅、開運、長寿、鶯隠し、白加賀、鹿児島紅、黒雲、見驚…etc、梅にもたくさんの種類がございまして、しべが伸びて満開のもの、ほころんだ笑みから清しき香の匂い立つもの、まだ星のごとき蕾が目にまぶしいもの、さまざまです。

     色とりどり、極彩色のにぎやかな花園ではなく、日本の静かな引き算の美。
     心洗われ、豊かな想いに満ち満ちて、私はひとけがないけれども、うららかな庭を後にしました。
      
     さて、このたび第6回を迎えます、長唄協会主催、伝統長唄伝承の会。
     3月6日(月)、日本橋蛎殻町の日本橋公会堂にて暮れ方5時半開演です。
      
     全六番のうち、二世杵屋勝三郎作曲『廓丹前(くるわたんぜん)』、三世今藤長十郎作曲『旅(たび)』に出演いたします。
     長唄の魅力を最大限に生かしたお囃子入りの演奏、意気と粋、はでやかさとつややかさ、溌溂とした清々しさ、しっとりしみじみとした情感、歌詞に織り込まれた言葉の妙味…etc.
     これまた一口では言い尽くされぬ三味線音楽の愉しさを、皆さまにお伝えできるよう、鋭意精進いたします。

     全自由席で、入場料は3,000円です(徳桜も扱っておりますのでご一報くださいませ)。
     
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    深紅の帆

    2017年01月23日 04時56分00秒 | 美しきもの
     震える指で書かずにはいられない。
     稀勢の里が優勝したのである。

     「ぼろんぼろぼろぼろん勃嚕唵…」と数多の山伏、祈祷師が唱えた呪文よりも、霊験あらたかなる"稀勢の里優勝”このたった六文字が、ここ何年ものあいだ積もり積もった大相撲に対するもやもやを雲散霧消させ、私の魂は救われたのである。

     諦めようにも捨てきれない願い…これを人は悲願と呼ぶのだろうか、この日が来ることを信じていたわけではない。かなう日が本当に来るのだろうか、と疑わずにはいられないような状況が重なりながら、願わずにはいられない思い。
     いったい、それが現実になることがあるのだろうか…と幾度も諦め、しかし諦めきれずにいだき続けたこの思いが現実となって姿を現したときの、この心持ちたるや……なんと言うたらよかろやら…ついに、“深紅の帆”が目の前に現れたのだ。
     “深紅の帆”というのは、ロシアの小説家、アレクサンドル・グリンの短編名である。

     本と絵が好きな少女が抱かずにはいられない夢の一つに、絵本作家という職業があって、小学6年の春休み、神田明神での叔父の結婚式の帰り、後楽園球場で開かれていた大シベリア博でマンモスの氷漬けを見た私は、同会場のソビエト連邦(!)物産展で、美しいロシア語の絵本を手に入れたのだった。同じ日に初めて飲んだドクターペッパーの美味しさを忘れることはできない。
     その絵本を翻訳したいがため、春休みの間、田舎町の図書館に通ったのだが、結局何のことやらわからず仕舞いであった。その絵本のタイトルは、もはや覚えていない。

     それから何年かが過ぎ、その絵本をもう一度翻訳したいと思い、大学で第3外国語のロシア語を選択してしまったのだ。裏のコマの時間割に、教員の資格を取るには必修の講義があったのに、どうしてだか、1980年当時の一般的女学生の処世においては全く役に立たない(男女雇用機会均等法制定前夜の時代であった)…第1外国語の英語も、第2外国語のフランス語さえもおぼつかないというのに…教職を見返ってロシア語の授業を選んでしまったのだ。
     しかし、神様は我に味方した。他の学校から講師に来てくださっていたY先生は、若い時の三国連太郎とマルチェロ・マストロヤンニを足したような、複雑で独特な存在感のあるチャーミングな先生だったからである。
     Y先生は高校卒業後、いったん旋盤工の仕事に就いたが、思うところあって学校に入り直したそうだった。ある授業中、先生は黒板に文字を書こうとして後ろ向きになったが、シャツのポケットがその背中にあった。先生は後ろ前に丸首のシャツを着てらしたのである。クラスの男子がこっそり先生に耳打ちしに行った。途端に教室を出て廊下で着替えられたのち、すぐ戻ってきて「早く教えてくれよな」と顔を赤くして我々に訴えた。教室は明るい笑い声に包まれた。
     そのY先生が教えてくださったのが、アレクサンドル・グリンという作家の存在だった。

     ご存知のように、私は凝り性なのである。いくつになっても五十肩、という秀逸なCMの惹句をしばしば聞くようになったが、いくつになっても凝り性な人間は若い時も凝り性だったので、晶文社の翻訳本『波の上を駆ける女』だけでは飽き足らず、神保町のナウカ書店へ行き原書を求め、また古本屋をめぐり、どこだったかの版元の児童文学全集に入っていた『深紅の帆』までも探し求めたのである。

     もう三十数年前のこととて、あらすじの断片しか憶えていない。挿絵が美しかった。著名な画家だったが誰だったろう。残念ながら手許にその本はない。
     海沿いの寒村に住む少女は、村の人々に仲間外れにされながら、まだ見ぬ船長の父が深紅の帆を掲げた船で迎えに来てくれる、という亡き母の言葉を信じて暮らしている。
     それが本当にかなうことなのか、少女自身疑っているのかいないのか、そんなことは問題ではなく、ただ彼女はその事象が訪れるのを静かに待って暮らしているのだ。
     夢がかなう、かなえるためにアタシは旅に出るんだ!という明快な甘い雰囲気ではないので♪オーバー・ザ・レインボー…というお話とは本質的に違っていて、彼女は自分でその思いをかなえるすべを持たぬが、ひたすら諸事に耐えて待っている。
     やがて、海を見晴るかす岬に立つ彼女の目の前に、現実の深紅の帆が姿を現す…ただそれだけの話で、信ずるものは救われる、真実、純粋で真剣な人間を嗤うものは邪悪な脇役でしかない、という真っ直ぐなお話だった(ように記憶している)。

     この話に心が向くたび、高校の国語の教科書に「寒山拾得」の一文が載っていて、その時の自分には、起承転結、序破急という物語のツボを押さえることなく展開もしていかないこの掌編の存在の意味が分からなかった…そんなことも想い出す。

     抽象的な精神性を文章で具現化するには、細かい説明は要しないものなのかもしれない。
     アレクサンドル・グリンは、ストレートな熱を帯びてはいるが柔らかく清々しく、しかし熱く、透明で硬質的でありながら、ふうわりとして空に浮かぶ白玉のお団子にも似て(決して綿菓子ではない)とらえどころがないようで、確たる信念を感じさせる不思議な作風なのだった。

     渋谷のロゴスキーはもちろん、東京近郊の何軒かのロシア料理店を制覇したり、国営放送のロシア語講座に生徒として参加したり、「黒い瞳」を原語で歌えるようになったりしてその年は暮れていった。
     2年目に、先生はお忙しくなられて、外濠に面した学校に帰ってしまわれた。偶々同校にJK時代の仲のよい友達がいて、時間割を調べてもらい、土曜日の授業に潜り込んだ。
     5月の明るいある日、先生は、来週の授業の後、館山へハイキングに行こう…と誘ってくださった。私はとても嬉しくて、行きましょう!と答えた。…だが、行けないことはわかっていた。来週の土曜日は、私の結婚式だったのだ。

     それから2年ほど経って、ふたたび先生の研究室を訪った。先生は、本当にロシア語を勉強する気があるなら…と言って私にグラムシの原著のロシア語版と、日本語の評伝集を貸してくださった。
     次の週、外濠の北側にあった研究室へ向かうと、先生は不在で、お濠の反対側にあった本校舎では学生運動のデモ隊がアジっていた。しばらく待っていたら、息を切って先生が戻ってらした。どうやらデモに先生も参加しているのだった。今日は授業はできない、と言葉を残して、先生はまた闘争の巷に去ってゆかれた。それ以来、Y先生にはお目にかかっていない。
     ロシア語教室の友人から、南米に渡られた、という消息をうかがったのが、もう30年前のことになる。

     Y先生は御茶ノ水のニコライ堂の隣に在った、ニコライ学院という学校でもロシア語を教えてらしたが、ベルリンの壁が崩壊してソビエト連邦という国がこの世から消滅したのち、いつの間にかその学校もなくなっていた。
     先生からソ連のお土産に頂戴したマトリョーシカとソフビのコサック人形をまだ持っている。
     先生に聞かせてあげようと思って手回しのオルゴールを持っていたのだが(マッドマックスのfirstシーズンの影響なのだ)渡せずじまいだった。メロディはリリー・マルレーンだった。
     そんなふうに私は、諦めが悪いのだった。


    追記:この原稿を書いてアップするまでに5日ほど経ってしまった。その間に、稀勢の里は第72代横綱に推挙された。一昨日発表された手記に、自分を「早熟なのに晩成という珍しいタイプ」と評していた。自分の道を諦めらめきれぬと諦めて、意気揚々と生きてゆく、発奮させられる言葉である。
     
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    武蔵野プレイス ギャラリーコンサート

    2017年01月08日 01時11分12秒 | お知らせ
     JR中央線・武蔵境駅。
     南口へ降り立ちますと、駅前ロータリーの木立の向こうに、可愛らしくも懐かしさを覚える建物が目に入ります。
     1970年代に小学生だった私には…星新一のショートショート小説の挿絵を描いていた、真鍋博のイラストにも似た、総体の角々が丸みを帯びたデザインが何とも言えず、ほのぼのします。
     なんと、図書館なのです。
     小学校の卒業文集に、なりたいもの…私立探偵:本の虫探偵事務所(圧倒的にシャーロキアンだった小学生は、実に昭和っぽいネーミングセンスをしていた)、小・中一貫図書委員だった私が郷愁を覚えずにはいられない場所。

     そんな嬉しい場所で、本日、三味線のミニ演奏会をいたします。

     1月8日(日)新春の調べ~三味線デュオ
      午後2時・4時開演の2回公演。各回30分前に開場。
      各回とも40分ほど。無料です。
      長唄の名曲をダイジェスト版で演奏、解説もいたします。
      演奏曲:吾妻八景、松竹梅、娘七種、元禄花見踊、娘道成寺、連獅子、勧進帳など

     みなさま、どうぞお越しくださいませ。
      
      
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    しみじみの研究:序

    2017年01月03日 17時21分41秒 | お稽古
     2017年到来。平成二十九年とかや。
     街にお正月気分が無い。クリスマスの電飾で力尽きたのか、注連飾りや松、繭玉の装飾が見当たらない。日本人たるもの、正月をニューイヤーではなく、正月として祝わずしてどうする。

     お正月の街を彩る、そこはかとない邦楽の調べも、ついぞ聞かなくなって久しい。
     新年早々耳にしたのは、現代邦楽の調べであった。
     21世紀になってからの邦楽は、洋楽を邦楽の楽器で演奏しているだけで、音色にしみじみとした要素がない。それはそれで、伝統邦楽とは目指すところが違うので、それでいいとは思うけれども、伝統的な楽器を使っているだけで、伝統文化としての邦楽を広め存続させていることにはならない。
     古典音楽としての邦楽の演奏にもその影響は出ていて、しみじみとした音色に心揺さぶられる機会が少なくなった。
     日本独自の文化を昇華させた伝統音楽の魅力が潰えつつあるのだ。

     そんなことを常々考えて、「しみじみの研究」(九鬼周造の『いきの構造』を引いてドイルの『緋色の研究』を捩ってもみた)というタイトルの下、3年前の秋に記事を書き始めてみたものの…四度目の初春を迎えても下書き中なのである。
     これではいけない。
     しかし、邦楽に携わるものとして「魅力が潰えつつある」状況を余所事として看過できようはずもないので、日々精進し、そうならないよう実践できる演奏家に自らを育てなくてはならない。
     構想は絶えずとうとうたらり…と湧きいずるのであるが、掬うすべを知らぬ無力な猿が私なのだった。

     干支も申から酉にバトンタッチした。
     鳥が鳴く 鳥が鳴く…そのけたたましさは前世紀に倍加してうるさい。
     携帯するコンピュータが普及し、DTMのチャカチャカした音が巷にあふれ、アナログの柔らかい音に囲まれて育った者はどうも落ち着かない。
     昭和のころ、邦楽のピッチはA=440ヘルツだった。
     しかし当節は、443ピッチ以上に合わせるのがカッコいいらしいのだ。

     ピッチが上がると、人間は気分が高揚し、攻撃的・戦闘的になるそうである。
     演奏する本人たちはいいかもしれないが、聴かされるほうはシンパでもない限り置いてけぼりにされやしないか。なごみや癒しを求めているとしたら、充足されないだろう。
     まぁ、それも聞く側が音楽に何を求めるかにもよるのだけれども。
     何が美味しいかという舌、味覚もそうだが、音も…自分の耳に慣れ親しんだ音が、本人にとっては一番よく感じられるものらしい。
     
     ちょうど二十年ほど前、自分の中の古典音楽の要素と、現行の洋楽理論とのはざまで、いろいろ感じ悩んでいたころ読んだ、一冊の本があった。
     芥川也寸志『音楽の基礎』岩波新書。
     久しぶりにペラペラとページを捲ったら…ぉぉ、名著というのはいつの時代にも朽ちることなく要点をズバリと表出しているものである。
     以下に引用させていただく。

      ……私が音楽学校の受験用に覚えた標準音の周波数は、A=四三五ヘルツであった。…(中略)ピッチを高くすれば音に張りがでて、楽器では強い大きな音が出せるので狭い部屋で聞くのには適さないが大会場には向く。(中略)
      ……ピッチの上昇化をはじめとするこのような傾向が、今後も際限なくつづくとすれば、音楽の商業主義化に役立ちこそすれ、けっして音楽自身にとって幸福なこととは思われない。  現にバロック音楽の演奏では、現代の標準ピッチをもってしても、やや不自然の感をまぬがれえないのである。……

     以前ご紹介した「長唄絵合せ」を企画したのも、作曲された時代を映し、写した絵とともに在った長唄の世界を、表出したかったからである。
     
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    空間を創出するもの

    2016年11月11日 22時22分00秒 | お知らせ
      君ならで誰にか見せむ梅の花 色をも香をも 知る人ぞ知る
     という紀友則の歌がありました。…しづ心なく花の散るらむ、と桜を歌ったりもしていますね。
     この歌を想い出すとき、白珠は人に知ら得ず 知らずともよし…なんて古歌を、必ずいっしょに想い出します。
     英単語の暗記札ではなく、百人一首の暗記札を必携していた中学生だった私は、とにかく、日本の詩歌が大好きでした。
     大岡信先生の『折々のうた』岩波新書版のシリーズは、二十歳前後、擦り切れるほど読み込んでおりました。講談社学術文庫に入っていた和漢朗詠集も、幾度読み返したことか。
     文学少女がなぜ三味線を弾いているのか、まったく結びつきが謎である、不思議ですね?と訊かれたことがありましたが、日本の音楽は古典の言葉があってこそ成り立っているので、洋楽の音楽理論から邦楽を理解しようとすると躓きます。日本の伝統音楽は、単なる音楽ではないのです。

     さて、わが師・杵屋徳衛がこの26日にライブを行います。
     案内状の文面が素敵だったので、ご紹介いたしたく思いました。
     

    ご案内《杵屋徳衛 Duo 福原清彦》
     築八十四年、銀座1丁目の街角にひっそりと建つ、鉄筋六階建て奥野ビル(旧銀座アパートメント)は、建築当時、著名人が住む憧れの高級アパートでした。
     しかし今となっては年月を重ねた外壁の朽ちたレンガ、天井や壁に網の目のように張り巡らされた配管や配線、すり減り黒光りした階段や手すり、蛇腹式の鉄柵扉を乗客が手で開け閉めする旧式エレベーターなど、昭和の迷宮にタイムスリップをした様な異空間となりました。
     多くの部屋がギャラリー(画廊)となり、現代の忙しない時間とは隔絶され、浮世離れした芸術家たちが集う、ゆったりとした時間が流れています。

     客席三十、奥野ビル六〇七号室の小さな空間で、長唄・杵屋徳衛と、笛・福原清彦の二人の演奏会が開催されます。
     徳衛は、三味線の演奏ばかりでなく作曲や、一人で唄と三味線を演奏する弾き唄い、特にその独特な人物描写と語り分けの妙は他の追随を許しません。あたかも一人芸の落語を聴く様です。
     また、清彦の笛の力強さと作曲や編曲の際の、場面を把握する感性と、それを笛に託す技量は、在り物をつけるというような安易な方法でなく、常にほとばしるほどの情熱を感じさせる笛となり、聴く人に何かを語りかけます。

     通常長唄は唄方・三味線・囃子方、合わせて十人以上の大人数で劇場演奏いたしますが、今回は杵屋徳衛と福原清彦、そして、太鼓の安倍真結の三人きりで、お客様三十人に杵屋徳衛作曲・福原清彦作笛の「牡丹灯籠」と、明治の長唄「紀文大尽」を聴いていただきます。

     今までにない空間体験に、是非ごゆるりとお運びください。

           二〇一六年 秋 佳辰 
                               Duo 事務局

     
     
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    一億総グレ

    2016年10月04日 00時31分31秒 | マイノリティーな、レポート
     比較的若い世代の、伝統芸能ファンらしき方の口から、歌舞伎や文楽のアウトローの気持ちが全然わからない、まるっきり共感できたためしがない…というご意見を伺って、ちょっとびっくりした。
     いや、物凄くびっくりした。だってもともとお芝居なんて、堅気じゃない人間のお話しだもの。
     そもそもが寄る辺なき浮草稼業の、漂泊の民が紡ぐ幻の世界なんですょ。
     
     いまCSで再放送しているので、ついつい見てしまうのが、笹沢左保原作、市川崑劇場の「木枯し紋次郎」である。リアルタイムで見ていた小学生の私は「誰かが風の中で」待っている、待っていてくれている、というあてどないテーマ曲が、途轍もなく好きだった。
     いま見返してみても、エンディングの芥川隆行の「…天涯孤独の紋次郎、なぜ無宿渡世の世界に入るようになったのかは、定かでない」というようなナレーションを聞くたび、言い知れぬ気持ち…切なさと悲しみとなつかしさとが綯い交ぜになったような感情が、鳩尾の底の方からじんわりとわき上がってきて、泣きたくなる。

     自分は木枯し紋次郎に憧れてなぞいないが、その境涯に反して、純粋無垢、純情、愚直とも思える心根の美しさ、潔さに同居する臆病さが好きであった。
     そして彼の不幸かもしれない末路に居合わせることなく、あてどなく旅を続けていく=現在進行形で生きてゆくところを、ブラウン管の外から眺めているのが好きであった。
     自分は木枯し紋次郎のようになりたくはないが、ひょっとすると、自分は木枯らし紋次郎なのかもしれなかった。

     夕暮れ時に、自分の帰る道を見失ってしまった幼子のように、あの街この町日が暮れて、だんだんおうちが遠くなって…結局、人間はこの世に在ってはたったひとり、身内が居ようとも居まいとも、天涯孤独であるに違いはない。
     アウトローならもう一人、日曜夜7時半からテレビ放送の、カルピス子ども劇場ムーミンのスナフキンが子供心にたまらなく好きだったのだけれど、あのお人も漂泊の旅人どすなぁ。

     山あいに大きな太陽が沈む。残映に顔の半分を照らされながら峠の道で、ぽつん、と、独りで居たい。
     すっかり闇に包まれた遠い街の明かりを眺めながら、どうしようもない孤独感に心を浸す。
     そんな風情でもって胸に迫ってくる物語と受けとめることができるのは、前世紀の人間だけかもしれない。
     そうなると、子母澤寛や長谷川伸の、あのとほんとしたうら悲しい世界観の面白さも、当世風ではないのだろうなぁ…

     幼少期から思春期を〈戦争〉という恐ろしい時代に生きた、昭和一ケタ世代の両親に育てられた私は、自分が存在する揺るぎのない世界・価値観というものが、あるとき突然、足許から崩れ去る恐怖というものを、血脈の底に備えられて育ったのかもしれない。

     戦後、日活や大蔵映画のギャングもの、東映がチャンバラからヤクザ映画へと路線変更していった時代を、映画史的側面でしか考えたことがなかったけれども、私が子供だった昭和時代、どうしてあんなにヤクザ映画が流行ったのだろう…と、改めて考えてみる気になったのは、そんな若き演劇ファンのご意見を耳にしたこの春のことだった。

     昭和のアウトロー映画、あれは、戦争という惨たらしい目に遭って、戦後グレてしまった人たちを安んずるための、慰撫の世界なのである。
     昨日まで学校の先生が教えてくれたことは、全部嘘っぱちのダメダメで、今日から忌み疎むべきものであった事どもを第一と奉って生きていかなくてはならない。

     信ずるに足るものは何一つなくて、茫然自失の態を慰めてくれる心の拠り処となる家族さえも失って、不貞腐れた挙句、皆がグレちゃったのだ。
     昭和の頃やはり物凄く流行ったものの一つにハードボイルドというものがあり、それもすっかり廃れてしまったけれども、アウトローの、やはりやせ我慢をする男の物語なのだ。
     そして損得勘定に長けて変わり身が早い21世紀風渡世人でないことは明らかなのだ。

     一億総火の玉となって、燃え尽きたかと思われた日本の国民は、1945年の8月をもって、その催眠状態から解放され、一億が総じてグレたのである。

     一億総グレ入り、でもあったかもしれない。何から何まで真っ暗闇で筋の通らぬことばかり…と鶴田浩二も唄っていたから。

     戦後新たな目標を見つけて、一億総白痴化したりもしていたのだが、
     一億総アウトロー化したりしなかったりで、心の傷を癒していたりしているうちに、時代は変わって…

     いまや一億は総活躍…少年ジャンプのヒーロー祭でしょうか…オラたちは…泣く子と地頭には勝てぬ、と古へにも申しますが、公と称する大義名分の下に無闇矢鱈と税金を取り立てて、ご自分たちの私利私欲に正直な方々のいいように…小手先で使われるために、生きてるわけじゃないのだ。

     一億総…に続く言葉は、グレ、だったのが、20世紀のお芝居世界だったのです。

     20世紀と21世紀には、貫く棒のようなものも存在するのかもしれないけれど、時代は推移し、どうしてこんなに変わっちゃったのかなぁ…という話を、改めて続けたいと思います。

     
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    さても粋〈すい〉な品物め♪(申歳スペシャル)

    2016年09月19日 19時20分09秒 | お知らせ
     表題半ばではございますが、来る22日演奏会のご案内をば申し上げます。
     小田急線・成城学園駅下車徒歩4分、成城ホールに於きまして、
     世田谷邦楽研究会主催、世田谷区教育委員会共催、
     世田谷区民文化祭【第4回 日本の調べ】12時半開演でございます。
     小唄、長唄、笛、囃子、新内など17番を上演いたします。
     入場無料にて、どなたさまもご観覧いただけます。

     17番中、朗読 箏・三絃曲「さると かにの おはなし」(杵屋徳衛作)を勤めます。

     続きまして徳桜社中は三時ごろ(申の刻!)
     「外記猿」をお囃子の、福原道子先生、福原百之助先生ご社中の皆さまとご一緒させていただきます。

     ♪罷り出でたる それがしは ずんと気軽な 風雅もの



     ♪不老門の御前(みまえ)を見れば 黄金の花が 咲きや乱るる



     ♪皐月五月雨 苗代水に 裾や袂を濡らして…植えい植えい早乙女



     ♪猿に烏帽子を着せ参らせて…一の幣立て 二の幣立て 猿は山王まさる目出度き目出度き



     千穐や万歳と、俵を重ねめんめんに、たのしうなるこそ、めでたけれ。

     みなさま、秋のお彼岸の中日を、日本の調べでお愉しみくださいませ。
     
     
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    教養と娯楽のはざまで…3

    2016年09月04日 13時23分00秒 | マイノリティーな、レポート
     転石苔を生ぜずと申せども、石自体の価値が不変と認められるのは無機物なるが故であって、有機物たる人間であるからには、苔むすことによる価値を問いたいもの。
     記憶の虫干し…本棚に在ってここ十数年ほど手にしていない懐かしい友どちをぺらぺらとめくってみますると、

      我邦(わがくに)現代における西洋文明模倣の状況を窺ひ見るに、都市の改築を始めとして家屋什器庭園衣服に到るまで時代の趣味一般の趨勢に徴して、転(うた)た余をして日本文華の末路を悲しましむるものあり。―― 永井荷風『江戸芸術論』岩波文庫 2000年1月刊中、大正2年正月稿

     すっかり忘れておりましたが、1913年当時と現今、相対的にどうかは措いておいて、同じ想いに鳴く虫としては…  
     身近に日本の文化に触れることがなく育ってきた21世紀の日本人の多くの方々は、改めて日本の伝統文化に触れて驚愕してその魅力に開眼する…という、つまり内実異邦人なわけではあるけれども、それがきっかけで自国の文化に親しむようになる方がいらっしゃる一方で、感覚が異邦=外国人であると、微妙なニュアンスを理解することができずに背を向けるか、自らの尺度による注文を付ける。
     文化を供給する側はそうか、そういうことも国際社会においては忖度しなければならぬのか…と思い何らかの変化を施す手段を講ずる、そして文化は変容していくのでありましょう。

     私が物心ついた戦後の昭和期は、大人たちが躍起になって豊饒な平和国家の世界を築き上げようとしていた時代でした。
     それは物質に偏ったことではなく、むしろ精神性が重要とされていたのです。子供のころ読んだ本、五感を養うに接した芸術作品の数々、思えば有り難い時代でした。
     鑑みるに、このじゅうは商業主義…お金儲けになりさえすればよいという発想のもとから生み出される文化的とみなされる物事の数々。
     経済優先となって、人間の鍛錬された技術の上に成り立つ、心の糧となる優れたものは徐々に姿を消しつつあります。コストを下げ大量消費・生産のシステムの下に作られたものは粗製濫造品ばかりで、日常手許において文化的な心を養う道具類とは成り得ません。
     ものづくり日本を海外に向けて標榜するなら、広く職人を育てるに助成となるシステムを構築しなければ、日本の優れた技術は消滅していく一方です。日本の伝統を日々の暮らしで愛でる、生産する人々が廃業するにつれ、庶民にその日常性が失われてしまったのです。
     例えば雪駄一つ取ってみましょう。20世紀中でしたら、立派な本革の畳表の雪駄は3万~4万ほども出したら手に入りました。もちろん消耗しますが修理して長く履けます。
     しかし今は10万円以上、十数万円もします。雪駄の各部分を作る職人が絶滅したからです。日常に気軽に履いたりできません。これでは庶民は、日本文化を身近に感じて愉しむことさえ不可能です。

     さて、芸能にも格の区分けがあります。
     教養としてたしなみ、また娯楽として愛好する…人それぞれですから、自分の信条・心情・身上にマッチしたものを自分で選べばよいのです。
     熱海に海外からの観光客が増えた一方で、有名なお宮の松付近の銅像が非難の対象になっていると漏れ聞きました。
     ♪熱海の海岸散歩する~貫一お宮の二人連れ…という書生節のヴィオロンのメロディに乗って、繰り広げられる通俗なお芝居。明治期に大人気であった新聞小説も、戦後昭和、特に昭和50年代、高度経済成長を果たして、世界に冠たる経済大国の名をほしいままにしていた日本のカテゴリーでは、もはやパロディとしての喜劇、お笑いのネタでした。物質文明に負けて去っていった女を、徹底徹尾憎悪するしかない狭隘な男っぷりを笑う観点も余裕も生まれて久しい時代でした。
     「金色夜叉」において重要なことは情愛、義理人情よりお金を選んだ女の唾棄すべき価値観、そしてまた頑迷な男の、自らのトラウマに固執して一切合切を不幸のどん底に貶めていく暗愚さであって、貫一がお宮を足蹴(あしげ、と読みましょう)にするその一点ではありません。
     そしてまた彼は彼女を蹴飛ばしたわけではなく、縋りついてくる彼女を「ええぃ!」と言って振りほどいたのです。それを漫画的強調、カリカチュアされたのがあのシーンでありまして、お芝居を娯楽としてとらえている者にとっての金色夜叉という物語の象徴なのですね。

     なんという牽強付会な発想でありましょうか。
     フェミニズムの正当性を前面に押し出して、特に深く物事を考えずにぼんやりと平穏無事に暮らしている人々の向こう面を張って脅かして、自分たちの理屈でもってロードしていく、嫌な感じですね。確かに日本人はお人好しで油断が過ぎるのですが、人災よりも天災に気を付けなくてはならない環境に根を下ろして生きてきた風土ですから、ただもう、欧米的発想にはびっくりしてしまうばかりなのです。
     自分たちの先見的で賢明な価値観には在り得ない野蛮な風習を描いた人々の話は聞きたくもない、という一見正当に見える理屈によって、日常であるがゆえに、身過ぎ世過ぎ曖昧なままに日本的なものとともに生きてきた者たちは右往左往してしまうのでした。

     前時代の忌むべき価値観の所産であるものは撤去廃絶せよ、という方々は、自分は色眼鏡をかけない、という色眼鏡をかけているのです。
     自分の物差しで異文化を測るのでは、それらを理解することは到底できません。
     そしてまた前時代の価値観で成り立つものを理解するには、その時代の価値観、考え方というものを知らなくてはなりません。そして一歩踏み込んで、彼我の考え方の違いを知って、なおかつ、過去が存在していた状況から変遷して、それらの事象を客観視できる今、現時代に至ることができたのはなぜか、と考えるべきではないでしょうか。 
     それこそが歴史から何をどう学ぶのか、ということではないでしょうか。
     そうすれば二度と再び同じ轍を踏むという過ち(それを過ちととらえるならば、ですが)を犯すことなく、平和で豊かな未来を招来できるというものではないでしょうか。
     そして初めて、禍々しき過去の時代を再現するという、現実の悪夢から逃れることができるのです。

     教養として歴史を知ることはできても、歴史から生まれたお芝居を娯楽として楽しむには、頭で理解するのではなく心で愉しむことが必要です。
     10分でわかる名作のあらすじを読んで、何が分かるというのでしょう。知っているという蘊蓄をひけらかして自慢することはできるかもしれませんが、含蓄のある美しく優れた日本語の文章と世界観を、心で味わうという愉しみ方は体得できません。

     一方向からの解釈でしか物語の価値を測れないとしたら、日本文化の重要性、魅力を知ることはできないでしょう。
     それにつけて連想されるのが、子供が死ぬ、という一点で非難されつつある歌舞伎・文楽の作品群です。江戸期に発生し明治・大正・昭和をかけて錬成された伝統の演劇は、身分制度という障壁があるゆえに、ただLoveやらPeaceやらいう欧米の芝居より、葛藤が複雑で奥深く、人間が生きるということを描いていると思います。
     昭和時代にたいへん人気のあり、いまでも三大名作として上演され続ける「菅原伝授手習鑑」、これは子供が身代わりになって死んだという、ただそれだけの話ではありません。
     1945年以降の日本には、戦争が終わって何もかも失っても…それは物質だけでなく自らの魂の拠りどころもですが…生き続けなければならぬ人々がおりました。逆縁を呪いながら暮らさなくてはならぬ親たちが、国のために戦争に召集されて死んでしまった自分の子供を悼み、泣きに来る芝居だったんじゃないかなと、私は思うのです。
     それは、八月が来るたび、何の気なしに友達の家に遊びに行ったらお盆の祭壇に軍服の若い人々の写真が供えてあって、「この人だぁれ?」「これはね、戦争で死んじゃった伯父さんなの」という会話が小学生の友人同士にかわされる世代には、身に染みて感じ取れることでした。

     同時代性というものは、教養が娯楽に転じるにおいてまことに重要な要素なのです。
     ですから、21世紀の今、日本の伝統文化たる歌舞伎・文楽・落語(演芸含む)に親しもうと思う若い人々が、20世紀に結実した感覚を血肉として感じられないのは、当然のことなのです。
     そして欧米的尺度でもって批判対象にするしかない、という感情が生まれるのは残念なことです。(つづく)
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