長崎めぐみ教会 tearoom 2

日本イエス・キリスト教団 長崎めぐみ教会から、楽しいお知らせ、牧師のつぶやき、日記、メッセージなどお楽しみください!

「失意の中で」

2018-02-17 11:37:37 | 聖書日課

 

ー神から来る、新たな導きー

オズワルド・チェンバーズ聖書日課「いと高き方のもとに」から

 

 あらゆる導きは、神からのものではない。

人はあなたに言うだろう。「しっかりしろ。沈んだ思いを締め上げ、捨て去るのだ。

そして、その事がらに向かっていくのだ!」と。

これが、人間の通常の導きである。

 しかし、神の御霊が私たちに、「しっかりしなさい」とささやかれる時、

その時、初めて、人の言葉の空虚さと、神の言葉の実質(確かさ)を知るだろう。

 

 私たちは誰でも、若い時には多くのビジョンや理想を持つ。

ところが、やがて、それを実現するだけの力が自分にないことを発見する。

私たちは、したいと思っていることをすることができない現実の壁に遭遇し、

抱いていたビジョンや理想を、そこで、死んだものとして、葬り去る。

その時、神は来て、「死者の中から起き上がれ」と言われる。

 

 神からの語りかけ(霊感)が臨む時、奇跡の力を伴う。そのため、私たちは

死者の中から起き上がり、不可能なことを行うことができる。霊的に導かれる

ことの特徴は、私たちが「起き上がった」時、神のいのちが訪れる(業が始まる)

ということである。

 神は私たちに、勝利あるいのちを与えられるのではなく、私たちが勝利する時に、

いのちを与えられるのである。

 

 神の霊感が臨んで、「死者の中から起き上げれ」という声が聞こえたら、

起きあがらなければならない。神が私たちを起こして下さるのではない。

主は、手の不自由な人に、「手を伸ばしなさい」と言われ、彼がそのようにすると、

その手はたちどころにいやされた。


 このように、、まず、(自ら手を伸ばして)勝利を勝ち取る時に、

ただちに神からの新しいいのちにあずかり、それによって、私たちは神から来る

新しい霊の力を得たたことを知るのである。

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雨上がり

2018-02-15 17:46:57 | ひつじかい日記(2)

 

 

2018年2月12日(月)憲法記念日振替休日

 

日本フィル長崎公演 ※オールベートーベン

「コリオラン」序曲/ピアノ協奏曲第3番/交響曲第7番 

指揮 井上道義

ピアノ 反田恭平 

ピアノ協奏曲第3番の後のソロピアニストのアンコール曲は「エリーゼ」。

オーケストラのアンコール曲は「ガブリエルフォーレ」(だったか??)

これがまた、、

言葉で表現するのが難しい

私の中から出て来るのは、ただ、ため息ばかり、、、、

 

🌸

帰路、ブリックホールから、新里病院に立ち寄った。

94歳のMさんの意識がだんだんと遠のいている様に思えて、

現実に引き戻され、

一瞬にして、ベートーベンが吹っ飛んだ!!

 

13日(火)

朝、起きるなり、カーテンを開けて、雨も雪も大丈夫なのを確かめて、

3月18日のファミリー集会のチラシを握りしめて、

教会を飛び出した。

会場の安田オーシャンに比較的行きやすいと思われる

日並郷に向けて車を走らせた。

丁度100軒で新興住宅街が配り終え、

帰路、久留里の焼きたてパンで朝食を済ませた。

その美味しかったことと言ったら、

これもまた、ことばで言い表せない。

 

14日(水)

朝、散歩がてら、ファミリー集会チラシ50枚。

配布の数が増えるにつれて、

まるで、貯金がたまるかのように嬉しい。

この配布を通して、新来会者が与えられると、倍して嬉しい。

その方が、イエス様と出会ってくださると、

その喜びは、天にも昇る思い。

水曜祈祷会,いつもこられている方から、「急用によりお休みします」のラインが入り、

礼拝堂で、一人主の御前に静まり、めぐみのひとときを頂く祈りの日となった。

祈りの中で、予てから気になっている方がいて、

(他府県の方ですが、)ライン電話で少しお話しをした。

結局、夜に再度ライン電話でのお交わりになったが、

その方の生涯を見据えて、厳粛な思いになり、

祈りの重荷がウント与えられた。

その方にとって、2018年が、残りの生涯への大きな変革の一年とされますように!

さらに、

気になっていた方々からラインで近況報告が届いた。

心がひきしまる。

祈りで応援する以外に思いつかない。

現状の厳しさに、

心がひきしまった。


しかし、「神にはできないことはない。」

どのような壁も、神様は取っ払われると、

心配が大波のように押し寄せる中で、

信じた。

 

 

15日(木)

今日も、起きるなりカーテンをめくって外を見た。

雨だ、、、ガッカリ。これでは、チラシ配布のポイントは上がらない。

けれども、ウエブ天気予報によれば、時津は、午後になれば、雨後曇りとなるトカ。

「ホントかな~」と、外を見つつ、事務処理をしたり、お休みされている方々へ手紙を書いたりしていると、

気が付けば、お昼ごろになり、本当に雨がやみ、

「遠い山並み」を覆っていた霧も上昇していった。

いそいそと、

外国語大学にポスターを張らせてもらい、

そのまま、先日の日並方面の続きをチラシ配布。

ポイントがさらに50上がった。

(♪この喜び)

そのまま、日並の浜勝で、遅めのランチ。

高騰しているキャベツと、ごはんと味噌汁までおかわりしたら、

浜勝から車まで移動するだけでも困難なほど、体全体が大きくなりすぎた気がする。

年の割には、私は自制の実が乏しいように思え、

反省しきり。


 

 

 

 

 

 

 

 

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イギリスのある老婦人の遺詩から

2018-02-13 03:36:12 | 

<イギリス・ヨークシャー・アシュルティ病院>

アシュルティ病院の老人病棟で一人の老婦人が亡くなりました。
彼女の持ち物を調べていた看護師が、彼女の遺品の中から彼女が書いたと思われる詩を見つけました。
彼女は重い認知症でした。

 



何が見えるの、看護婦さん、あなたには何が見えるの
あなたが私を見るとき、こう思っているのでしょう

気むずかしいおばあさん、利口じゃないし、日常生活もおぼつかなく
目をうつろにさまよわせて食べ物をぽろぽろこぼし、返事もしない
あなたが大声で「お願いだからやってみて」と言っても
あなたのしていることに気付かないようで
いつもいつも靴下や靴をなくしてばかりいる

おもしろいのかおもしろくないのかあなたの言いなりになっている
長い一日を埋めるためにお風呂を使ったり食事をしたり
これがあなたが考えていること、あなたが見ていることではありませんか

でも目を開けてごらんなさい、看護婦さん、あなたは私を見てはいないのですよ
私が誰なのか教えてあげましょう、ここにじっと座っているこの私が
あなたの命ずるままに起き上がるこの私が
あなたの意思で食べているこの私が誰なのか

私は十歳の子供でした。父がいて、母がいて兄弟、姉妹がいて、
みなお互いに愛し合っていました
十六歳の少女は足に羽をつけて
もうすぐ恋人に会えることを夢見ていました
二十歳でもう花嫁。私の心は躍っていました
守ると約束した誓いを胸に刻んで
二十五歳で私は子供を産みました
その子は私に安全で幸福な家庭を求めたの

三十歳、子供はみるみる大きくなる
永遠に続くはずのきずなで母子は互いに結ばれて
四十歳、息子たちは成長し、行ってしまった
でも夫はそばにいて、私が悲しまないように見守ってくれました
五十歳、もう一度赤ん坊が膝の上で遊びました
私の愛する夫と私は再び子供に会ったのです

暗い日々が訪れました。夫が死んだのです
先のことを考え----不安で震えました
息子たちはみな自分の子供を育てている最中でしたから
それで私は、過ごしてきた年月と愛のことを考えました

今私はおばあさんになりました。自然の女神は残酷です
老人をまるでばかのように見せるのは、自然の女神の悪い冗談
体はぼろぼろ、優美さも気力も失せ、
かつて心があったところには今では石ころがあるだけ

でもこの古ぼけた肉体の残骸にはまだ少女が住んでいて
何度も何度も私の使い古しの心をふくらます
私は喜びを思い出し、苦しみを思い出す
そして人生をもう一度愛して生き直す
年月はあまりに短すぎ、あまりに早く過ぎてしまったと私は思うの
そして何者も永遠ではないという厳しい現実を受け入れるのです

だから目を開けてよ、看護婦さん----目を開けてください

気むずかしいおばあさんではなくて、「私」をもっとよく見て!

出典「変装-私は3年間老人だった」
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11日礼拝説教「信仰とは、」

2018-02-12 10:39:25 | 説教メモ


「信仰とは、」ヘブル11:1-6

 

 私たちクリスチャンは、主イエス・キリストを信じることによって救われました。神の子とされた私たちが、神を信じる信仰によって生きることは神のみ旨ですが、では、「信仰」とは?

 

1.信仰の定義について、(1)

  見えるものは、見えないものから出来上がっている。例えば、家ができる為には家の設計者が、服ができる為には、服のデザイナーがいるように、私たちの人生もまた人生の創造者がいる。イエス・キリストを通して神の子とされた私たちは、人生の全てを創造者から「信仰」によって相続する者とされている。新改訳(旧)は11節を「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」と訳す。端的に、信仰=保証 信仰=確信。例えば、小切手はお金ではないが、銀行でお金に換えることができる保証書。そのように、信仰とは神様からの保証書と同じであるとみ言は語っている。神様から純粋な確信が私たちの心に深く植えつけられる時、それは、小切手を得たことと同じで、まだ現金は見ていなくても、銀行の受付に行けば、確実にお金を手にできる。小切手の裏には、イエス・キリストというサインが押されている。                                                                                                                                                                      ※決して、自分の願望や欲望を強く念じることによって、思いがかなえられるということではない(マタイ6:7「異邦人の祈り」)。

  真の信仰は、どこに基盤を置いているかが大切で、神の言葉の上に信仰を置く時、神による御業が始まる。ヨハネ1:1の「はじめに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」の「ことば」「ロゴス」の別訳は、「道、デザイン、計画、型、理想」等。神はみ言葉によって、全てをデザイン(創造)された。この驚くべき神の言葉が、イエス・キリストを通して、今、私たちに与えられている。     (その様な意味で、信仰とは神のことばによって生きることとも言える)

 

2.神に喜ばれる信仰について (6)

 マルコ9章で、「口をきけなくする霊にとりつかれた」(17)息子の父親は、「しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください。」(22)と、イエス様に願い出た。その時イエスは、「もしできれば、と言うのか、信じる者には、どんな事でもできる」(23)と、答えられ、父親はすぐに「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」(24)と言い直し、子どもは無事癒された。ここでの大きな課題は、「しかしできますれば、」と願ったこと。英語では「if You can do」、これは大変不信仰な求め方。私たちもまた、「もし、みこころならば、」と祈る時にも、「本当にみこころだったらどうしよう」と、二心を潜めてその様に言う場合もあり、また、「み旨に従おう」と、決心して一心に祈る場合もあるが、神のみ旨と確信できているならば、単純にそれを求めれば良いので、それは、すでにきかれている祈りとも言える。マルコ11:22-23の「神を信じなさい」(22)は「神の信仰を持て」という意味で、信仰もまた、神様が与えてくださるので、神様から来る信仰を持てということ。ですから自分の信仰が薄く、現状に間に合わない時には、「主よ、あなたの信仰をください。」と、神に信仰が与えられることを願うことが大切。

 9章の父親の「不信仰な私をお助けください」(24)のギリシャ語は、本来「信じます。どうか、私の信仰の足りない部分を助けてください」と言う意味で、私たちの信仰が不完全且不信仰であっても、神様は信仰の足りない部分を助けて下さる。神様は、「信仰」の管を通して、この地上に主のみ思いを現実にしようと、常に働いておられ、神の御業が地上で成されるために、私たちの信仰を必要とされているので、不完全なままでも、純真に、幼子のように、私たちが必要を神様に願いでることを喜び、待っていて下さる。「もし、信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」(ヘブル10:38)                                           「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身に求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。」(6)。たとえ、小さい信仰でも、主は喜んで求める者に答えられる。

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詩「二ーバーの祈り」

2018-02-09 05:31:21 | 

 

 

「二ーバーの祈り」

 

神よ、

変えることのできるものについて、

それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。

 

変えることのできないものについては、

それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。

 

そして、

変えることのできるものと、変えることのできないものとを、

識別する知恵を与えたまえ。

 

ラインホールド・二ーバー(大木英夫訳)

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