シベリア抑留死亡者遺児の会

父親をシベリア抑留で亡くした遺児の会。墓参・埋葬地調査・遺骨収集・慰霊碑の建立・慰霊祭の情報を交換し風化防止に努める。

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コメントを頂きました

2014-04-06 17:03:29 | シベリア抑留

休眠中のようなBLOGに昨日コメントが入りました。

義理の叔父様がシベリア抑留者で、その抑留記を

ご投稿頂きました。

書かれた方・投稿者のお名前が「魔除けに牛島辰熊」

とあります。あの柔道家と同姓同名でしょうか?

ありがとうございました。

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シベリア抑留中死亡者名簿

2014-02-03 17:49:25 | シベリア抑留

村山常雄様の長年にわたる労作「シベリア抑留中死亡者名簿」は2005年8月にインターネットでホームページで公開された。

2007年7月にそれを「シベリアに逝きし人々を刻すーソ連抑留中死亡者名簿」として出版された時、ホームページも一部追加・修正された。

先週(2014年1月31日)に全面改定されたので、是非ご覧頂きたい。

http://yokuryu.huu.cc/index.html

シベリア抑留死に関しては

①広島や長崎のような慰霊祭が行われる訳ではない。

②慰霊碑どころか死亡者数も分からず、遺骨収集は未だ約17,800柱

③平成21年10月に約70万枚の日本人抑留者の資料入手とか平成24年9月に抑留者移送資料6000冊が保管されている報道されたが全く進展はない。

④平成22年に特別措置法が制定され、その13条で「実態調査」が決められたが・・・

遺児仲間の集いなどで、上記の名簿に掲載のない人が、未だ15%から20%居られる。

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再開のご挨拶

2012-05-25 08:16:36 | シベリア抑留

去る4月2日より、GOOから週一回、この休止中のBLOGへのアクセス数の連絡が入るようになった。それによると「一週間のページビュー数が496PVでその前週比17%増、訪問客数は315人」とある。

2011年8月26日以来休眠中で、覗いて頂いた方を失望させ申し訳なくお詫致します。

書かなくなったのは、慰霊の気持ちが無くなったのでもなく、父の遺骨収集を諦めた訳でもない。 逆に、「急ぐべし」と益々思う気持ちは強くなり、去る3月に、厚生労働省へ「埋葬地再調査」に関する陳情書(これまで3度行った現地の状況を20数頁にまとめた)を出した。

一昨(2010)年6月に「シベリア抑留者特別措置法」が成立した。報道では、抑留帰還兵への給付金が支払われた事ばかり報じられているが、この特別措置法の「第13条」では「その実態調査を政府に基本方針の策定を求めている」ので、我々遺児にとっては「やっと始まった」である。 

昨年3月にこの法律による埋葬地調査の陳情に行く予定だったが、あの東北震災を思うと自分の事だけ言っては居れないと遠慮した。 勿論この1年はその法律に添った進展はなかった。

「国が引っ張りでしたのだから、その死亡者の遺骨は持ち帰る義務がある」と思いませんか? 自分で勝手に旅行に出掛けた訳でもなく、公費モスクワ大学留学生でもないし、「志願兵」でもないのです。

私は父を連れ帰るまで絶対に諦めません、国がやることですが、やってくれなければ、自分でやるしかないのです。

来る6月7日にある「シベリア抑留帰還者の最後の戦友会」が開かれる、最後だから舞鶴でと決まったが、私はこれまで毎年参加し、お世話になった方にお会いしたいが、「私の父は舞鶴へは帰還出来なかったので」と参加を断った。その会にはモンゴルから帰還された方が「相撲でモンゴル力士が出てくるとTVを切る」と言われる方が二人居られる。

次回からそのようなことでも記して見たいと思う。

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DHA鑑定に付いて(その2)

2011-08-26 13:12:43 | シベリア抑留

DNA鑑定に付いて(その2)

 

去る8月10日に、休眠状態中の我がBLOGにコメントを頂いた。

それは「叔父のDNA」と題して:

『約80年住んでいた実家を解体したところ、シベリヤ抑留で亡くなった叔父の

竹本克己のへその緒が仏壇の奥から出てきました。直後にDNA鑑定で遺骨

の特定をしていると聞き何かの導きではないかと思い連絡しました。あまり確率

の高いことではないかもしれませんが、どのようなことか教えてください。』

 

それに対して下記のような回答を入れたが、その後進展はない。

 

先ずDNA鑑定をするには竹本克己様の埋葬地が遺骨収集されているか

を調べる必要があります。その為収容所か埋葬地を探そうと致しましたが、

厚生省発表死亡者名簿や村山リストに竹本克己様の氏名が掲載されて居りません。

 

下記の厚生労働省からロシアへ問い合わせ中の「資料未提供者名簿」

http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/syakai/soren/miteikyou/html/ta.html

で「アルタイ地区アルタイ収容所」だと分かりましたが、その収容所の

遺骨収集の状況が不明です。

 

DNA鑑定は平成11年以降に収集されたご遺骨に付いて平成15年

より行われて居りますが、私のBLOGの2007年7月13日の段階で

380柱特定でしたが、先週発表の

http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000001lcws.html

の2-(2)-アに、平成22年度末までに801柱身元が判明とあります。

 

次に頂いたコメントに「へその緒が出てきた」とありますが、もし貴方様が

向野元治様の血の繋がりのある甥でしたら、その「へその緒」でなく、貴方の

検体でDNA鑑定が出来るはずです。

「へその緒」が見付かった事は大変幸運な良いことだと思います、どうぞ

ご遺骨が返還されるまで、ご遺骨の代わりとしてお墓にお納めになられる

事をお勧め致します。

 

そして竹本克己様の死亡公告書をお調べになり、アルタイ収容所の細部の支所名

などお調べの上、下記へその収容所の遺骨収集状況をお聞きになられる事を

お勧め致します。

〒100-8916東京都千代田区霞ヶ関1-2-2

厚生労働省社会・援護局援護企画課外事室、

担当:外事企画係、TEL03-5253-1111(内線4520)

 

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航空100年

2010-12-18 18:19:16 | Weblog
私の手元に「航空50年 1910-1960」という、5枚一組の記念絵はがき
が有る。何時・何処で入手か全く不明だが、1960年といえばその年に航空
会社に入社した。
製作は財団法人日本航空協会とある。 その中の1枚に:
 
明治43年(1910)12月19日、わが国最初の動力付飛行機の公式
飛行実験が、代々木練兵場で行われ、アンリ・フアルマン機に搭乗した
徳川好敏大尉と、グラーデ機に搭乗した日野熊蔵大尉とは、それぞれ
初飛行に成功、わが航空史の輝かしい第一頁がひらかれた。
(上空をとぶフアルマン機と地上のグラーデル機。右上=徳川大尉、
左下=日野大尉。フアルマン機の記録、高度70米で4分間)
とある。明日12月19日は日本の航空100年記念日である。

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読売新聞

2010-10-30 13:44:50 | シベリア抑留
2010年10月29日の読売新聞に「戦地の父、娘の絵肌身離さず、新潟の女性、遺品返却の元米兵と対面」と長女の書いた絵を硫黄島で息絶えた日本兵の胸ポケットから見つけた元米兵が家族に返したニュース、女性は「父が家に戻って来たような気持ちになり、うれしかった」と
私も父の戦友に「私の写真と印鑑」を届けて頂いた。その大事な写真をどうしたか失念した。何も入っていない、返還された「白木の箱」に入れてお墓に収めたか?その写真は私の節句の時のもので、満州では良い節句人形が入手出来ず、母が恥ずかしいからと人形棚を切って、人物だけの写真が残っている。私の病気療養の為に一時帰国で、戦況悪化のため満州に帰れなくなった、写真も何もかも全て満州に置いたままで、他に写真があるはずがない。とすると、あの写真がシベリア帰りの写真か?母は息子の写真だけで、自分のものが無い為からの嫉妬だったのか?
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露、対日戦勝記念日

2010-09-02 08:47:33 | シベリア抑留

1年ぶりの再開である。脱線事項が多く、本BLOGの趣旨である、
遺児の仲間集め、情報交換、助け合いを逸脱し、中止を考えていた。

反面複数のマスメデイアの目にとまったり、その間に「シベリア特別
措置法」が成立したりで、継続考慮中。

今日はロシアでは「対日戦勝記念日」である。
我が前BLOGの続きだが、昨年の8月30日からチタ市に3日滞在
し、慰霊祭を執り行った。その間日本の選挙結果が気に成りTVを視
るが、スターリンが度々画面に出る65年以上前の戦争記録写真であ
る。言葉の分からない悲しさ、なぜこんなにどのチャンネルもと疑問
を感じた。

チタからシベリア鉄道に40時間乗りハバロフスクへ、翌9月4日に
日本総領事館を表敬訪問した、その時副総領事から「9月2日は領事
館前を毎年デモされるが今年はなかった」と挨拶の中で初めて知った。

ロシアには独ソ戦の戦勝記念日5月9日があり、今年は65周年で
約30カ国から首脳を集め、記念式典が行われた。それに次ぐ第2の
戦争に勝った記念日(?)日本がミズリー艦上で降伏文書に調印した
日を・・・、愛国心高揚の一環とするのだろうか
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シベリア慰霊巡拝(7)

2009-09-20 17:43:53 | シベリア抑留
2009年9月1日
午前中「ザバイカルホテル」で合同慰霊祭を行った。団長の追悼の辞は遺児・遺
族のこれまで63年間の気持ちを十分にご理解頂いた大変素晴らしいことばだ
った。
昼食はグルジア料理できのこ、スープ、パイなどめずらし料理で、しかも食べき
れない程沢山出た。
昼食後、中央慰霊公園を訪ねた。これは東京ヤゴダ会が建立したもので、僭越な
がら私が説明させて頂いた。ホームページの「慰霊碑1」をご覧下さい。
そこへ管理をお願いしている法律学校のナターリヤ・アレキサンドロ・シュリチ
ナ副学長が我々の訪問に気が付き出て来られ、しばらくお話をしました。綺麗に
清掃管理されている事に礼を言い、引き続き管理をよろしくとお願いすると、
「今日から学校が始まり生徒が登校して来たが綺麗に使うように伝えてあります
、勿論しっかり管理します」と約束して下さった。
9月1日は新学期の始まりで、頭に白いリボンを付けて両親に連れられた子供を
多く見かけた。
その後時間が残ったので郷土博物館(入場料外人R100,チタ州に居た動物、モン
ゴル、戦争、医学の収集展示)へ行った、そこで小学6年生が先生に引率されて
いる一団とすれ違った、「ニーハオ」と言うから、「我々は中国人ではなく日本
人だ」と言うと先生がびっくりし、興奮して生徒を集め一緒に写真を撮ると言う
国際交流ハプニングがあった。先生は今頃生徒にシベリア抑留に付いてどう教え
ているのだろうか?学校は小中高一貫性が多く、授業料無料、大学は有料の場合
もあるとか。少しホテルで休憩の後、11時過ぎにチタ駅に向い、到着が遅れ、
24:31発が02:40に出発した。ハバロフスクまで40時間の汽車旅。
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シベリア慰霊巡拝(6)

2009-09-19 09:41:08 | シベリア抑留
2009年8月31日
ロシア語TVでおぼろげながら選挙の結果が分ってきた。鳩山由紀夫日露協会会長に我々の悩み、遅々として進まぬロシアに於ける遺骨収集を促進して頂きたいものである。
先ずザバイカル地方政府へ表敬訪問した。長く抑留問題に拘り多くの日本人を知っていると言う、ザイテキン氏のスピーチは日本の方が詳しい情報を持っているが、地元(埋葬地近くの)に聞いてくれとの事だった。
ランチはチタ市の北西部の新興住宅地に新しく出来たショッピングモール「マクシイー」の中の「桜」と言う日本料理店で食べた。このショッピングセンターには驚いた、ルイビトンこそないが、ブランド品がずらり、電気製品も大量に並び、外資系ファーストフード店など、誰が買うのかと心配になった。
昼間は暑く23度だった。
午後、カダラ墓地を訪れ、蚊の大群の中で追悼式を行った。最近ここの大隊長さんとお手紙の交換をしたが、やはり部隊が纏まっていたり、上官が立派な方の場合は遺骨収集にも繋がっているようだ。ここは平成14年295柱、15年28柱、17年58柱と公明党の力も借りて収集された。そして戦友会で募金を集め立派な慰霊碑を建立された。
夕飯は2年前泊った「ザバイカルホテル」のレストランで、本日で個人追悼式も終わったのでビールを呑んだ。「バルチカ」と言うブランドが人気が有る様で、度数によって⑩から①まで番号が付いて居る、値段は¥70(スーパー)-¥180(シベリア鉄道内)―¥300(ホテル)ぐらい。
その他ロシアではシャンペンが安くて美味しいが今回は呑む機会がなかった。グルジア料理を食べたがグルジアワインは遂に呑まなかったのはノンべーとしては残念。
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シベリア鎮魂慰霊祭

2009-09-17 18:09:42 | シベリア抑留
11月3日は特別の日です。慰霊鎮魂の日です。
千鳥が淵墓苑へ集りましょう。
どうかご一緒にシベリア抑留犠牲者鎮魂慰霊祭を実行しませんか。
お誘い併せられましてご参加下さい。

集合    正午

式典    千鳥が淵墓苑拝礼所          12:30
 式典要領:国歌 黙祷 慰霊の言葉 読経 奉納演技
      (吟詠 謡曲 歌謡)献花 1,000円

懇親会   九段会館地下「千成」         15:00
 貸切 飲み放題 食い放題      4,000円

資料をお送り致しますので、メールにてご住所をお知らせ下さい。
返信用ハガキと会費振込の郵便振替用紙を同封致します。

             東京ヤゴダ会役員一同
 
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シベリア慰霊巡拝(5)

2009-09-17 07:23:20 | シベリア抑留
8月30日、ボルジャからチタへ7時間の移動である。実質475KM走った。

8時に出発、隣町のハダブラクに寄る事となり、私にとってはそこで父上・兄上
を亡くされた方を3人知って居り、代わりに墓参出来た事は大変幸運だった。

シエルロバーヤムに着き、ガイド(観光地でもあるまいし)を拾い慰霊碑の立つ
丘へ向った。ガイド氏によると「100万トンのガレキの下にご英霊達の墓があ
る」と聞いて怒りにも似た、胸がキューンと引き締められる思いをした。

そこは松間さんから頂いた写真、慰霊碑調査団から頂いた写真、私のホームペー
ジとは食い違う点が多々あり、それは何故だか解せない。菊地さんはこれまでに
此処へ3回来られ、今年6月にも訪れられて新しいた塔婆が有った。
481名と大変多くの犠牲者を出した所、シルロバーヤムの街、かっての東清鉄
道で満州からシベリア鉄道に繋がる鉄道や幹線道路が見下ろされる丘の上で、途
中野原で摘んだ花と折鶴を供え拝んで来た。

今硫黄島で滑走路の下の遺骨収集が問題になって居る。何百トンでも掘り返せ、
広ければ膨大な人数を投入して探せ、シベリアが広いのは万人が知るところだ。

3時過ぎにノーバヤ(日本遺族会の巡拝で大元さんと私の慰霊祭をした墓地)に
着き、そこでお二人の追悼式を行ったが、実際はモルドイ(3020、ここから
300KM)で兄を亡くされた方と、ベルフナリム(3008、3009)で父上
を亡くされた方の追悼式。

ベルフナリムはこのBLOGにコメントを入れて頂いたシンンガーソングライター
のYAMATOさんが、明年伯父上の巡礼を予定されている所である。我々のバ
スは少しでも近くまでと、途中10KMほど南下した。

チタのホテルには6時に着いた。
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シベリア慰霊巡拝(4)

2009-09-16 18:10:27 | シベリア抑留
2009年8月29日、今朝は快晴、+3度ぐらいとドライバー氏
9時に出発しボルジャには2時ごろ到着予定との事だったが、ショートカット路
をある時は川の中、急勾配ではないが峠越え、小休止でお供えの花を摘みながら
212KM走り、1時過ぎにボルジャ市役所に到着した。
ボルジャに付いて簡単に説明すると、満州(現在の中国東北部)のハルピンから
シベリア鉄道のチタへ鉄道が走っている(昔の東清鉄道)途中満州里は中国側、
国境を越えた所のロシアのボルジャである。日本人抑留者の拉致されたコースで
である。今回の参加者の父君はこのコースの入ソが多かった。私も最短コースな
ので始めはこのコースを調べたが未だジーゼルなので時間が掛かる。私の父の入
ソコースは、ここより西の、黒河―ブラゴエシチンスクからで、総抑留者の3分
の2がこのコースから入ソした。
中国に近く、モンゴルにも近い、ブリアート人の故郷とか町を歩く人はババロフ
スクとは違う。レストランの料理も中国の影響があった。
そこからは市役所の方の案内で、ランチの後、第1940野戦病院(戦争もしな
いのに野戦とは?)の跡地で、現在もそのまま内装を変えただけの博物館になっ
て居り見学した。第1942野戦病院で父上を亡くされた方が壁や柱を撫ぜて歩
かれていて鬼の目から涙、第1942病院の方は何処に有ったかも分らないと
の事、又日本人のものであろう「神田」と名前が記された鉄兜が展示されていた。
訪問者記帳をすることになりページを捲っていたら3年前にここに来られた、私
の遺児仲間,ベルフナリムで父上を亡くされた立川さんのサインが見付った。
それから埋葬地での慰霊祭に向ったが、大変広い場所で全く何処だか分らないと
の事、病院は駅の近くで如何してこんなに離れた場所に・・・と不思議でならない。
帰り道で日本人が作った学校を見たが完成は日本人の帰った後との事だった。
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シベリア慰霊巡拝(3)

2009-09-15 10:54:27 | シベリア抑留
2009年8月28日、
バレイ墓地での慰霊祭を済ませて市役所に帰ってきたらお昼になった。
そこからはベルーハでお父上を亡くされた4人の方だけが行かれる事となった、
此処から先は狭い悪路を2時間以上掛かるので、特別の車が用意せれ団長、通訳
の6人で向われ、我々他の者はホテルに帰った。
ベルーハは過去に2度遺骨収集が行われ、来月早々に3度目の収集が行われると
の事、私はシベリア抑留帰還者の大内様が何度目かに参加されて、その埋葬地の
お話は聞いていたが、全員で行って追悼式が出来ないのは大変残念だった。
6時半に6人が帰って来られた、本当にお疲れ様でした。その報告によると大変
狭い・悪路で、車の中で空中遊泳の様だったとか、以前焼骨した場所からは車も
入れず、3-400M歩いたとの事だった。
捕虜はそこまで歩かされたのだろうかと皆で話した。

バレイのホテル「サナトリュウム・ウルグチャン」に我々3泊したが、温泉が有
るとかだったが、最初の夜はお湯も出ず、昨晩やっとシャワーを浴びたが、日本
で言う湯治場か、随分遠方からお客さんが来るとか。
前回泊ったバレイ市内の電力会社の寮よりは少し良いが食事がお粗末だった。
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シベリア慰霊巡拝(2)

2009-09-14 16:49:14 | シベリア抑留
2009年8月28日、
今日はバレイ(第25収容所第5支部 163名死亡)への慰霊巡拝である。
朝大変な気温で零下3度、未だ8月なのに・・・9月始めに雪が降った事がある
とは聞いているが、近年流行の異常気象ではない、父達抑留者を悩ませた寒さの
片鱗を感じる事が出来た。
バレイには6年前に息子と来て、此処に2泊し父の埋葬地調査をした。その時の
模様は、ホームページの「慰霊碑17」で取り上げている。
http://www3.plala.or.jp/naga0607/r17.htm

ホテルから約40KM、35分でバレイ市役所に到着、副市長と面談、金鉱山の
ある町(日本の抑留者もその金山で働かされた)で市役所も立派、珍しく綺麗な
トイレが使えた。

6年前に泊まったホテルの直ぐ裏が市役所で、近くにバザールも有ったのは知ら
なかった。あの時は怖くて深夜まで外から音楽が聞こえていたが外出はしなかった。

市役所から墓地まで悪路を15分、此処を訪ねるのも2度目。前回はゴミ捨て場
で牧畜の糞が有ったので、帰国後厚生労働省へ「遺族の心情を考えてあそこは見
せない方が良い」と手紙を出したものである。しかし今回は草が伸びてその様な
事は感じなかったのは幸いであった。雑草の中で咲く花を皆でお供えする花に摘
み取った。国や気温は違えども日本の七草と同じだったので、毎日の様にバス移
動中の休憩時にこのように野花を摘み取ってお供えした。

姉妹でご参加の方の追悼式を行った、満州からの引揚げで大変ご苦労されたと聞く。

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ソ連抑留中死亡者慰霊巡拝団に参加して(1)

2009-09-13 11:24:18 | シベリア抑留
政府派遣 ソ連抑留中死亡者慰霊巡拝団 平成21年度のザバイカル
地方コースに参加した。
期間は8月24日から9月4日
詳細旅程は http://www.mhlw.go.jp/za/0810/c06/c06.pdf の
別紙6をご参照下さい。

13日間に10箇所の埋葬地又は慰霊碑を訪れる慰霊巡拝の旅でした。
シベリア鉄道73時間、車中3泊、総勢15名で思い出に残る、父達へ
の慰霊の旅でした。
先ず最初に5日目の8月27日、私の父達56名の死没地ベルシーナ・
シャフトム村(通称。帰還兵の方はシャフタマと呼ばれる)を訪れた。
そこで厚生労働大臣の献花のもと、政府派遣巡拝団、総勢15名による
追悼式を行って頂けた事に対し大変感謝致して居ります。
恐らくこれが最初で最後かと思われますが、厚生労働省・国のこの様な
僻地への巡拝のご配慮・お手配に対して厚く御礼申し上げます。

この埋葬地は未だ埋葬場所が特定出来ず遺骨収集に至って居りません。
収容所の向かい側の小高い丘の中腹、樹木の生育以外64年間手付かず
の白樺林、幅300メートル、高さ50メートルの範囲内に父達は必ず
眠って居ります。
それだけに私も諦めが付かず、今回が3回目の訪問です。
今回は調査など出来ず、慰霊巡拝でしたが、村長に会え、顔つなぎが出
来て、調査続行に対しての協力を依頼出来た事で大変有意義な訪問でした。

出来たら訪問した埋葬地を写真入りでアップしたいと思います。
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